アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のアトランタ・ブレーブスの外野手としてプレー。チッパー・ジョーンズとともに、打線の中核として14シーズン連続(1994年のストライキを除く)地区優勝を支えた。現役最高といわれる中堅の守りで、守備の要としての役割も果たしている。
4月23日、オランダ領アンティル諸島キュラソー島(現、オランダ自治領)で生まれる。1994年、ドラフト外でブレーブスに入団。同年、マイナー・リーグのルーキー級に配属され、打率2割9分をマークし、守備でも強肩を披露するなど大器の片鱗(へんりん)をみせる。1995年はA級に上がり、打率2割7分7厘、ホームラン25本、打点100でサウスアトランティック・リーグの最優秀選手(MVP)に選出されるとともに、マイナー・リーグ全体のMVPにも選ばれる。1996年は開幕をA級で迎えたが、その強打ぶりが認められてAA級、AAA級と階段を上がり、8月14日には19歳で大リーグに昇格、地区優勝、リーグ優勝に貢献した。ワールド・シリーズでは第1戦に先発出場し、いきなりホームランを2本放つ大活躍。これは1952年のミッキー・マントルが20歳で記録したワールド・シリーズでの最年少ホームラン記録を破るものであった。1997年からはレギュラーの座につき、看板打者の一人になる。1998年以降は9年連続でホームラン25本以上を放ち、また俊敏な守備で9年続けてゴールドグラブ賞を獲得している。その間、走塁でも進歩をみせて、1997年から4年連続で盗塁20以上を記録。1998年から2000年にかけての3年連続「20本20盗塁」(ホームラン20本以上、盗塁20以上)は、ハンク・アーロン以来、球団史上2人目の快挙であった。2000年はホームラン36本を打ち、オールスター・ゲームに初出場。以降、2006年までに6回出場の常連選手になる。2005年は自己最多と球団記録を更新するホームラン51本で初のホームラン王を獲得するとともに、打点128で初の打点王も手にし、ハンク・アーロン賞(リーグの最優秀打者に贈られる賞)を受賞した。また、2006年もリーグ5位のホームラン41、リーグ4位で自己最多となる打点129をマークした。
[出村義和]
2007年は打率2割2分2厘と低調ながら、ホームラン26本を放ち、94打点。401回の守備機会でわずかに2エラーという安定した守備で、10年連続となるゴールドグラブ賞を受賞した。2008年はロサンゼルス・ドジャース、2009年テキサス・レンジャーズ、2010年シカゴ・ホワイトソックス、2011~2012年ニューヨーク・ヤンキース、2013年から東北楽天ゴールデンイーグルスでプレー。
大リーグでの通算成績は、出場試合2196、安打1933、打率2割5分4厘、本塁打434、打点1289。獲得したおもなタイトルは、本塁打王1回、打点王1回、ゴールドグラブ賞10回。
[編集部]
アメリカの画家・立体作家。ジョージア州オーガスタに生まれる。サウス・カロライナ大学、ニューヨークの美術学校を卒業後、日本滞在を含む兵役を経て、1952年からニューヨークで画家として活動する。1954年にロバート・ラウシェンバーグと出会い、2人は真剣な議論を重ねながら、新しい芸術を模索した。1958年、レオ・キャステリ画廊での個展の成功で一躍名声を得ると、このときからネオ・ダダの名称でよばれるようになった。第二次世界大戦前のダダイスト、マルセル・デュシャンから強い影響を受け、日常的なオブジェの観念を復活させた思索型の芸術家でもある。
1950年代末には懐中電灯や電球、缶ビールの『彩色されたブロンズ』(1960)のようなオブジェ風の立体作品も制作した。しかし、ジョーンズを著名にしたのは、標的、アメリカの地図、アルファベット、数字などの平面的な記号を、カンバスの平面上に抽象表現主義風の筆触で描き出した絵画である。カンバスに二次元としての記号を描くことで、絵画を一個のオブジェとして知覚させようとするもので、この「事物」としての絵画は、抽象表現主義の熱っぽいタッチとは対照的に、冷ややかな感触をもつエンコスティック(蜜蝋(みつろう)画法)で描かれている。奥行きのあるイリュージョン(幻影)を拒絶したタブローは、抽象表現主義から、現実世界の事物や日常的環境へと関心を移動させる重要な転換点となった。
