改訂新版 世界大百科事典 「ブラックシネマ」の意味・わかりやすい解説
ブラック・シネマ
black cinema
〈ブラック・フィルム〉あるいは〈ブラック・ムービー〉ともいわれ,日本語に訳せば〈黒人映画〉であるが,その背景には長い歴史がある。アメリカ映画に〈黒人〉が登場したのは,ストー夫人の《アンクル・トムの小屋》の最初の映画化(1903)で,これはエドウィン・S.ポーター監督による12分の作品であったが,このときトムを演じたのは顔を黒く塗った白人の俳優であった。同じ原作の4度目の映画化(1914。W.R. ダリー監督)で初めて黒人の舞台俳優サム・ルーカスがトムを演じたが,一般には白人の俳優が顔を黒く塗って黒人を演ずることはその後もつづいた。映画史を飾るD.W.グリフィス監督の《国民の創生》(1915)でも黒塗りの白人が黒人を演じているが,この作品は映画の芸術的手法を確立すると同時に人種差別を最初に主張・宣伝した作品として批判されることになった。とくに黒人の反発は根強く,黒人教育家ブッカー・T.ワシントンの秘書であったエメット・J.スコットが1916年に設立した〈リンカン・モーション・ピクチャー・カンパニー〉は,シカゴで12巻,3時間の大作《リンカンの夢》を製作し,18年に《人種の創生》と改題して公開した。白人の社会で差別された黒人は,黒人の社会で黒人だけの娯楽場や映画館をもつ必要にせまられ,そのため1914年ころから黒人の手で黒人のための映画がハリウッドの外でつくられつづけた。
黒人の生活と宗教を題材にしたキング・ビダー監督の〈オール・ブラック〉映画《ハレルヤ!》(1929)のような例外もあるが,ハリウッド映画で黒人俳優が演ずるのは,白人に支配されて白人に仕える類型的な役に限定されていた。38年人気歌手レナ・ホーンが黒人演技者として初めてハリウッドの〈メジャー〉の一つであるMGMと長期契約を結び,またアメリカのラジオで歌った最初の黒人歌手ハッティ・マクダニエルが《風と共に去りぬ》(1938)で黒人俳優として初めてアカデミー助演女優賞を受賞し,黒人の登場する映画が次々につくられ,さらにシドニー・ポワチエSidney Poitier(1924- )が《野のユリ》(1963)でアカデミー主演男優賞を受賞するに至って,ハリウッドにおける黒人俳優の存在は確固たるものになった。
60年代後半には,〈ブラック・パワー〉というスローガンの下に,黒人にとっての理想は白人と融合して白人の文化を身につけることではなく,白人から分離して黒人だけの文化を保つことであると主張されはじめる。67年にはアメリカの人口の15%を,そして映画観客の30%を黒人が占めていた。映画が多様化する傾向のなかで,ハリウッドは黒人による黒人のための映画を製作しはじめる。ハリウッドの初めての黒人監督として《知恵の木》(1970)でデビューしたゴードン・パークスGordon Parks(1925- )が,ハーレムを舞台に活躍する黒人の私立探偵を描いた《黒いジャガー》シリーズ(1971-72),ゴードン・パークス・ジュニア(1948- )監督の《スーパー・フライ》(1972)などの成功によって,〈ブラックスプロイテーションblaxploitation〉とよばれる黒人向けの映画の製作と興行は発展し,70年代のアメリカ映画の一つの特色とすらなった。しかしそれがハリウッド映画である限り,黒人の魂をもたない〈ミュラトウ(混血黒人)の映画〉にすぎないことを黒人作家ジェームズ・ボールドウィンはその自伝的映画論《悪魔が映画をつくった》(1976)のなかで分析している。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報