ドイツの細菌学者。パスツールと並んで「細菌学の祖」と尊称される。クラウシュタールに生まれ、1862年ゲッティンゲン大学に入学、医学を修めた。卒業後にラクウィッツで医業を開業、プロイセン・フランス戦争(1870~1871)では軍医として従軍、復員後、地方衛生技師試験に合格した。ウォルシュタインで医官として市民の診療のかたわら、原始的な研究室で炭疽(たんそ)家畜死体の血液中にみられる桿状体(かんじょうたい)の研究に熱中した。当時フランスのダベーヌCasimir Joseph Davaine(1812―1882)は炭疽死体にみられる桿状微生物をbacteridiumと名づけて炭疽病原とみていた。コッホは、この桿状体が顕微鏡の下で糸のように長く成長し、やがてはその体内に芽胞を形成することを連続観察した。そしてこの芽胞が発芽する条件をも調べた。すなわち、死体血液をマウスに接種すると翌日には死ぬ。そのマウスの血液脾(ひ)には桿状体が無数に存在することを証明し、マウスからマウスへと20代も連続継代した。またウシ眼房水で純培養を行い、この培養菌をマウスに接種して前例と同様の病変を証明した。
1876年4月2日、以上の研究成果について、ブレスラウ大学教授で植物学者のコーンFerdinand Julius Cohn(1828―1898)とその同僚たちの前で標本供覧講演を行い賞賛を受け、コーンの厚意によって専門雑誌に発表した。続いて創傷感染の病原菌を研究して、膿(のう)中のブドウ球菌、連鎖球菌を病原と認めて報告した。
1880年、ベルリンの国立衛生院正職員に抜擢(ばってき)された。このことは彼の偉業である結核菌の発見に大きくつながる。1882年3月24日、コッホは結核菌の発見についてベルリンでの生理学会で講演し、詳細な論文を同年の『Berliner klinische Wochenschrift』(『ベルリン臨床週刊誌』)の19号に発表した。染色されにくい結核菌の検出に、アルカリ性メチレンブルー40度40~60分を用いる特殊染色法を考案し、すべての肺結核患者の喀痰(かくたん)中にその存在を証明した。また凝固血清を用いて結核菌を培養し、実験動物にはモルモットを用いた。
病原菌の決定に関して、後の人が「コッホの原則」とよぶ以下の3か条を理念としていた。箇条書きにしたのは後の研究者であり、したがって人によって文章に違いがある。
(1)問題の微生物は、その病気のすべての症例において証明されなければならない。また病変に一致して分布していなければならない。
(2)病人の体外で、試験管内で純培養され、数代継代されなければならない。
(3)その培養菌を動物に接種して、同じ病気を再現しなければならない。
なお、のちになって、快復期の患者の血清中に、病原菌に対する抗体が証明された。そのため、これを病原決定に利用する、すなわち問題菌と快復期患者血清抗体との間におこる特異的抗原抗体反応の証明を、第4条としてあげる人もいる。
1883年、コレラ病原探究のためにエジプトに赴いたが、エジプトでは成果があげられず、インドにおいてコレラ菌の分離証明に成功、1884年7月7日のベルリンでのコレラ問題会議記録にその詳細がみられる。なお、今日、コレラ菌の学名はVibrio cholerae Pacini 1854となっている。これは、コッホの研究より30年前に、イタリアのパチニーFilippo Pacini(1812―1883)がコレラ死体の腸管内に活発に運動する微生物を発見、コレラの病原とみなして学名を与えて発表し、この論文の意義が認められているためである。だが、コレラ菌の実際的な科学はコッホから始まっている。1885年ベルリン大学教授。
1890年、結核に対する特効治療薬としてツベルクリンを発表した。ツベルクリンは皮膚結核に対しては劇的な効果をもたらしたが、肺結核その他に対しては逆効果すら問題となり、結局、結核のアレルギー診断(ツベルクリン反応)薬として活用され今日に及ぶ。