ラウシェンバーグとの交友は1962年まで続き、1970年代には、ジョーンズはクロスハッチ模様を用いた緊張感のある抽象に転じた。しかし、ネオ・ダダとよばれた2人の作品群は、日常的オブジェや身近な複製された図像を用いることで、1960年代に台頭するポップ・アートの先駆的役割を果たすことになった。
[石崎浩一郎]
『『現代美術13 ジャスパー・ジョーンズ』(1993・講談社)』▽『東野芳明著『ジャスパー・ジョーンズ――そして/あるいは』(1979・美術出版社)』▽『東野芳明著『ジャスパー・ジョーンズ――アメリカ美術の原基』(1986・美術出版社)』▽『リチャード・フランシス著、東野芳明他訳『ジャスパー・ジョーンズ』(1990・美術出版社)』
アメリカの作曲・編曲家、指揮者、プロデューサー、ジャズ・トランペット奏者。シカゴに生まれ、10歳のときシアトルに移住。高校時代からトランペットを吹き、15歳のときレイ・チャールズと楽団を結成。シアトル大学を経てボストンのシュリンガー・ハウス(現バークリー音楽大学)に学ぶ。トランペット奏者・編曲家として、1951年から1953年までライオネル・ハンプトン楽団に参加。編曲の才能が注目され、1956年ディジー・ガレスピー楽団に協力して名声を得た。1961年からマーキュリー・レコードで制作を担当し、1964年から1966年まで副社長を務めた。映画音楽も『質屋』The Pawnbroker(1965)、『夜の大捜査線』In the Heat of the Night(1967)、『ウィズ』The Wiz(1978)、『カラーパープル』The Color Purple(1985)など数多く手がける。
レコード・プロデューサーとしての活躍はとくに華々しく、マイケル・ジャクソンMichael Jackson(1958―2009)のアルバム『オフ・ザ・ウォール』Off the Wall(1979)、『スリラー』Thriller(1982)は空前のヒットとなった。1985年にアフリカ飢餓救済チャリティー・レコード『ウィ・アー・ザ・ワールド』のプロデューサーと指揮者を務めた。グラミー賞の受賞記録は、ポピュラー・アーティストとして最多であり、1963年から1993年までに26回受賞している。
[青木 啓]
『アレックス・ヘイリー述、マレー・フィッシャー編、住友進訳『アレックス・ヘイリー プレイボーイ・インタビューズ』(1998・中央アート出版社)』▽『Quincy Jones:Q;The Autobiography of Quincy Jones(2001, Doubleday)』
アメリカのプロ野球選手(右投左右打)。本名Larry Wayne Jones Jr.。大リーグ(メジャー・リーグ)のアトランタ・ブレーブスでおもに三塁手、外野手としてプレー。いわゆる長距離砲ではないが左右両打席からコンスタントに快打を飛ばす好打者で、1991年から2005年まで14シーズン連続地区優勝というブレーブスの黄金時代を築いた主要メンバー。
4月24日、フロリダ州デランドで生まれる。ボールズ高から1990年、ドラフト1巡目(全体1番目)指名を受けてブレーブスに入団、大型遊撃手として大きな期待を背負いプロ生活を開始した。1993年にはマイナー・リーグのAAA級で打率3割2分5厘の好成績をあげ、シーズン終盤に大リーグへデビュー、初打席で初安打をマークした。しかし、翌春のキャンプで左膝(ひざ)を故障して1年を全休したのち回復し、三塁へコンバートされ、1995年にレギュラーの座を確保した。同年、ホームラン23本、打点86の好成績をあげたが、新人王は13勝をあげたロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄にさらわれた。1996年から2006年まで12年連続でホームラン20本以上をマーク、その間打点100以上を8回、打率3割以上も8回記録したが、なかでも1999年は打率3割1分9厘、自己最多のホームラン45本と盗塁25、打点110の好成績で最優秀選手(MVP)に選出された。
[出村義和]
2007年は故障もあり、出場は134試合。打率はリーグ2位の3割3分7厘で、ホームランは29本ながら連続20本以上を13年に伸ばした。また、102打点をあげて2003年以来の100打点・100得点を記録するとともに、通算2000本安打、400二塁打を達成した。
2007年までの通算成績は、出場試合1895、安打2117、打率3割7厘、本塁打386、打点1299。獲得したおもなタイトルは、MVP1回。
