ベーリング(読み)べーりんぐ(英語表記)Emil Adolf von Behring

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベーリング」の意味・わかりやすい解説

ベーリング(Emil Adolf von Behring)
べーりんぐ
Emil Adolf von Behring
(1854―1917)

ドイツの細菌学者。プロシアのハンスドルフ(現、ポーランド)生まれ。1874年ベルリンの陸軍軍医学校に入り、1878年学位を取得。軍務に従ったのち、1888年陸軍医学校教官、翌1889年ベルリン大学のコッホの研究室の助手となる。同じ研究室の北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)と共同して破傷風菌の純培養、ついで破傷風抗毒素血清の単離に成功(1890)、さらにジフテリア血清療法についても発表した。この血清療法は免疫学の発展に大きく貢献するものであり、その業績に対し1901年第1回ノーベル医学生理学賞が授与された。1891年コッホとともに伝染病研究所に移り、1894年ハレ大学、翌1895年マールブルク大学の教授となった。

藤野恒三郎


ベーリング(Vitus Jonassen Bering)
べーりんぐ
Vitus Jonassen Bering
(1681―1741)

デンマーク生まれのロシアの探検家、航海家。1703年ロシアに海軍将校として招かれ、25年第一次カムチャツカ探検隊長に任命された。探検隊の主要目的は、アジアシベリア)とアメリカとが陸続きであるかどうかを確かめることにあった。ベーリング隊は、カムチャツカ半島東岸を北上し、28年8月15日、北緯67度18分、西経167度の地点に達し、両大陸の間に海峡が存在することを確信した。海峡はのちに彼の名にちなんでベーリング海峡とよばれる。彼は、33年ふたたび第二次カムチャツカ探検隊長に任命された。シベリアを横断し、カムチャツカから北アメリカ沿岸に達して、アリューシャンアレウト列島の一部を発見した。その帰途に、のちにベーリング島と名づけられた島で越冬中、病死した。

[栗生沢猛夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベーリング」の意味・わかりやすい解説

ベーリング
Behring, Emil von

[生]1854.3.15. ハンスドルフ
[没]1917.3.31. マールブルク
ドイツの細菌学者,免疫学者。 1877年ベルリンで医師の資格を得,軍医となり,88年ベルリンの陸軍医科大学講師。 89年ベルリンのコッホ伝染病研究所助手となり R.コッホに師事。翌年北里柴三郎とともに破傷風の血清療法を創案,90年 12月3日「破傷風抗毒素血清」を共同研究として発表,その1週間後にはベーリング単独でジフテリアの血清療法を公にした。ジフテリア抗毒素は 92年市販された。またヘクスト社が提供した研究所で結核の研究を続け,ウシ結核の免疫ワクチン (ボボワクチン bovovaccine) を創成した。 1901年ジフテリア血清療法の研究に対して,最初のノーベル生理学・医学賞が贈られた。主著『免疫血清療法』 Die Blutserumtherapie (1892) ,『破傷風病原論』 Ätiologie des Tetanus (1904) 。

ベーリング
Bering, Vitus Jonassen

[生]1681
[没]1741.12.19.
デンマーク生れのロシアの航海者。 1703年ロシア海軍に入り,24年までバルト海,アゾフ海艦隊に勤務。 25年第1次カムチャツカ遠征隊 (1725~30) 隊長に任じられた。この遠征の目的はアジアとアメリカの間が地峡か海峡かという謎を解決するためで,彼はのちにベーリング海峡と呼ばれる海峡を通過したが,このときにはそれに気づかず,謎を解くことはできなかった。 33年からの第2次カムチャツカ遠征ではシベリアを横断し,カムチャツカに達し,そこから北アメリカ沿岸に到達した (41) 。その間アリューシャン列島の一部を発見したが,その帰途,のちに彼の名で呼ばれることとなる島で越冬中飢餓と寒さのため死没。

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