ローレンス(読み)ろーれんす(英語表記)Sir Thomas Lawrence

デジタル大辞泉 「ローレンス」の意味・読み・例文・類語

ローレンス(Lawrence)

米国カンザス州東部の都市。カンザス川沿いに位置する。カンザス大学が所在する文教都市として知られる。ワトキンス博物館、ルドリッジホテルなど、19世紀後半の煉瓦造りの建物が多く残る。
米国マサチューセッツ州北東部の都市。メリマック川沿いに位置する。19世紀半ばにダムが建設され、繊維業で発展。現在も靴製造をはじめ、各種工業が行われている。詩人ロバート=フロストが学生時代を過ごした。

ローレンス(Ernest Orland Lawrence)

[1901~1958]米国の実験物理学者サイクロトロンを製作。第二次大戦中は原子爆弾製造を推進した。1939年ノーベル物理学賞受賞。

ローレンス(Thomas Edward Lawrence)

[1888~1935]英国の考古学者・軍人。アイルランド生まれ。イラクの遺跡発掘などに参加。第一次大戦中、トルコ領内のアラビア人の独立運動を指導し、「アラビアのローレンス」とよばれた。著「知恵の七柱」。

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精選版 日本国語大辞典 「ローレンス」の意味・読み・例文・類語

ローレンス

  1. ロレンス

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ローレンス」の意味・わかりやすい解説

ローレンス(David Herbert Richards Lawrence)
ろーれんす
David Herbert Richards Lawrence
(1885―1930)

イギリスの作家、詩人、批評家。新しい人間関係の可能性を探り、同時に、個人としての新しい生き方やものの見方の必要を唱えた。9月11日、イングランドの中部地方の都市ノッティンガムの北西、イーストウッドの村に生まれる。そこは美しい田園と人情に囲まれ、古いイギリスの名残(なごり)をとどめた小さな村で、炭鉱と製薬工場が代表する近代産業主義が、貧しい人々の生活様式と生活感情を急激に変えつつあった。無学で純朴な坑夫の父親と、都会で女教師を勤めたインテリの母親との間には相克が絶えなかった。ローレンス自身もその相克を背負って生きねばならず、初期を代表する自伝的長編『息子と恋人』(1913)には、この両親の問題が一つの軸となっている。

 1908年から13年にかけては、ローレンスの青春の終わりと新しい人生の展開を示すできごとが起こっている。ノッティンガムの、当時のユニバーシティ・カレッジ師範部で2年を過ごし、ロンドン南郊クロイドンの小学校教師となる。長編『白孔雀(くじゃく)』(1911)、『罪びと』(1912)の出版によりロンドンの文壇に登場。ジェシー・チェインバーズをはじめとする恋人たちとの決別。母の死。そして、ドイツ生まれで、すでに一男二女の母フリーダ・ウィークリーとの出会いがある。

 フリーダとの生活は、当初からドーバー海峡を渡りアルプスを越えて北イタリアに行くなど、その後の生涯を通じて放浪生活に終始した。第一次世界大戦中は、イギリス南部を転々として暮らす。1915年を中心に、ローレンスは多数の自由主義的知識人や芸術家と触れ合い、そのなかから独自の思想をみいだしていった。『虹(にじ)』(1915)や『恋する女たち』(1920)の大作を書いたのはこの時期である。没落の予感におびえる西欧社会にとって一つの可能性とみえたアメリカへの思いが募り、のちに『アメリカ古典文学研究』(1923)に結実する評論を書き始めたのもこのころである。

 第一次世界大戦後は、1919年秋からフリーダとともにまた海外放浪の旅に出て、その後は一時的帰国のほかは、ついにイギリス本国の生活に戻らなかった。21年、地中海からインド洋に、さらにオーストラリアからアメリカに渡り、以後、おもにニュー・メキシコで暮らす。放浪経験を素材として、『迷える乙女』(1920)、『アロンの杖(つえ)』(1922)、『カンガルー』(1923)、『翼ある蛇』(1926)など四つの長編が書かれた。また教育論、文明論『無意識の幻想』(1922)もこの旅先で書かれた。

 1925年、ヨーロッパに帰り、おもに北イタリアに本拠を定め、古代エトルリア人の遺跡を訪ねたり、精力的に旅を続けながら、長編『チャタレイ夫人の恋人』(1928)、中編『死んだ男』(1929)、またローレンスの遺書ともいえる評論『黙示録論』(1930、死後出版)など、晩年のローレンスを代表する作品を書いた。30年3月2日、南フランス、ニースを見下ろす高原の町バンスの借家で死んだ。