[編集部]
イギリスの音声学者。ロンドン大学教授、1950年度国際音声学協会会長。同協会考案の国際音声字母による彼の『英語発音辞典』An English Pronouncing Dictionary(1917)は生前12版を重ね、没後ギムスンAlfred C. Gimson(1917―1985)の改訂で14版(1977)まで出、今日なおイギリス英語発音の指針をなす。日本の英和辞典や教科書の発音表記の多くはジョーンズ式表記に基づく。また母音の記述の尺度として聴覚印象と調音に基づく基本母音を設定し、これを自ら発音したレコード『The Cardinal Vowels』(1943)がある。『An Outline of English Phonetics』(1918、9版・1960)、『The Phoneme ―― Its Nature and Use』(1950)など著書多数。彼は「音素」を各言語における「音の一族」として物理的にとらえつつ、心理的解釈も完全には排除しない。
[大束百合子 2018年6月19日]
『日本音声学会編『音声学大辞典』(1976・三修社)』
イギリスの経済学者。ケンブリッジのケーヤス・カレッジで神学を学び、牧師となったが、産業革命後の不安定な社会状況のなかで、労働者・農民階級の現状と将来に関心をもつようになり、1831年に主著『富の分配と租税の源泉』An Essay on the Distribution of Wealth and on the Sources of Taxationを刊行した。33年にはキングズ・カレッジの経済学教授となり、35年以降はT・R・マルサスの後任として東インド・カレッジの経済学および歴史学教授となり、以降20年間この職にあった。またその間「十分の一税金納法」の成立とその実施のためにも活躍した。経済学者としては、資本制経済の歴史性を初めて明らかにしたことで知られ、歴史学派の先駆者とする評価もある。彼は、労働者が生活資料を獲得する形態の違いから、諸国民の経済構造を二つに大別し、土地所有に基づく前資本制経済と、資本家が分配を媒介する資本制経済に区分し、おのおのの分配法則を解明したが、とりわけ前資本制経済における小農地代の諸形態を詳しく分析している。また、地主階級の利害と社会の他の階級の利害は一致するとして、D・リカードの地代論を批判し、地主階級を擁護したことでも知られる。
[千賀重義]
『大野精三郎著『ジョーンズの経済学』(1953・岩波書店)』
イギリスのポップ・アートの画家、彫刻家、版画家。サウサンプトン生まれ。1955年から1959年までロンドンのホーンシー美術学校、1959年から1960年まで王立美術学校に学ぶ。王立美術学校では、一枚の絵のなかに抽象的要素と具象的要素を混在させるキタイRonald Brooks Kitaj(1932―2007)の影響を受ける。1961年以降、欧米各地で教え、油彩やアクリルによる絵のほかに版画や立体作品も制作。作品のモチーフはエロティックなものが多く、ハイヒールやブーツを履いた下着姿の女性像がよく登場する。1970年(昭和45)に東京国立近代美術館で開催された「現代イギリス美術展」にリアルな女性人体像とクッションを組み合わせた彫刻『椅子』を出品した。
[斉藤泰嘉]
アメリカの小説家。イリノイ州生まれ。ボクサーあがりの天才らっぱ手の悲劇を中心に据えた暴露的軍隊小説『地上(ここ)より永遠(とわ)に』(1951)によって絶大な人気を博す。ガダルカナル戦記『細い赤い線』(1962)、友人の手で完成された遺作『汽笛』(1978)とともに三部作をなす。作風は概して自然主義的だが、中編『ピストル』(1959)は珍しく象徴的作風をとっている。中西部小都市の兄弟の物語『逃げてきた奴(やつ)』(1957)、ヘミングウェイばりのスキンダイビング物語『危険に親しめ』(1973)はともに性の葛藤(かっとう)が主要テーマ。ほかに短編集『アイスクリーム頭痛』(1968)などがある。
[寺門泰彦]
アフリカン・アメリカン(黒人)の詩人、劇作家、批評家。ニュー・ジャージー州生まれ。誕生名エバリット・リロイ・ジョーンズ。1960年代の一連の人種差別的できごとや事件を経験するなかで、ビート世代の白人文化を拒絶、黒人民族主義者となりつつあったが、1965年のマルコム・エックスの暗殺が決定的な契機となり、拠点をニューヨークのハーレムに移し、名前もイスラム的にイマム・アミール・バラカ、のちにアミリ・バラカと改名した。
