モア(読み)もあ(英語表記)Sir Thomas More

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モア」の意味・わかりやすい解説

モア(Sir Thomas More)
もあ
Sir Thomas More
(1478―1535)

イギリスの政治家、人文主義者。ロンドンの法律家ジョン・モアSir John More(1451ころ―1530)の家庭に生まれる。幼くしてカンタベリー大司教ジョン・モートンJohn Morton(1420ころ―1500)に仕え、のちオックスフォード大学に入学、いわゆる「オックスフォード改革者たち」にギリシア語の手ほどきを受け、古代古典文学に目を開かれるが、父の意向で中退。法律家を志し、ニュー・インを経て、リンカーン法学院に学ぶ。大学在学中から「北方ルネサンスの王」エラスムスと親交を結ぶ。エラスムスは『愚神礼賛』(1511)をモア家滞在中に書いている。法学院卒業後、下級弁護士から判事となり、下院にも席を占め、1515年通商問題でオランダに渡り、外交交渉に手腕を発揮する。理想的国家像を描く『ユートピア』はこの旅行中に書き起こされ、翌1516年帰国後完成したもの。当時ロンドンの副司政長官の職にあったが、外交交渉の手腕と識見をヘンリー8世に認められ、請われて宮廷に出仕し重用される。1529年大法官に任命されるが、王の離婚問題に最後まで反対し、1532年官を退く。1534年反逆罪のかどでロンドン塔に幽閉され、翌1535年断頭台の露と消えた。

 モアは諧謔(かいぎゃく)趣味の持ち主で、辛辣(しんらつ)な毒舌家としても知られたが、同時に敬虔(けいけん)なクリスチャン、名文家、論争家でもあった。市民の人気も絶大で、処刑にあたり王はその影響を苦慮したといわれる。著作はほかに『ピコ・デラ・ミランドラ伝』(1510)、『リチャード3世伝』(1557)など。没後400年の1935年、ローマ教皇から「聖徒」の称号を与えられている。

玉泉八州男 2015年7月21日]

『沢田昭夫、田村秀夫、P・ミルワード編『トマス・モアとその時代』(1978・研究社出版)』『I・H・オシノフスキー著、小山内道子訳『トマス・モア』(1981・御茶の水書房)』『P・ミルワード著、江野沢一嘉注釈『トマス・モア伝』(1985・研究社出版)』


モア(Henry More)
もあ
Henry More
(1614―1687)

イギリスの哲学者。ケンブリッジプラトン学派の代表者の一人。ケンブリッジ大学に学ぶ。昇進や公務を避けて学者としての生涯を送った。ウィチコートBenjamin Whichcote(1610―1683)、新プラトン主義神秘主義の影響を受け、知と徳との結合を説く。やがてデカルト哲学に心酔するが、延長を物質のみに認める点に無神論への危険をみて、のちには厳しい批判者となった。彼によれば、物質、精神の両実体とも延長しており、形而上(けいじじょう)学的延長としての純粋空間は神性の表現であるとした。神秘主義的傾向が強いが、当時のピューリタンの宗教的熱狂などは嫌悪した。主著に『無神論に対する解毒剤』(1653)、『霊魂の不死』(1659)などがある。

[小池英光 2015年7月21日]


モア(Paul Elmer More)
もあ
Paul Elmer More
(1864―1937)

アメリカの批評家。ハーバード大学などでサンスクリット語や古典文学を教えたのち、『ザ・ネーション』誌などの文芸欄を担当。プリンストン大学で講義生活を送り、バビットに共鳴して新人文主義ニュー・ヒューマニズム)運動を展開した。当時流行のT・ハクスリーの進化説に反対し、人間の内奥に無限の可能性をみいだすロマン主義を幻想であると考え、古典的規範への復帰を唱えた。『シェルバン随筆』全11巻(1904~1921)が代表作。

[森 常治]


