イギリスの人文主義者,政治家。ロンドンの法律家の子として生まれ,国王の側近であったカンタベリー大司教ジョン・モートン家に小姓として生活するあいだに,カトリックの正統的教義の基本を習い,また訪問客を通じて政治の世界に眼を開かれた。オックスフォードに進学してルネサンス人文主義の新学問に触れたが,父の意志により中退してロンドンのリンカン法学院に移る。この時期にカルトゥジア会での修道生活も経験し,聖俗いずれの道に進むか悩むが,結局は弁護士の道を選び,エラスムスやJ.コレットなどの人文主義者との交友も続ける。聖ローレンス教会でアウグスティヌスの《神の国》について連続講義も行って成功を収めた。ロンドンの司政官補,治安判事,下院議員に選ばれ,政治家として活躍し,ロンドン商人の利害を代表してヘンリー8世の外交使節となり,通商条約改訂交渉のため大陸に渡り,その余暇に《ユートピア》(1516)を書いた。その出版の翌年,国王の宮廷に出仕し,大法官にまで昇進した。ルターの宗教改革が起こると,これに反対して論争し,ヘンリー8世の〈国王至上法〉によるカトリック教会からの分離に従わず,反逆罪のかどで処刑され,殉教の道を歩んだ。のちローマ教皇から聖人に列せられた(1935)。
モアには,イタリアの人文主義者,ピコ・デラ・ミランドラの伝記を翻訳した《ピコ伝》(1510)や,シェークスピアの史劇《リチャード3世》に影響を与えた《リチャード3世王史》(執筆1514),ルターやティンダルとの宗教改革をめぐる論争の書《慰めの対話》(執筆1534)をはじめとする宗教上の著作など多数があるが,最も有名なものは《ユートピア》である。1516年にルーバンでラテン語による初版が出版されて以来,世界各国で翻訳されている。ユートピアutopiaという単語は,モアがギリシア語のou=noとtopos=placeとを組み合わせて作った新造語であって,本来は〈どこにもない場所〉を意味している。この著作には〈社会の最善政体について〉という副題がついているように,理想国家像を示す用語として使われている。物語の主人公ラファエル・ヒュトロダエウスが新世界への探検家アメリゴ・ベスプッチの航海に参加したのち,過去の旧大陸から遠く離れたユートピア島を発見するという設定になっている。彼のイギリス訪問の印象が,まず第1部の社会批判として語られる。封建家臣団の解体による浮浪者や窃盗の横行と苛酷な刑罰の無力さが指摘されたのち,〈羊が人間を食い殺す〉という牧羊囲込み(エンクロージャー)が批判される。農業の復活や織物業の再建も問題の根本的解決とはならず,第2部の理想社会の叙述では,私有財産と貨幣の存在しないユートピア島の生活が紹介されることになる。
モアがカトリックの信仰を貫き,ヘンリー8世の宗教改革に抵抗して処刑されて以後,古典的なモア伝は〈殉教者モア〉を描き出し,死後400年に彼が列聖されてからは決定的となる。《ユートピア》が共有社会を理想としたのは中世の修道院をモデルとしたからであり,この作品は〈戯作〉であってモアの真意を示すものではないとも解釈された。このような殉教者像に対決し,モアを〈近代社会主義の父〉とするのがマルクス主義の歴史家である。これに対し〈カトリック・モア〉と〈コミュニスト・モア〉との対極化は,一面的評価であって,〈キリスト教的人文主義者〉としてとらえれば,モア像の一面的解釈が避けられるという見解が第2次大戦後に現れた。たしかにモアはルネサンス人文主義者として一級の人物であり,有能な法律の実務家で政治家としても卓越しており,カトリックの信仰を貫き通しているし,その作品で社会主義社会を描いたことも事実である。それら全体像の構築がモア研究の今後の課題である。
執筆者:田村 秀夫
ダチョウ目(またはモア目)モア科Dinornithidaeの鳥の総称。キョウチョウ(恐鳥)ともいう。この科は,大きさやくちばしの形が異なる6属約19種からなり,ニュージーランドの南北両島に限って生息していたが,おそくとも19世紀の初めころまでにはすべての種が絶滅した。モアは,マオリ族がつけた名といわれる。一見エミューに似た大型の走鳥類で,最大種Dinornis maximusは頭高約3m,体重250kgに達したと考えられている。最小種Megalapteryx hectoriでもシチメンチョウ大の大きさがあった。翼は退化していて,飛ぶことはまったくできなかった。エミューのように,頭は小さく,脚はじょうぶでよく発達し,尾羽はなかった。羽毛は毛状で,後羽がよく発達している。羽色は光沢のある黒色ないし灰褐色。眼は小さく,嗅覚(きゆうかく)はよく発達していたと考えられる。残された胃の内容物や糞の分析によると,食性はほとんど完全に植物食で,草,若根,漿果(しようか),種子などを食べていた。多くのものは平地や山ろくの森林に生息していたが,山地に分布していた種もあった。巣は森林の中の地上にわずかのくぼみをつくり,1腹の卵数は1卵か1~2卵であったらしい。卵は白色ないし淡緑色。