青年時代に探検家にあこがれていたと伝記にみられる。成人になってからのコレラ菌探究の旅行のほかに、エジプト、インド、ニューギニアに旅行し、熱帯病調査研究と対策のために貢献した。赤痢アメーバはその間に発見した記念碑的業績である。1891年国立伝染病研究所初代所長となり、ドイツの科学アカデミー会員のほか、ストックホルム、フランス、ウィーンのアカデミー会員にも推され、1905年「結核に関する発見と研究」によりノーベル医学生理学賞を受賞した。
1908年(明治41)6月12日、夫人とともに来日、横浜に上陸し、8月24日まで滞在、アメリカを経て帰国したが、その間の状況は石黒忠悳(ただのり)編『細菌学雑誌臨時増刊、ローベルト・コッホ氏歓迎記念号』(1908)に詳しく記録されている。1910年5月27日死去。葬儀には日本から北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)の代理として秦佐八郎(はたさはちろう)が参列した。北里はコッホ滞日中にひそかに毛髪を採取して保存し、没後これを祀(まつ)ってコッホ祠(し)を建立、この祠(ほこら)には1931年(昭和6)死去の北里も合祀され、今日も北里研究所に収められている。
免疫血清療法のベーリング、化学療法のエールリヒはともにコッホ門下のノーベル医学生理学賞受賞者であり、この二人に続くジフテリア菌純培養の成功者でウイルス学のパイオニアのレフラーと日本の北里柴三郎はコッホ門下の四天王と称される。
[藤野恒三郎]
旧東ドイツの合唱指揮者。シェルヘンに学び、1931年からベルリンで合唱指揮者として活動する。レコード会社、放送局勤務を経て、ベルリン室内管弦楽団・同合唱団の創立に尽力、その指揮者となり、亡くなるまでその地位にあった。宗教音楽ならびにバロック・オペラを主たるレパートリーとし、これらを歴史的に忠実に再現するのに意を用いた。63年にはドイツ最古の合唱協会であるベルリン・ジングアカデミーを再興、音楽総監督を務めた。
[岩井宏之]
ドイツの細菌学者。結核菌の発見者で,細菌学の創始者の一人であるとともに,19世紀後半の細菌学黄金時代の中心的存在でもあった。鉱山技師の子として,クラウスタールに生まれた。1862年ゲッティンゲン大学に入学,医学を学ぶ。ここで,解剖学的業績とともに,病原微生物学史上,先駆的な見解を示したJ.ヘンレに多大な影響を受けた。卒業後しばらくは各地の病院に勤務したり,開業するなど,不安定な生活を送り,70年の普仏戦争には軍医として従軍するなどしたが,72年ボールシュタイン(現,ポーランドのボルシチン)で地方医師となる。ここで診療のかたわら,自宅に実験室を設け,細菌の顕微鏡的研究に没頭し,76年,当時流行していた炭疽病の病原菌を発見,炭疽菌の本態や培養法,感染経路などについて明らかにした。この成果は大きな反響を呼び,80年,帝国衛生院の所員に推薦され,82年に結核菌を,翌83年にはエジプトでコレラ菌を発見,同定した。彼はこれらの研究によって,伝染病は特定の微生物が体内に侵入することによって発症するという,ヘンレの仮説を立証し,さらに純粋培養など細菌の培養法,標本の固定法や染色法,顕微鏡撮影法などのさまざまな細菌学の手法を創始するとともに,細菌の病原性確認のための条件を確立して,現在の細菌学の基礎をつくった。その条件とは,(1)特定の伝染病になった個体からは,特定の病原微生物が必ず発見され,(2)その病原微生物が分離,同定され,(3)それを純粋に培養したもので原病が再現できるとき,その病原微生物がその病気の原因であることが証明される,とするもので,これは〈コッホの三原則〉といわれる。名声は大いにあがり,彼のもとには内外から俊英が集まり,つぎつぎと病原菌が発見され,研究法が開発された。F.レフラーのジフテリア菌発見,北里柴三郎の破傷風菌の発見などがある。85年にベルリン大学衛生学教授,91年にはベルリンに新設された伝染病研究所長となる。この間,90年にツベルクリンをつくって,結核の治療薬にしようとした。また晩年は熱帯病の研究に従事した。1905年,結核に関する研究によってノーベル生理・医学賞受賞,08年には北里らの招きで訪日している。
