フェスカ(読み)ふぇすか(その他表記)Max Fesca

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フェスカ」の意味・わかりやすい解説

フェスカ
ふぇすか
Max Fesca
(1845―1917)

ドイツ農学者。プロイセンに生まれる。1873年ドクトルの学位を授与され、1875年ゲッティンゲン大学の私講師となる。農商務省の招きにより1882年(明治15)来日、1894年まで地質調査所土性調査事業を指導し、1892年までは駒場農学校(こまばのうがっこう)およびその後身の東京農林学校、帝国大学農科大学の農学教師兼任した。主著に『日本農業及北海道殖民論』(1888)、『日本地産論』(1891~1894)がある。帰国後はベルリン農科大学、ウィッツェンハウゼンおよびハンブルク植民学校において熱帯農業の研究に従事、『Der Pflanzenbau in den Tropen und Subtropen』(1904~1911)の著書を残した。ウィースバーデンにおいて死去

[友田清彦 2018年8月21日]

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改訂新版 世界大百科事典 「フェスカ」の意味・わかりやすい解説

フェスカ
Max Fesca
生没年:1846-1917

ドイツの農芸化学者。農業問題の社会経済面にも深い関心をもち,30歳の若さで《イギリス農業論》(1876)を著した。1882-94年,招聘(しようへい)されて滞日。農務省地質調査所で土性調査事業を担当し,駒場農学校(1890年以降,農科大学となる)教師を兼ねる。1886年北海道を実地調査し《日本農業及北海道殖民論》(1888)を発表。その後,日本各地を歩き《農業改良》(1888),《地産要覧図》(1889)をとりまとめる。94年,日本各地の土性に応じた物産増進の方法や経済上の関係を評論した《日本地産論》を刊行する。通編,特編よりなり,今日なお興味深い日本農業論である。帰国後,ゲッティンゲン大学教授となる。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「フェスカ」の解説

フェスカ

没年:1917.10.31(1917.10.31)
生年:1845.2.8
明治期に来日したお雇いドイツ人教師。日本の近代農学の確立に貢献した。ゲッチンゲン生まれ。生年月日は1846年3月31日説もある。同地の大学を卒業後教員となり,イギリスへ出張視察し『イギリス農業論』を著した。明治15(1882)年来日,駒場農学校(東大)で農学を教えるとともに,政府の委嘱により各地を調査旅行し,全国の土質に関する日本最初の本格的記録を完成した。多くの著書のうち『日本地産論』(1890~93)は日本農書中第1等の書とも評価されている。日本の伝統農法に関心を向けつつも,零細経営を停滞の原因と批判し,大農方式の導入を主張した。同25年帰国後,ベルリン農科大学教授。<参考文献>桜井武雄『農業史』,斉藤之男『日本農学史』,川井一之『近代農学の黎明』

(筑波常治)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「フェスカ」の解説

フェスカ Fesca, Max

1845-1917 ドイツの農学者。
1845年2月8日生まれ。明治15年(1882)農商務省の招きで来日,駒場(こまば)農学校(東大農学部の前身)教師と地質調査所土性掛長をかね,わが国最初の全国的土性調査を指導。日本農業に関しておおくの提言をした。25年帰国。のちベルリン農科大教授。1917年10月31日死去。72歳。ゲッティンゲン出身。著作に「日本農業及北海道殖民論」「日本地産論」。

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百科事典マイペディア 「フェスカ」の意味・わかりやすい解説

フェスカ

ドイツの農学者。1882年‐1894年来日し農商務省嘱託,駒場農学校教授を兼任。科学的農学に基づき在来・老農農法を批判,日本の土性調査事業を創始し,《日本農業及北海道殖民論》《日本地産論》などで農業改良策を立案,近代農学の育成に大きな貢献をした。帰国後ゲッティンゲン大学教授。

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367日誕生日大事典 「フェスカ」の解説

フェスカ

生年月日:1846年3月31日
ドイツの農学者
1917年没

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世界大百科事典(旧版)内のフェスカの言及

【勧農】より

…政府直営の勧農事業がめざす洋式農法の日本への移植も,稲作を中心とする小農経営中心の日本農業の体質を変えることはできず,1880年代後半以降,寄生地主制の進展とその拡大により勧農政策は後退し,また大農法も日本農業に浸透しなかった。80年代後半に井上馨やドイツ人マイエット,フェスカら少数の人たちが大農論を提唱したがそれも根づかず,大農法は,たとえば政商三菱の直営農場として発足した小岩井農場(1891設立)などの例外を除いて,成功しなかった。【石塚 裕道】
【中国】
 中国では農業社会の確立に伴って神農・后稷(こうしよく)などの農業神話を生んだ。…

【農学】より

…それらの人々の明治期農学への貢献は見落とせないが同時に招聘(しようへい)外人の中にも著しい影響を与えた人もいた。リービヒの流れをくむドイツ人O.ケルナーや,リービヒとテーアの弟子M.フェスカ,ロイブO.Loew,アメリカ人ダンE.Dunらで,在来農法・農学が直観的,経験的であったのに対して,実証的・実験的精神を注入したといってよい。ケルナーは土壌・肥料,植物栄養,家畜飼養,農産製造,蚕体生理の諸研究面において,フェスカは《日本地産論》などを著す過程において,ダンは畜種改良,牧草導入,輪作,草地改良,大型機械利用の各面において,大きな影響を与えた。…

※「フェスカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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