改訂新版 世界大百科事典 「ブラバント革命」の意味・わかりやすい解説
ブラバント革命 (ブラバントかくめい)
Brabantse Revolutie
1789-90年,フランス革命勃発前後にブラバント地方に発した,ベルギーのオーストリア支配からの独立運動。母マリア・テレジアの死(1780)でオーストリア帝国の単独統治者となったヨーゼフ2世は,その啓蒙専制主義的統治をベルギー(オーストリア領ネーデルラント)に適用しようと企て,各州の身分制議会の廃止,知事による中央集権的統治,観想的修道院の廃止,信教の自由,国家による司祭養成などの改革を性急に導入した。これに対し,保守派の〈三部会派〉(指導者H. ファン・デル・ノート)と,啓蒙主義やアメリカ独立戦争の影響を受けたブルジョア的民主派の〈フォンク派〉(指導者J.F. フォンク)は,提携して反抗に立ち上がり,オーストリア軍を破って〈ベルギー合州国〉を樹立した(1790年1月)。しかし,保守派は旧体制への復帰を目標とし,急進的改革を目ざす民主派に弾圧を加え,彼らをフランスに亡命させた。一方,兄ヨーゼフ2世の死後を継いで神聖ローマ皇帝に即位(1790)した現実主義的なレオポルト2世Leopold Ⅱ(1747-92)は,改革の撤回を約してベルギー人をなだめるとともに,プロイセンの支持のもとに軍を送ってベルギー合州国を降伏させ(1790年12月),ブラバント革命は失敗に終わった。
執筆者:石坂 昭雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報