日本大百科全書(ニッポニカ) 「ピコ・デラ・ミランドラ」の意味・わかりやすい解説
ピコ・デラ・ミランドラ
ぴこでらみらんどら
Giovanni Pico della Mirandola
(1463―1494)
イタリア・ルネサンス期の哲学者。北イタリア、ミランドラの領主の子として生まれる。14歳にしてボローニャで教会法を学び、フェッラーラで文学、哲学に接し、パドバでスコラ的アリストテレス主義とアベロエス主義の体系的研究を始め、アラビア、ユダヤの思想にも興味をもった。さらにフィレンツェに出てフィチーノをはじめとするプラトン・アカデメイアの人々と親交を結び、パリ滞在を経て、1486年イタリアのペルージアでカルデア人の書物、カバラ、コーランを研究後、ローマで『哲学、カバラ、神学の諸結論』を出版した。
この書物は、いろいろな国の宗教的、哲学的伝統は共通な源泉をもつという確信から、それらの総合を目ざして、自分が学びえたあらゆる立場の考え方を集めた402の論題と、自ら新しい哲学的解決を導入したり、キリスト教の真理を種々な文化伝統の収斂点(しゅうれんてん)として証明しようとする論題など、900にも上る論題をまとめたきわめて広範な集大成である。ときに弱冠23歳であった。この論題について、1486年にローマで公開討論するため、多くの学者に招待状を出すが、法王庁が疑義をもち、討論は禁止された。このとき書かれたのがのちに著作となった『人間の尊厳について』である。その思想は、あらゆる宗教、哲学を総合しようと折衷的特徴が多くみられるが、本質的にはプラトン的色彩が強い。
[大谷啓治 2015年10月20日]