モア(鳥)
もあ
moa

鳥綱ダチョウ目モア科に属する鳥の総称。この科Dinornithidaeの仲間はかつては恐鳥(きょうちょう)ともよばれ、ニュージーランドだけから化石または半化石として知られている無飛力のダチョウに似た鳥のグループである。古い化石がないので第四紀より前のことはわかっていないが、現存する化石などから約十数種いたことが現在では認められている。約1000年前ごろにマオリ人がニュージーランドに移住したときにはかなり生存していたと思われ、最後の種が絶滅したのは17世紀であろうとされている。その骨から復原した結果、体高は小形のもので1メートル強、大形のものでは4メートル弱であり、生態はダチョウやレアに似たものであったろうと考えられている。

[浦本昌紀]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モア」の意味・わかりやすい解説

モア
More, Sir Thomas

[生]1478.2.7. ロンドン
[没]1535.7.6. ロンドン
イギリスの人文主義者,政治家。裁判官の子に生れ,オックスフォード大学に学んだのち,ロンドンで法律を修めた。裁判官,次いで政治家として活動するかたわら,古典を研究し,エラスムスらルネサンス期の人文主義者と親交を結び,エラスムスの『痴愚神礼賛』はモアの家で執筆された。国王ヘンリー8世の信任厚く,1529年大法官となったが,国王の離婚問題に関して教会の側に立ったため,王の不興を買い 32年辞任。のち反逆罪に問われ処刑された。 1935年カトリック教会によって聖人の列に加えられた。共産的理想社会を描いたラテン語の著作『ユートピア』 Utopia (1516) が代表作。ほかに『リチャード3世の生涯』 The History of Richard III (14頃) ,カトリックの立場からする宗教論争書がある。イギリス・ルネサンス黎明期の中心人物。

モア
More, Henry

[生]1614.10.12. グランサム
[没]1687.9.1. ケンブリッジ
イギリスの哲学者,宗教詩人。ケンブリッジ・プラトニストの一人。ケンブリッジ大学の学生時代にプラトンおよび神秘主義者 J.ミードの著作に接し決定的な影響を受けた。当初はデカルト支持者でデカルトとの往復書簡も残されているが,のちにその機械論的自然観が無神論にいたるとして反対し,J.ベーメなどの影響からカバラ哲学に向った。その空間論はニュートンに影響したといわれる。主著"Psychozoia Platonica or a Platonicall Song of the Soul" (1642) ,"An Antidote against Atheism" (53) ,『倫理学便覧』 Enchiridion ethicum (67) ,『形而上学便覧』 Enchiridium metaphysicum (71) 。

モア
More, Paul Elmer

[生]1864.12.12. セントルイス
[没]1937.3.9. ニュージャージー,プリンストン
アメリカの批評家,古典学者。ワシントン大学卒業。ハーバード大学などでサンスクリット語と古典文学を教えたのち,1901年ジャーナリズムの世界に入り,『ネーション』誌の主幹 (1909~14) をつとめた。バビットとともに「新ヒューマニズム」を唱え,ロマン主義,自然主義を排して,伝統,古典的教養,倫理性の必要を説き,メンケンらと活発な論争を展開した。主著『シェルバーン・エッセーズ』 Shelburne Essays (11巻,04~21) ,『ギリシアの伝統』 The Greek Tradition (5巻,21~31) ,『絶対の悪魔』 The Demon of the Absolute (28) 。

モア
Dinornithiformes; moas

モア目の鳥の総称。かつてニュージーランドに生息していたが,14世紀にはほとんど絶滅していたと考えられている。遺物を調べ,以前は雌雄や生息時期により大きさが異なるものは異種とみなされ,20種以上もいたと考えられたが,発見されている骨の遺伝子による研究から,今日では 3科 9種に分類されている。最大のものは頭高 3.6m,最小のものでもシチメンチョウぐらいの大きさであったと推定されている。が退化して飛翔力はなく,強大な脚をもっていた。モアという名は,先住民のマオリ族の言語である。マオリ族が盛んにこの巨大な鳥を狩っていたことや,生息環境を破壊したことが絶滅の一因とされる。

モア
More, Hannah

[生]1745.2.2. グロスターシャー,ステイプルトン
[没]1833.9.7. ブリストル
イギリスの女流劇作家,小説家,社会運動家。名優ガリック夫妻と親交があり,その作品はガリックによって上演された。 E.R.モンタギューを中心とする才女のグループ「ブルーストッキング」の一員で,貧民救済に尽し,政治パンフレットでも知られる。

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