執筆者:川口 啓明
チロルの農民出身の画家。オーバーギブレン(現,エルビゲンアルプ)生れ。画才を見込まれ,1785年シュトゥットガルトのカールスシューレに送られたが,フランス革命の自由思想に触れ逃亡,アカデミーを〈無数の美術家が蛆(うじ)のように這い出す腐ったチーズ〉と呼び,独学で風景写生画を描きながら,アルプス地方からイタリアへ旅行。95年より大半をローマに暮らす。N.プッサンの影響下に,多少生硬だが雄大で構築的な英雄的風景画にまとめ上げた。A.J.カルステンスを通じ人物画にも手を染め,とくにダンテに傾倒して主題の枠を拡大。ローマに住むドイツ人風景画家たちに強い影響力を持った。
執筆者:大原 まゆみ
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1843~1910
ドイツの医学者,細菌学者。1876年脾脱疽(ひだっそ)菌,82年結核菌,83年コレラ菌など多くの細菌を発見し,細菌学の新領域を開拓した。1905年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
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…しかし,19世紀前半は,まだミアスマ説に従った衛生改革が成果をあげつつあり,コンタギウム説はあまり支持者がなかった。
[研究室医学の発達]
ドイツにおいて,細菌学時代を開いたR.コッホが,地方で診療の余暇に,家畜の病気,脾脱疽病の原因としての細菌を発見し,ヘンレの教えに従って,それを証明した論文(1876)を指導的地位にあった数人の医学者に送ったが,ほとんど反応がなかった。1880年になって,突然ベルリンに新設された帝国衛生院の研究主任として就任することを求められる。…
…結核にかかっている人,とくに肺に空洞をもつ人が咳をしたとき,まわりに結核菌を飛び散らし,近くにいる人が吸い込んで感染する。結核菌Mycobacterium tuberculosisは1882年R.コッホによって発見されたグラム陽性菌で,長さ2~4μm,幅0.2~0.4μmの細長い杆菌である(ライ菌と同じ仲間で,よく似ている)。菌型にヒト型,ウシ型,トリ型の3型があり,ヒトには前2者が感染する。…
…これらの研究によって微生物病原論はその基礎を築いた。炭疽の病原菌である炭疽菌は,76年にR.コッホが純粋培養に成功し,それを動物に接種すると発病したことによって,炭疽と炭疽菌との因果関係が明確に示された。医学的な細菌学は,これ以降発展してくる。…
…しかし,殺菌することによって発酵の停止や病気の予防に役立てようとするのは,それより約200年後になってからであった。殺菌剤の検査をはじめて微生物を使って行ったのはR.コッホで,1881年に絹糸に炭疽菌の芽胞を付着させたものを用いた。これは固定菌法と呼ばれるが,その後,ガーネットや金属など多くの物体に菌を付着させて,殺菌効果を判定する方法が考案された。…
…ツベルクリンをアレルゲンとした抗原抗体反応をいい,結核菌の感染を受けているかどうかを調べる検査法として利用される。ツベルクリンは1890年,結核菌の発見者であるR.コッホによって,結核菌の培養ろ(濾)液を濃縮してつくられた。当初コッホが期待したように結核治療薬としては普及しなかったが,ピルケーClemens F.von Pirquet(1874‐1929),マントゥーCharles Mantoux(1877‐1947)らにより,ツベルクリン反応は結核感染の診断法として確立され,広く用いられるようになった。…
※「コッホ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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