[関口 功・編集部]
イギリスの詩人、画家。ケント生まれ。「モザイク」手法による自伝的な戦争小説『括弧(かっこ)に入れて』(1937)やアーサー王伝説を枠組みとする実験的で難解な長編詩『破門宣告』(1952)などによって知られ、注目されている。画家としてはウィリアム・モリスの流れをくむ版画や宗教的な水彩画などを手がけ、S・T・コールリッジの『老水夫の歌』に触発されてつくった銅版画はとくに有名。
[富士川義之]
イギリスの建築家。ロンドン生まれ。当初、宮廷仮面劇の衣装や舞台装置の制作に携わっていたが、二度目のイタリア旅行(1613~15)でパッラディオのルネサンス建築の研究に専念。1615年、国王ジェームズ1世により建築総監督官に任命され、ピューリタン革命の勃発(ぼっぱつ)(1642)までその任にあった。その間、ロンドンのバンケッティング・ハウス(1622)やグリニジのクイーンズ・ハウス(1635)など「イギリスのパッラディオ」と称されるにふさわしい作品を残し、イギリスに古典主義建築を定着させた。またストーンヘンジの研究家としても知られるが、彼はこれを古代ローマの遺構と結論づけている。
[谷田博行]
イギリスにはじめて古典主義の伝統を確立した建築家。ロンドン生れ。最初は劇作家ベン・ジョンソンと組んだ宮廷仮面劇の舞台装置や衣装の製作で名声を得る。そこでの遠近法を用いた背景づくりが,建築設計への志向を高めたとみられる。2度目のイタリア旅行(1613-15)では,第1回の大陸旅行(1598-1603)で入手したパラディオの《建築四書》(1570)を携えて,その作品や古代遺構を研究し,古典主義を修得。1615年,国王ジェームズ1世により建築総監に任命され,清教徒革命後に解任(1643),投獄(1644-45)されるまで,宮廷を中心に主としてロンドンで建築活動を続けた。バンケッティング・ハウス(1622)やクイーンズ・ハウス(グリニジ,1635。現,国立海事博物館)など,細部意匠はパラディオやセルリオらの建築を手本としながら,全体構成では重厚で,整然とした造形を追求。パラディオに基づきトスカナ式オーダーを復元したセント・ポール教会(1637)を含む,コベント・ガーデンCovent Gardenにおけるイギリス最初の広場計画,ホワイトホール宮殿計画案(1638ころ),セント・ポール大聖堂の修復(1642。1666焼失)などが主要作である。ジョージ王時代に流行する都市住宅の先駆けといえるリンゼー・ハウス(1640ころ)も彼の作とされ,18世紀の,とくにパラディオ主義の建築に強い影響を与え,イタリアの古典主義建築家と並ぶ尊敬と評価を受けた。古代遺跡,ストーンヘンジの研究者としても知られ,著作は死後,弟子のJ.ウェッブにより刊行された。
執筆者:星 和彦
アメリカの画家。サウス・カロライナに生まれる。1955年ころからアメリカ国旗,数字,アルファベット,標的,地図などを蜜蠟をまぜた絵具で稠密(ちゆうみつ)に描きはじめる。58年,抽象表現主義の全盛期に開かれた最初の個展は,そのモティーフの卑俗さのために,ネオ・ダダと酷評された。しかし,ジョーンズが,旗などの“平たい”イメージを描いたのは,二次元の画面には二次元のイメージしか描かないという,きわめて意識的な,自己抑制的な戒律からだった。絵画は三次元の現実を二次元に投影した“影”でありつづけたが,彼の〈旗〉は,すばらしい絵画的表現であると同時に,恣意を排した,本物の旗という事物になったのである。作品をそれ自体で自立した事物に化そうとする現代美術の原点がここにある。また日常的な世界に注目したという点で,ロバート・ラウシェンバーグとともにポップ・アートへの道を開いたともいえよう。60年代半ばから,彼の作品には,流動的な表現に加えて,脚などの鋳型やビール缶などのオブジェが登場する。その“晦渋さ”には世界の不可知なあいまいさをそのままにとらえようという意識が反映している。ひとつの見方では世界はとらえられないことを,ジョーンズは,錯綜し多重化した画面を通じて,見る者に暗示するのである。70年代以降は,せめぎ合う線の羅列や,ゆがんだ四角形の目だつ“抽象的”なスタイルに変わってくる。また版画作品の質の高さも定評のある画家である。
→ポップ・アート
執筆者:東野 芳明
