前6世紀アテナイの僭主。初期僭主のうち最も史実の明らかな人物。ピュロスのネレイダイの子孫,前669か668年のアルコン,ペイシストラトスの孫といわれ,ヒッポクラテスとソロンの母の親類との子。貴族の名門の出であるがソロンの改革後の三党対立抗争の時は,〈山地党〉の首領として貧農や牧人をひきい,前565年ごろ隣国メガラとの戦いで名をあげ,前561年護衛兵をひきいてアクロポリスを占領し,僭主政を樹立した。反対派のメガクレス(海岸党)とリュクルゴス(平地党)は,結束して5年後には彼を追い出したが,メガクレスは自分の娘を彼がめとることを条件に和解し,彼の僭主政復活に力を貸した。しかしペイシストラトスとメガクレスの協力関係は間もなく破れ,ペイシストラトスはトラキア方面に亡命し,パンガイオン金山付近で資金をたくわえ傭兵をやとい,エレトリア,テーバイ,アルゴス,ナクソスの僭主リュグダミスの援助を得て前546年ごろマラトンに上陸し,さらにパレネの戦で政敵を破り,アテナイ市を占領して一人支配者となった。それから彼の死に至るまでの政治は,国制を変えることなく,ただ自分の一族が重要な役職につくようにして支配した。
彼の僭主政樹立の成功の基礎は商工業者の台頭にあったとする説もあるように,彼の時代にアッティカ黒絵の壺の製造がギリシアで1位を占め,またアテナイ固有の貨幣の鋳造がはじまり,さらに前530年ごろには華麗なアッティカ赤絵の製陶技術が開発されたことは事実である。しかし彼の勧農政策から見ると,支配の基盤は中小土地所有農民にあったと考えられる。彼はまた収穫の10分の1(または20分の1)を直接税として取り立てたから,勧農は同時に彼の収入源の確保につながった。〈村の裁判官〉を任じて巡回裁判をさせるとともに自らも田園を視察して農民間の争いを和解させ,彼の政治は後世〈クロノスの時代〉として善政をうたわれた。アテナイの国力はこの時代に急に強大となった。なお,このペイシストラトスの孫で,前512か511年アルコンとなった同名の人物も知られている。
執筆者:太田 秀通
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古代ギリシアのアテネの僭主(せんしゅ)。伝説上のピロスの王家であるネレウス家の出と称し、母方でソロンと血縁があった。紀元前565年ごろのメガラとの戦いで名声をあげ、党争のなかで平民などに支持されて第三の党派「山地党」を組織し、前561年にアクロポリスを占領して僭主となった。その後2度追放されたが、前546年に3度僭主の地位を獲得し、前527年に病死するまでそれを保持した。彼は、重要な官職を一族に与えたが、形式上はソロンの国制を存続させ、反対派貴族の多くの者にもアッティカにとどまることを許した。傭兵(ようへい)の護衛兵を備え、市民の武器を取り上げ、農産物に対して十分の一税を課したりはしたが、農業を奨励して中小農民を保護し、商工業の発展に努め、活発な公共建築活動を行い、また神々の祭りを盛んにして、後世「クロノスの世(黄金時代)」とたたえられる繁栄をアテネにもたらした。彼の死後は長子ヒッピアスが後を継いだ。
[清永昭次]
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?~前527
アテネの僭主(せんしゅ)で,古い僭主のなかで伝記と個性の最もよくわかる人物。名門に生まれ,メガラとの戦いに功を立て,前561年貧民を味方にして僭主となる。反対派の貴族のため2度亡命を余儀なくされたが,武力により3度僭主の地位につき,その僭主政治は彼の子の代まで続いた。市民に地租を課したが,小農民の育成に努め,暴君的なところはなかったという。
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… ソロンの改革は貴族と平民とを共に満足させるにいたらず,その後もアテナイでは三つの党派による苛烈な党争が展開されるが,それはしかし貴族政から民主政への着実な前進の過程であった。その第1の節目は,山地党の領袖ペイシストラトスによる僭主政の樹立である。前6世紀中葉,再度にわたる追放にも屈せず僭主としての地位を確立したペイシストラトスは,貴族の共同支配を否定し,一般市民に対しても武器の取上げを図るなど,非合法的な独裁者としての側面を示す一方,中小農民の保護育成に努め,国家の祭祀を盛んにし,また中心市アテナイの整備に尽力するなど,その治績は大いにあがった。…
…このためアテナイの政情は再び党争と混乱に陥り,アルコンを選出できない状態さえ生じた。 こうした状況の中で,平地党(大土地所有貴族を支持基盤とする)と海岸党(中流市民を支持基盤とし中道政治を主張する)と山地党(貧窮市民を支持基盤とし最も民主的と思われた)の争いが生じ,山地党を率いたペイシストラトスがアクロポリスを占領して僭主政を樹立した(前561)。僭主政は党争の中で動揺したが,ともかくもペイシストラトスの時代には善政をうたわれた。…
…さらに詩人や芸術家を集めて,彼らの支配に輝きを添えた。そしてアテナイのペイシストラトスなどのように民衆の人気を得るためディオニュソス信仰を奨励する僭主もいた。しかし,彼らは一方で官職を一味のもので独占したり,田園の農民が中心市に移り住むのを抑えたり,また市民から武器を取り上げて傭兵を雇ったりした。…
…ソロンはアルコンと調停者の任期を終えてから旅に出,エジプト,キプロス島などを歴訪した。党争を続ける祖国に戻ったのち,血縁関係にあるペイシストラトスが僭主政の樹立を狙っていることを見抜いて市民に警告したが,むなしかった。一説にキプロス島で死んだという。…
※「ペイシストラトス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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