改訂新版 世界大百科事典 「ブラバツキー」の意味・わかりやすい解説
ブラバツキー
Helena Petrovna Blavatsky
生没年:1831-91
ロシアの神秘思想家。神智学協会の創立者。ドイツ系のロシア貴族P.A.vonハーン大佐と著名な女流作家H.A.ファジェーエフの娘として南ロシアのエカチェリノスラフ(現,ドニエプロペトロフスク)に生まれた。18歳でエリバン州副知事N.V.ブラバツキー将軍と結婚。幼いころから超自然現象を霊視していた彼女は,20歳のころ,当時最高の霊媒として,ヨーロッパ,アメリカ,エジプトで活躍する一方,事業家としてインキ工場や造花商を営み,また探検家として世界の秘境を旅行した。生来キリスト教を嫌悪し,1867年には男装して,ローマ教皇に反抗するガリバルディの義勇軍に参加,負傷したりもしている。20~30代の彼女はこうして遍歴を続けながら,比較宗教学,民族学,博物学を研究し,またチベット密教,カバラ,エジプト魔術の行法を通して,生来のいわゆるオカルト能力のいっそうの開発に努めた。その後75年に,オルコットH.S.Olcott(1832-1907)の協力を得て,ニューヨークに神智学協会を設立した。
〈いかなる宗教も真理より高くはない〉をモットーとするこの協会を通して,彼女は19世紀末の精神的困窮の最大要因,つまり信仰生活にまで浸透してきた唯物論的風潮を克服する道を提示しようとした。しかし,チベット山中の大師〈マハトマ〉から霊的な指令を受け,数々の奇跡を実践するといった初期の活動形態は,内部告発や心霊学者の調査によって詐術性を暴露されたため,一時は窮地に陥った。それにもかかわらずブラバツキーは《ベールをぬいだイシス》(1877)と《神秘教義》(1888)の二大主著(いずれも英文)を著して自身の教義の普及に努めた。W.E.コールマンによれば《ベールをぬいだイシス》には1400に及ぶ古典的著作から2100の引用がなされている。彼女はこれらの著述の中で,すべての宗教教義の背後に太古からの同一啓示が存在すると述べたÉ.レビの主張を実証しようとし,近代文明を特徴づけている自然科学的思考方法が自然の目的論的側面を解明できない理由を明らかにする一方,人間の本質を宇宙のヒエラルヒーの中に正しく位置づけようとした。鉱物,植物,動物,人間から霊的諸存在にまでいたる存在界の壮大な宇宙的統一性についての根拠を提示しようとする彼女の試みは,19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカのキリスト教文化に大きな影響を与えた。80年仏教徒となり,82年インドのアディアルに居を移した彼女と神智学協会の東方志向は,インド,中国,日本の宗教界を活気づけたのみならず,各地の独立運動の精神的支柱にもなった。日本には89年にブラバツキー思想が初紹介され,1910年にはその著《霊智学解説》が翻訳出版された。また1885年オルコットが仏教連盟の招きで来日,仙台,東京,山口などで講演をしたときの事情は彼の回顧録《古い日記帳の頁より》(1895-1910)に詳しい。それ以後,仏教各派のみならず,教派神道(とくに大本系)にその影響が著しい。なお彼女の後継者の一人,ベザントはイギリス労働運動とインド国民会議派の指導者としても著名であり,ブラバツキー死後の運動に社会改革的方向を加えた。
→神智学
執筆者:高橋 巌
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報