フメリニツキー(読み)ふめりにつきー(英語表記)Богдан Михайлович Хмельницкий/Bogdan Mihaylovich Hmel'nitskiy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「フメリニツキー」の意味・わかりやすい解説

フメリニツキー(Bogdan Mihaylovich Hmel'nitskiy)
ふめりにつきー
Богдан Михайлович Хмельницкий/Bogdan Mihaylovich Hmel'nitskiy
(1595ころ―1657)

ウクライナ独立運動の指導者。通称ジノービーЗиновий/Zinoviy。ポーランド領ウクライナの生まれ。リボフ(現、リビウ)で教育を受け、初めポーランドのコサック軍に入った。1640年代なかばころよりポーランドに対する反乱に着手し、ザポロージエ(現、ザポリージャ)に逃れ、そこでゲットマン(首領)に選ばれた(1648)。1648年にウクライナ民衆が蜂起(ほうき)すると、彼の率いるコサック軍は各地にポーランド軍を撃破し、彼はポーランドとの間に「ズボロフの和」を結んだ(1649)。1651年に戦争を再開したが、彼の軍は敗北した。彼は以前からモスクワ政府に援助を求めていたが、皇帝アレクセイはゼムスキー・ソボール(全国会議)の意向に基づき、1654年にポーランドと開戦し、ウクライナを併合した。彼は、1657年8月6日に故郷のチギリンで死去した。

[伊藤幸男]


フメリニツキー(ウクライナ)
ふめりにつきー
Хмельницкий/Khmel'nitskii

ウクライナ西部、フメリニツキー州の州都人口25万4000(2001)、26万5583(2018推計)。ウクライナ西部を広く覆うポドリスカヤ丘陵に位置し、ブーフ(南ブク)川上流に面する。キーウ―プラハ間の国際鉄道の要地。鋳造、変電所設備、合成樹脂などの工業部門もあるが、豊かな農牧地域の中心地として、食肉食用油脂、乳・酪製品、テンサイ糖、繊維などの農産加工によって知られる。福利厚生事業についての研究教育機関、郷土館などが置かれている。市の起源は1493年で、長い間プロスクーロフПроскуров/Proskurovとよばれてきたが、ロシア・ウクライナ併合300年に際し、1954年に併合時の英雄、ウクライナの将軍フメリニツキーを記念して改称された。

渡辺一夫

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フメリニツキー」の意味・わかりやすい解説

フメリニツキー
Khmel'nitskii, Bogdan Mikhailovich

[生]1595頃.チギリン?
[没]1657.8.16. チギリン
ザポロージエ (ウクライナ) ・コサックのヘトマン (首領) 。ポーランドで教育を受け,ポーランド軍とともにトルコ軍と戦ったが,ポーランド人総督と衝突して,ザポロージエ・コサックのもとへ行き,そのヘトマン (1648~57) となった。そこでポーランドの支配に苦しむコサックと農民を率いてポーランドに攻撃をしかけ,しばしば勝利を獲得したが,ついに敗れ,1654年ロシア皇帝アレクセイ1世に保護を求めるにいたった。ロシア軍はそれを受けて,ポーランドと戦い,ウクライナ (ドネプル川左岸) はポーランド支配から脱することができたが,自治の夢は実現されず,代ってロシアによる支配が漸次確立された。

フメリニツキー
Khmel'nitskii

1954年までプロスクーロフ Proskurov。ウクライナ西部,フメリニツキー州の州都。首都キエフの西南西約 280km,南ブーグ川上流部にのぞむ。 15世紀後半から知られ,1795年市となった。変圧器,トラクタ部品,鍛造・プレス機などの製造業,食品工業 (砂糖,乳製品,食肉) ,縫製,製靴などが主要工業である。工科大学,交響楽団,郷土博物館などの施設をもつ。鉄道の要地で,リボフ-オデッサ間,チェルノフツイ-コロステン間の鉄道が交差する。人口 24万 5000 (1991推計) 。

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