 放浪生活の行く先々では多くの人々に接し、また、よく手紙をイギリスの友人たちに書き送っている。辺地での、少数の選ばれた人たちによる共同社会、「ラーナーニム」の夢は最後までローレンスの脳裏を離れなかったようである(「ラーナーニム」は『旧約聖書』「詩篇(へん)」第33編の冒頭の一句のヘブライ語からとられた名称である)。ローレンスの遺骨はバンスの共同墓地に葬られたが、のちニュー・メキシコ州サンタ・フェの北北西サン・クリストバルのカイオワ牧場にも分納され、フリーダもここに眠っている。またイーストウッドの南、ニュー・イーストウッドの墓地には、ローレンス一族の墓が建てられ、デイビッド・ハーバートの名もここに刻まれている。

[羽矢謙一]

『小川和夫訳『無意識の幻想』(1966・南雲堂)』『羽矢謙一訳『愛と生の倫理』(1974・南雲堂)』『西村孝次編『ロレンス』(『20世紀英米文学案内6』1971・研究社出版)』『羽矢謙一著『D・H・ロレンスの世界』(1978・評論社)』『伊藤整他訳『ロレンス選集』全八巻(1950・小山書店)』


ローレンス(Ernest Orlando Lawrence)
ろーれんす
Ernest Orlando Lawrence
(1901―1958)

アメリカの実験物理学者、サイクロトロンの発明、開発者。サウス・ダコタ州カントンに生まれる。医学を志したが、1925年エール大学で物理学の学位取得。その後、同大学助教授(1927)、カリフォルニア大学準教授(1928)、教授(1930)となる。1936年同大学放射線研究所所長。非凡な才能を発揮、リビングストンMilton Stanley Livingston(1905―1986)らの協力を得てサイクロトロンを発明、コッククロフト‐ウォルトンの実験を再確認して(1932)以来、装置の改良、開発に努め、ベバトロンなどの巨大加速器の開発、建設を行い、原子核、素粒子に関する膨大な研究成果をもたらした。これらの業績により1939年ノーベル物理学賞を受ける。第二次世界大戦中は、原子爆弾に使用するウラン235の電磁的分離方式を主張、原爆製造(マンハッタン計画)の決定的推進者となっただけでなく、原爆の対日投下の政府決定に参画、さらに戦後は、「水爆の父」E・テラーに左袒(さたん)し水素爆弾製造の推進者ともなった。1958年8月27日カリフォルニア州パロアルトで死去。原子番号103の超ウラン元素ローレンシウムは彼の名にちなんで命名されている。1951年(昭和26)、1955年に来日した。

[大友詔雄 2018年12月13日]

『N・P・デイビス著、菊池正士訳『ローレンスとオッペンハイマー その乖離の軌跡』(1971・タイムライフ・インターナショナル)』『M・S・リヴィングストン著、山口嘉夫・山田作衛訳『加速器の歴史』(1972・みすず書房)』『中村誠太郎・小沼通二編『ノーベル賞講演 物理学 第6巻』(1978・講談社)』


ローレンス(Thomas Edward Lawrence)
ろーれんす
Thomas Edward Lawrence
(1888―1935)

イギリスの考古学者、第一次世界大戦下のアラブ独立運動指導者。「アラビアのロレンス」と称された。オックスフォード大学在学中、シリア、メソポタミア地方を旅し、卒業論文「十字軍城砦(じょうさい)」を執筆、歴史学の優等賞を得て卒業(1910)。1911年、ヒッタイトの古代都市カルケミシュの遺跡発掘隊に参加し、2年近く同地に滞在してアラブ人の言語や服装、食生活に慣れ親しんだ。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)(1914)とともに陸軍省に入り、トルコ参戦後、カイロに派遣されて情報活動に従事。1916年、トルコ領内のアラブ独立運動を支援するため、フセインの三男ファイサルの政治顧問、連絡将校となり、以後2年近く、身を賭(と)してゲリラ戦の指導にあたった。その体験は、不朽の名著『知恵の七柱(ななはしら)』The Seven Pillars of Wisdom(1926、省略版『砂漠の反乱』Revolt in the Desert〈1927〉)を生んだ。戦後、パリ平和会議のイギリス全権団に加わり、また植民地省のアラブ問題顧問を務めたが、政府の帝国主義的な中東政策に幻滅し、辞任した。その後、偽名で空軍の一兵卒となり、露見すると再度変名して戦車隊に入るなどしたが、1925年ふたたび空軍に入隊。1935年2月の除隊後は、ドーセットの山荘にこもった。3か月後、愛用のオートバイ交通事故で死去。

[石井摩耶子]

