日本大百科全書(ニッポニカ) 「フェレンツィ」の意味・わかりやすい解説
フェレンツィ
ふぇれんつぃ
Sándor Ferenczi
(1873―1933)
ハンガリーの医師、神経学者、精神分析家。ミシュコルツに生まれる。ウィーン大学で医学を修めたが、そのころから心理学に関心を抱いていた。1894年に同大学を卒業、医師免許を取得後、臨床のかたわら神経学および心理学の研究に向かう。フロイトの『夢判断』Die Traumdeutung(1900)は初版直後に読みながら非科学的であるとして興味を示さなかったが、その後ユングらによる言語連想検査(提示された単語に対する連想の反応速度を計測する実験)を知ったことをきっかけに精神分析の文献を熱心に読むようになる。1908年にはフロイトに直接面会し、以後両者のあいだには強い個人的な絆(きずな)が成立した。フロイトが直近の弟子を集めた「秘密委員会」の一員となる。フロイトとの往復書簡は、精神分析運動の歴史を物語る貴重な資料となっている(『往復書簡』Briefwechsel(1993))。また、教育分析(分析家となるために受ける分析)の必要を唱えて制度の確立に尽力した。彼の教育分析を受けた分析家としては、アーネスト・ジョーンズErnest Jones(1879―1958)、ゲザ・ローハイム、メラニー・クラインらがいる。
1910年にユングとともに国際精神分析協会の創設(1910)に関わり、1913年には自らブダペスト精神分析協会を創設した。1918年の国際精神分析協会ブダペスト大会では会長に選出され、同年のハンガリー独立直後の共産主義政権下ではブダペスト大学の教授職も得るが、翌1919年右翼政権の成立に伴いこれを失い、1920年にはハンガリー医師会からも追放された。
1911年からギゼラ・パロスGizella Pálos(1866―1949)夫人およびその娘エルマElma Pálos(1887―1970)との恋愛関係に苦しんだフェレンツィはフロイトによる分析を受けたが、フェレンツィの第一次世界大戦への応召およびフェレンツィとの関係悪化を恐れたフロイトの消極的態度により中断。1919年には結局ギゼラと結婚することになるが、この母娘との葛藤的関係は生涯続いた。
1919年以降は精神分析治療とその普及発展に専念し、1924年に発表した『性理論の試み』Versuch einer Genitaltheorie(英訳版タイトル『タラッサ』Thalassa)では、系統発生と個体発生の並行という考え方にもとづき、子宮内の胎児の状態が進化における海中生物の段階に対応するとしたうえで、進化の過程で離れざるを得なかった海へ回帰しようとする傾向によって、性や生殖を説明しようとした。この論文はフロイトにも高く評価されたが、他方でその精神分析技法をめぐる先鋭的な考え方はしばしば摩擦を引き起こした。1924年オットー・ランクOtto Rank(1884―1939)との共著で刊行した、精神分析技法の再検討を試みる論文「精神分析の発展」Entwicklungsziele der Psychoanalyseは、アブラハム、ジョーンズ、フロイトらによる批判を受ける。1926~1927年アメリカに滞在した際には、非医師分析家(レイアナリスト)に好意的な立場をとっていたことから、医師にのみ分析を認めようとするアメリカの精神分析界から反発を受けた。また1928~1932年に彼が行った技法的な実験(直接的な命令や禁止を通して患者のふるまいに介入することで分析の停滞を打破しようとする「積極技法」、患者の緊張を解きつつ分析を行う「リラクセーション技法」、患者と分析家が相互に分析しあう「相互分析」)は分析の規則を定めたフロイトとの対立を招くことになった。1933年悪性貧血のためブダペストにて没。没後は分析家のマイケル・バリントMichael Balint(1896―1970)の努力により再評価が進んだ。
[原 和之]
『シャーンドル・フェレンツィ著、森茂起訳『臨床日記』(2000・みすず書房)』▽『Sigmund Freud, Sándor FerencziBriefwechsel(1993, Bohlau, Wien)』