小型のモア類は,17世紀の初めころまでは確かに,少数の個体はおそらく19世紀の初めころまで生存していたと考えられる。しかし,モアを実見した動物学者は一人もなく,モアの生息状況や生態は,すべて化石,遺物,マオリ族の伝承,初期の植民者の書き残しなどからの推定である。モアの化石や遺物は,湿地,石灰洞,砂丘,川床,マオリの住居跡などで発見され,骨格だけでなく,羽毛や皮膚の一部,卵殻,胃石などもたくさん見つかっている。マオリ族は,食糧のための肉を,また武器や飾物にするための骨を得る目的で,モアを狩猟の対象とした。絶滅の真の理由は明らかでないが,マオリ族による乱獲と山焼きなどによる森林の荒廃とが原因であると考えられている。
執筆者:森岡 弘之
イギリスの哲学者,詩人。プラトン哲学の神秘的局面を強調するケンブリッジ・プラトン学派の代表的人物で,カバラ研究家としても重要。初めデカルトの哲学に傾倒していたが,やがてその心身二元論が機械的自然観や無神論に人を導くことを見抜き,イデアの実在性と魂の不死性を根拠にデカルトに論戦を挑んだ。デカルト哲学の制覇とともに,彼の哲学は時代から取り残されていったが,その形而上学的な心境は詩として残され,J.ウェスリーやS.T.コールリジなど後世の宗教家,文学者に多大の影響を与えている。深い宗教的体験は純粋な叡智の活動であることを訴え,宗教と哲学の一致を主張した。そのことは必然的に当時勃興しつつあったピューリタニズムと衝突することになった。永遠を志向するがゆえに,つねに時代と背反しつつ生きざるをえない詩人哲学者の典型といえよう。主著は《プラトン的霊歌》(1642),《カバラ釈義》(1653),《倫理学提要》(1667),《聖なる対話》(1668)など。
執筆者:大沼 忠弘
イギリスの女性作家。ブリストル近郊の慈善学校長の娘。ロンドンへ出て,俳優D.ギャリックの世話を受け,E.バークやS.ジョンソンおよび〈ブルーストッキング〉の女性たちと交わり,詩や戯曲を創作した。しだいに福音派の運動にひかれ,社会および宗教の改革を志して多くの論文を発表。改革運動のための小冊子《廉価パンフレット》(1795-98)の企画は全国的支持を受け,〈宗教小冊子協会Religious Tract Society〉創立(1799)の因となった。また,日曜学校による貧民教育などの慈善事業を実践。他方,女性および女子教育の現状を批判する《女子教育論》(1799)は,男女の社会的不平等を神の意志として肯定しながら,女性のうちに宗教的精神の覚醒を図ろうとするものである。
執筆者:河村 貞枝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの政治家、人文主義者。ロンドンの法律家ジョン・モアSir John More(1451ころ―1530)の家庭に生まれる。幼くしてカンタベリー大司教ジョン・モートンJohn Morton(1420ころ―1500)に仕え、のちオックスフォード大学に入学、いわゆる「オックスフォード改革者たち」にギリシア語の手ほどきを受け、古代古典文学に目を開かれるが、父の意向で中退。法律家を志し、ニュー・インを経て、リンカーン法学院に学ぶ。大学在学中から「北方ルネサンスの王」エラスムスと親交を結ぶ。エラスムスは『愚神礼賛』(1511)をモア家滞在中に書いている。法学院卒業後、下級弁護士から判事となり、下院にも席を占め、1515年通商問題でオランダに渡り、外交交渉に手腕を発揮する。理想的国家像を描く『ユートピア』はこの旅行中に書き起こされ、翌1516年帰国後完成したもの。当時ロンドンの副司政長官の職にあったが、外交交渉の手腕と識見をヘンリー8世に認められ、請われて宮廷に出仕し重用される。1529年大法官に任命されるが、王の離婚問題に最後まで反対し、1532年官を退く。1534年反逆罪のかどでロンドン塔に幽閉され、翌1535年断頭台の露と消えた。
モアは諧謔(かいぎゃく)趣味の持ち主で、辛辣(しんらつ)な毒舌家としても知られたが、同時に敬虔(けいけん)なクリスチャン、名文家、論争家でもあった。市民の人気も絶大で、処刑にあたり王はその影響を苦慮したといわれる。著作はほかに『ピコ・デラ・ミランドラ伝』(1510)、『リチャード3世伝』(1557)など。没後400年の1935年、ローマ教皇から「聖徒」の称号を与えられている。
[玉泉八州男 2015年7月21日]
『沢田昭夫、田村秀夫、P・ミルワード編『トマス・モアとその時代』(1978・研究社出版)』▽『I・H・オシノフスキー著、小山内道子訳『トマス・モア』(1981・御茶の水書房)』▽『P・ミルワード著、江野沢一嘉注釈『トマス・モア伝』(1985・研究社出版)』