アメリカの黒人文学者。小説,詩,劇,文学評論,社会評論等幅広い分野で活躍し,R.ライト,R.エリソン,J.ボールドウィンに次いで現れた才人として注目されている。ニュージャージー州ニューアーク市の生れ。1950年代末ころからニューヨーク市のグリニチ・ビレッジの前衛的芸術家とともに詩作や劇作を試みはじめ,《ダッチマン》《トイレット》《奴隷》(いずれも1964初演)をたてつづけに発表,オフ・ブロードウェーの問題作家として脚光をあびた。また小説《ダンテの地獄組織》(1965),評論集《根拠地》(1966)などでしだいにラジカルな姿勢を明確にした。1967-68年の黒人解放闘争の高揚期には,急進的黒人文学者グループの旗頭的存在として実際行動に挺身した。〈革命の武器としての文学〉を唱え,一時はマルクス主義を経て毛沢東主義へ傾斜し,名前もアラビア語のバラカAmiri Barakaに変えて,白人的価値観の廃絶をつよく主張している。また,〈白いアメリカの黒い音楽〉の副題をもつ《ブルースの魂》(1963)は,ジャズとブルースを歴史社会的にとらえた好著である。
執筆者:浜本 武雄
イギリスの音声学者。ロンドン生れ。1921年から49年の間,ロンドン大学教授として,同大学における音声学の研究を確立した。同時にヨーロッパ大陸の学者ともよく交わり,国際音声学協会でも会長その他重職に就き,イギリス音声学の水準を高めた。またアメリカやインドにも渡り,広く講演を行っている。日本には特に,その《英語発音辞典》(1917,14版1977)を通じて大きな影響を与え,国際音声字母に即した〈ジョーンズ式発音記号〉は大正年間に紹介されると大いに普及して,それまでの〈ウェブスター式〉にとって代わり多くの英語辞書に用いられた。上記辞典は現在は弟子のA.C.ギムソンにより改訂され,使用記号が少し異なっているが,日本では初版の方式が普及していて,これによりアメリカ発音を表記する方法もくふうされ,定着している。彼の学問はよい意味での実用性を備えており,《英語音声学大要》《英語の発音》《音素--その性質と用途》などの著書により,独特ながらも均衡がとれ有益な考察を発表している。
執筆者:三宅 鴻
イギリスの精神分析学者。ウェールズに生まれ,1900年ロンドン大学医学部卒。はじめ神経病医として開業したが成功せず,09年から12年までカナダのトロント大学精神科に奉職。その後フェレンツィに教育分析を受け,ロンドンで精神分析者として開業。フロイト理論の解説と普及以外にさしたる理論的業績はないが,イギリス精神分析学会,国際精神分析学会の会長を長くつとめ,《国際精神分析誌》(英語版)を編集し,M.クラインをロンドンに招いて〈イギリス学派〉の創立を助け,多くのユダヤ人精神分析学者,とりわけフロイトのロンドンへの亡命に尽力するなど,社会的には大いに活躍した。フロイトの伝記作者としても有名。
執筆者:岸田 秀
イギリスの劇作家。社会性のある問題を扱った戯曲によって,メロドラマが支配していた19世紀後半の劇壇に新風を吹きこんだ。しかし,今日から見ると,問題の追求には深みが欠け,むしろメロドラマ風の劇作術と自然主義的なせりふが作品を支えていたことがわかる。代表作は聖職者の姦通を扱った《マイケルと彼の失われた天使》(1896)や《デーン夫人の弁護》(1900)など。G.B.ショーは彼を高く評価した。
執筆者:喜志 哲雄
アメリカの大衆伝道者。宣教師を輩出したアズベリー大学を卒業(1906),翌年インドへ宣教師として赴く。メソディスト教会の監督に選ばれたが(1928),これを辞して,世界各地に活発な伝道を始める。日本にも1949年以後2年ごとに来て各派協同の大伝道会を指導した。著書《インド途上のキリスト》(1925)は世界中で読まれて大衆伝道の動力となった。
執筆者:小倉 義明
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1746~94
イギリスの法律家,インド学者。アラビア語,ペルシア語を学んだのち法律を学び,1783年カルカッタの裁判官となる。ベンガル・アジア協会を創設し,インド学の基礎を築いた。1786年アジア協会での講演でサンスクリットと古代ギリシア語などの間の類似性を明らかにし,インド・ヨーロッパ語比較言語学の基礎をも築いた。マヌ法典,カーリダーサの『シャクンタラー』などの原典,翻訳を出版した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…これに対し後舌母音では,[u]→[o]→[ɔ]→[ɑ]の順に舌が下がっていく。このためイギリスの音声学者D.ジョーンズは図8のような母音四角形を提示している。これによると前舌母音系列は[i]と[a]の間が[e]と[ɛ]で3等分され,後舌母音系列では[u]と[ɑ]の間が[o]と[ɔ]で3等分されている。…
