ピサカーネ
ぴさかーね
Carlo Pisacane
(1818―1857)
イタリアの革命家、政治思想家。ナポリの貴族の家系に生まれ、士官学校を卒業して1841年両シチリア王国の士官になる。1847年2月ナポリを出奔し、マルセイユ、ロンドン、パリを放浪、外人部隊に入りアルジェリアに赴く。しかし1848年のミラノ革命の報に接しイタリアに戻り、ロンバルディアの対オーストリア解放戦争に参加し負傷。翌1849年春ローマ共和国防衛に参加し、イタリアの愛国者を結集した防衛軍の参謀長として活躍。共和国崩壊後、マルセイユに亡命、その後スイスを経てロンドンに行き、結局ジェノバに落ち着いた。
ここで研究と著述に没頭し、『1848~49年にイタリアで戦われた戦争』(1851)、『イタリアに関する歴史的・政治的・軍事的考察』(1858~1860)を書いた。革命前にはマッツィーニ主義者であったが、その後カッタネオ、プルードンらの影響を受けて無政府主義的共産主義者になった。1857年6月、南部農民の蜂起(ほうき)を夢みた彼は、20人ほどの同志とポンザ島に上陸して政治犯を解放し、彼らを率いてサプリ遠征を試みたが、両シチリア王国軍の抵抗と農民たちの敵対行動によって失敗に終わったため、自決を遂げた。
[重岡保郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ピサカーネ
Carlo Pisacane
生没年:1818-57
イタリアの革命的思想・行動家。ナポリの貴族の生れで,初めブルボン軍に入る。1847年,従兄の妻エンリケッタと生涯を誓いともに国外に逃亡。48年イタリア民族蜂起の報を聞くや帰国し,北イタリアでオーストリア軍と戦う。49年のローマ共和国ではマッツィーニから革命軍組織を託さる。敗北後亡命し,48年革命についての考察を深めアナーキズム思想に到達。代表的著作《1848-49年にイタリアで戦われた戦争》(1851),《イタリアについての政治的・歴史的・軍事的考察》(1858-60)において,政治的自由と経済的平等を不可分に保障する,人民を主体とした社会・民族革命の必要性を力説した。57年,ニコーテラなどと南イタリアのサプリSapriに反ブルボン民族蜂起を企て敗れて自決。
執筆者:戸田 三三冬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ピサカーネ
Pisacane, Carlo
[生]1818.8.22. ナポリ
[没]1857.7.2. サレルノ,サンザ
イタリアの革命家。ナポリの貴族家に生れ,士官教育を受けたが,ブルボン政権の反動政治に反発して,1847年ナポリを離れた。 48年4月ミラノに行き,そこでオーストリアに対するイタリア独立戦争に加わった。 49年ローマ共和国の支援に駆けつけ,G.マッツィーニのかたわらで軍参謀部の幹部となった。ローマ共和国崩壊後,48~49年革命の失敗の原因を分析して政治革命でなく社会革命が必要なことを主張。 57年南イタリアの解放を目指してサプリ遠征を試みるが,現地の農民に襲われて,負傷,みずから命を絶った。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のピサカーネの言及
【リソルジメント】より
…マッツィーニがイタリアの主導性,国家統一の最優先,社会革命の否定という立場をとるのに対して,ミラノ革命で活躍した[C.カッターネオ]や[G.フェラリ]のグループは連邦共和制,政治革命と社会革命の結合,フランス共和派との連携を唱えて反マッツィーニ派の結集を図った。[C.ピサカーネ]は国民的再生の運動は社会革命なしには実現しえないとしたが,フェラリらと違ってフランスに依存せずイタリア独自の主導性をもたねばならないと主張し,57年にサプリ遠征を試みた。[48年革命]
[統一国家の成立]
サルデーニャ王国のカブール首相は,イタリア全体の統一よりも,北イタリアをイギリス,フランスの西欧文化圏に組み入れることを構想していた。…
※「ピサカーネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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