イギリスの哲学者。ケンブリッジ・プラトン学派の代表者の一人。ケンブリッジ大学に学ぶ。昇進や公務を避けて学者としての生涯を送った。ウィチコートBenjamin Whichcote(1610―1683)、新プラトン主義、神秘主義の影響を受け、知と徳との結合を説く。やがてデカルト哲学に心酔するが、延長を物質のみに認める点に無神論への危険をみて、のちには厳しい批判者となった。彼によれば、物質、精神の両実体とも延長しており、形而上(けいじじょう)学的延長としての純粋空間は神性の表現であるとした。神秘主義的傾向が強いが、当時のピューリタンの宗教的熱狂などは嫌悪した。主著に『無神論に対する解毒剤』(1653)、『霊魂の不死』(1659)などがある。
[小池英光 2015年7月21日]
アメリカの批評家。ハーバード大学などでサンスクリット語や古典文学を教えたのち、『ザ・ネーション』誌などの文芸欄を担当。プリンストン大学で講義生活を送り、バビットに共鳴して新人文主義(ニュー・ヒューマニズム)運動を展開した。当時流行のT・ハクスリーの進化説に反対し、人間の内奥に無限の可能性をみいだすロマン主義を幻想であると考え、古典的規範への復帰を唱えた。『シェルバン随筆』全11巻(1904~1921)が代表作。
[森 常治]
鳥綱ダチョウ目モア科に属する鳥の総称。この科Dinornithidaeの仲間はかつては恐鳥(きょうちょう)ともよばれ、ニュージーランドだけから化石または半化石として知られている無飛力のダチョウに似た鳥のグループである。古い化石がないので第四紀より前のことはわかっていないが、現存する化石などから約十数種いたことが現在では認められている。約1000年前ごろにマオリ人がニュージーランドに移住したときにはかなり生存していたと思われ、最後の種が絶滅したのは17世紀であろうとされている。その骨から復原した結果、体高は小形のもので1メートル強、大形のものでは4メートル弱であり、生態はダチョウやレアに似たものであったろうと考えられている。
[浦本昌紀]
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1478~1535
イングランドの法律家,人文主義者。オクスフォード大学でルネサンスの影響を受けた学者たちに学び,代表的な人文主義者エラスムスと親交を結ぶ。ヘンリ8世に重用され,外交使節としてしばしば大陸に派遣された。その経験をもとに理想郷の夢を託した『ユートピア』を執筆。1529年ウルジー失脚のあとをうけて俗人として初めて大法官に就任。32年国王が教皇庁との対立を深めたのをみて辞任。34年国王に対する忠誠の宣誓を拒んだためロンドン塔に投獄され,反逆罪で斬首された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…17世紀後半のイギリスで,プラトン主義の再興によってルネサンス的人文主義とキリスト教神学の相克を融和しようとした一群の思想家の総称。創唱者のウィッチコートBenjamin Whichcote,その弟子のカドワース,H.モア,スミスJohn Smithなどがケンブリッジ大学に拠っていたのでこの名がある。当時,道徳の起源が論争の的になっていた。…
…現実には存在しない,理想的な世界をいい,理想郷,無可有郷(むかうのさと)などと訳される。ギリシア語を手がかりとして〈どこにもないou場所topos〉と〈良いeu場所topos〉とを結びつけたT.モアの造語。ユートピアの観念は,人間の自然な感情として普遍的にいだかれうるものであるが,同時に特定の内実をもった思想的表明,もしくは運動をもうみだす。…
…次々と遭遇する新しい土着言語の習得,宣教とは正反対の利益を追求する先住民委託制度(エンコミエンダ)などの世俗的行為との対立,土着宗教の根強い抵抗,新しい植民地社会の生成などである。それでも中世以来の終末論,おりからスペイン教会に広く受け入れられていたエラスムスの人文主義,さらにはトマス・モアのユートピア思想などに鼓舞された宣教師は教会史上最も大規模な仕事のひとつに憶せず取り組んだ。彼らはこの過程で相当数の土着言語の辞書を作り,また消滅に追いこまれた土着文化に関する今日なお貴重な記述を残した。…
…【百々 佑利子】
【歴史】
[マオリ族の移住]
17世紀中ごろ,欧米人に〈発見〉される以前に南・北両島に住んでいたポリネシア系住民マオリ族は,2回に分かれて東ポリネシア(現在のフランス領ポリネシアの諸島)から移住したと推定されている。初期の移住者はモア・ハンターと後世呼ばれ,8世紀ごろカヌーや漂流によって,ニュージーランドに住みついた。モアはポリネシア語で〈家禽(かきん)〉を意味し,南・北両島の草原にいた,翼がなく人間の背丈と同じくらいの大きな鳥で,当時のマオリは石器を使う狩猟・漁労民族だった。…
※「モア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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