…この音素の規定は1930年代から40年代にかけて言語学の主要課題であった。音素については,これを具体的音声から抽出された音声概念とするポーランドの言語学者ボードゥアン・ド・クルトネの素朴な見解から,一方では心理的実在としてある型をなすものとするE.サピアの説および同質の音声のグループと解するD.ジョーンズの見方に進み,ついに音素は虚構であるというアメリカの言語学者トウォデルW.F.Twaddell(1906‐ )の極論にいたった。これに対し,L.ブルームフィールドは音素を物理的実体としてとらえる立場を表明した。…
…ルネサンス様式と後期ゴシック(垂直様式)の混交した16世紀前半の〈チューダー様式〉の後,エリザベス1世の時代(1558‐1603)には,イタリア風のシンメトリーも取り入れた〈エリザベス様式〉が行われた。17世紀に入るとI.ジョーンズがイギリス建築に新紀元を開く。彼は40歳のとき,2度目のイタリア旅行でイタリア・ルネサンスの建築家A.パラディオの作品に感激し,イギリスにおけるパラディオ主義の最初の大建築家となった。…
…同王はP.P.ルーベンス,ベルニーニ,ファン・デイクの名品収集やマントバのゴンツァーガ家の有名なコレクションの購入など,芸術を擁護したが,このとき夥しく導入されたイタリア・ルネサンス絵画,特にベネチア派の名画はイギリス美術の展開に大きく影響した。当時最大の建築家イニゴ・ジョーンズも2度のイタリア遊学によって古典古代の建築法とパラディオの建築作品に親しみ,明快典雅な作風を獲得し,帰国後王室建築総監督に就任してイギリス・ルネサンスの始祖となった。現在国立海事博物館となっているグリニジのクイーンズ・ハウスは彼が王妃アンのために建てたもので,イタリアのビラvilla形式にのっとった対称的形体をもつ。…
…パラディオの理論や技法は一見単純で,作品もいくつかの典型的条件に対応する現実的な型としてとらえられ,しかもその開放的空間理念が魅力的であったために,ヨーロッパ各地に模倣・追随者を生み出した。なかでも,パラディオ没後ベネト地方の建築界に君臨したスカモッツィ,イギリス近世建築の祖イニゴ・ジョーンズらは有名。特殊な例として,1720‐60年ころにかけて,イギリスのバーリントン伯爵の企てた建築界全体のパラディオ化があり,この結果,有産階級がこぞってパラディオ風のカントリー・ハウスを建てた。…
…〈黒人音楽〉と訳されるが,1967年に黒人の詩人でジャズ批評家であるリロイ・ジョーンズLeRoi Jones(1934‐ )がこの語をタイトルとした本を出すまで,ほとんど使われたことのない言葉だった。ジョーンズはそれまでの〈ジャズ〉に代わる言葉として使ったが,1970年代以降,アフリカ音楽をも含めたさまざまな黒人音楽がクローズアップされるに及んで,この語はより広い意味で盛んに使われるようになった。…
…彼の《アメリカの息子》(1940)その他の作品によってアメリカ黒人文学は一躍世界の注目をあびることになった。第2次大戦後,ユダヤ系アメリカ人の文学とならんで,R.エリソン,J.ボールドウィン,L.ジョーンズらの活躍によりアメリカ文学そのものの様相が大きく変わるまでに力を発揮するようになった。さらに60年代半ばからの黒人運動の高まりにつれて,文学の方面でも黒人作家の活動がめざましくなる。…
…〈黒人音楽〉と訳されるが,1967年に黒人の詩人でジャズ批評家であるリロイ・ジョーンズLeRoi Jones(1934‐ )がこの語をタイトルとした本を出すまで,ほとんど使われたことのない言葉だった。ジョーンズはそれまでの〈ジャズ〉に代わる言葉として使ったが,1970年代以降,アフリカ音楽をも含めたさまざまな黒人音楽がクローズアップされるに及んで,この語はより広い意味で盛んに使われるようになった。…
※「ジョーンズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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