『柏倉俊三訳『知恵の七柱』全3巻(1969~1971/完全版・2008~2009・平凡社・東洋文庫)』『R・グレーヴズ著、小野忍訳『アラビアのロレンス』(1963・平凡社)』『中野好夫著『アラビアのロレンス』(岩波新書)』『スレイマン・ムーサ著、牟田口義郎・定森大治訳『アラブが見たアラビアのロレンス』(中公文庫)』


ローレンス(Sir Thomas Lawrence)
ろーれんす
Sir Thomas Lawrence
(1769―1830)

イギリスの画家。宿屋の息子としてブリストルに生まれ、幼時から肖像画家としての天分を発揮した。1786年ロンドンに出て、一時はロイヤル・アカデミーに学んだが、またたくまに肖像画家として頭角を現す。92年にはレノルズの後を継いで宮廷画家となり、94年にはロイヤル・アカデミー会員に選出された。1818年、時の摂政(せっしょう)(後のジョージ4世)の命により、対ナポレオン戦争で功労のあった列国の君主・軍人の肖像を描き、ヨーロッパ中に令名をとどろかせた。20年帰国後まもなく、ベンジャミン・ウェストの後を襲ってロイヤル・アカデミー会長に就任。みずみずしく軽快な筆触で描かれた彼の肖像画は、その後の若い世代の画家たちに強い影響を及ぼしている。

[谷田博行]


ローレンス(アメリカ合衆国、マサチューセッツ州)
ろーれんす
Lawrence

アメリカ合衆国、マサチューセッツ州北東部、メリマック川に臨む都市。人口7万2043(2000)。1845年から46年にかけてボストンの資本家らが工業町の建設を計画し、47年にアンドーバー、メシューエンから分かれてローレンスが誕生、1853年より市制が施行された。ダム建設をはじめ、工場や労働者宿舎の建設によって多くの労働者を集め、19世紀の全盛期には世界の毛織物工業の中心地の一つとして繁栄した。現在では縮小されてはいるものの、依然、繊維工業は盛んで、織機、電気器具、皮革など各種工業が発達する。市域には都市建設当初から多くの緑が残され、数多くの美しい公園やレクリエーション地は市民の憩いの場として親しまれている。

[作野和世]


ローレンス(アメリカ合衆国、カンザス州)
ろーれんす
Lawrence

アメリカ合衆国、カンザス州東部、カンザス川に臨む都市。人口8万0098(2000)。同州最大の大学であるカンザス大学(1866創立)をもつ落ち着いた文教・住宅都市であり、同大学を職場とする住民が多い。また、周囲の農業地帯から集まる農産物の取引地としても重要であり、食品加工業や肥料、農業機械などの工業が発達する。1854年に町が開かれた。

[作野和世]

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改訂新版 世界大百科事典 「ローレンス」の意味・わかりやすい解説

ローレンス
Ernest Orlando Lawrence
生没年:1901-58

アメリカの物理学者。サウス・ダコタ州カントンの生れ。サウス・ダコタ大学では医大予科の学生として在籍したが,物理学に興味を持ち,ミネソタ大学の大学院に進んで物理学を学ぶ。W.F.G.スワンの下で研究を行い,彼についてシカゴ大学,イェール大学へと移り,1925年にイェール大学で光電気に関する研究で学位を取得。28年カリフォルニア大学の准教授,30年同教授に就任,36年以降は同大学放射線研究所長。1929年に読んだドイツのR.ウィーダレーエの論文にヒントを得て,均一磁場と高周波電場を組み合わせて使用する粒子加速器サイクロトロンを発明,30年秋の全米科学アカデミーの会合で報告した。その後30年代を通して,直径4インチのサイクロトロンから60インチのサイクロトロンまでの装置を開発し,原子核変換の研究や,人工的な放射性同位元素の製造,放射線の医療への応用研究などを行った。これらサイクロトロンの発明と開発によって39年ノーベル物理学賞を受賞。第2次世界大戦中は,184インチのサイクロトロン用磁石を転用して,ウラン235の同位元素の電磁的分離法を開発するなど,原爆製造計画と深くかかわった。
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世界大百科事典(旧版)内のローレンスの言及

【原子力】より

…何百例という技術的方法が検討され,最終的に1944年,ガス拡散法とよばれる方法の開発に成功,翌45年,テネシー州オーク・リッジのウラン濃縮工場から最初のガス拡散法による濃縮ウランが送り出された。ウラン濃縮 他方,プルトニウムの同位体の一つ,プルトニウム239239Puが235Uと同じように核分裂しやすいという性質をもつことが,ウラン濃縮技術を研究開発中の1941年にE.O.ローレンスによって発見された。そこで,プルトニウムを生産することがマンハッタン計画のもう一つの課題となった。…

※「ローレンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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