ペイシストラトス(読み)ぺいしすとらとす(英語表記)Peisistratos

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペイシストラトス」の意味・わかりやすい解説

ペイシストラトス
Peisistratos

[生]前600
[没]前527頃
古代ギリシア,アテネ僭主 (在位前 561/0~527頃) 。ソロン血縁。前 565年頃ポレマルコス (軍事指揮官) としてメガラとの戦争で活躍し名声を揚げた。ソロンの改革後の混乱したアテネで,出身地アッチカ北東部を中心に中小農民や貧民から成る山地党をつくり,前 561/0年それを率いて僭主となった。その後,反対派の貴族のため2度追放されたが,トラキアのパンガイオン銀山で富を得,テーベ,アルゴスなどと同盟し,エレトリアを足掛りとして前 546年マラトン近くのパルレニスの戦いで反対派の貴族を倒し,僭主政を確立した。彼はソロンの国制は存続させたが,自分の一族を重要な役職につけ,民衆から武器を取上げ,地位の安定をはかった。しかし穏和で民主的な態度を貫き,勧農,小農民保護策をとったので,彼の支配下で農業はもちろん手工業も発展した。宗教面では,エレウシス秘儀の国家管理を目指し,パルテノン神殿などの建設に着手し,宗教を介して国家統一を推進。アテネはギリシア世界での優位を確立した。彼の時代はのちに「クロノスの時代」,すなわち黄金時代と回顧された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペイシストラトス」の意味・わかりやすい解説

ペイシストラトス
ぺいしすとらとす
Peisistratos
(前600ころ―前527)

古代ギリシアのアテネの僭主(せんしゅ)。伝説上のピロス王家であるネレウス家の出と称し、母方でソロンと血縁があった。紀元前565年ごろのメガラとの戦いで名声をあげ、党争のなかで平民などに支持されて第三の党派「山地党」を組織し、前561年にアクロポリスを占領して僭主となった。その後2度追放されたが、前546年に3度僭主の地位を獲得し、前527年に病死するまでそれを保持した。彼は、重要な官職を一族に与えたが、形式上はソロンの国制を存続させ、反対派貴族の多くの者にもアッティカにとどまることを許した。傭兵(ようへい)の護衛兵を備え、市民の武器を取り上げ、農産物に対して十分の一税を課したりはしたが、農業を奨励して中小農民を保護し、商工業の発展に努め、活発な公共建築活動を行い、また神々の祭りを盛んにして、後世「クロノスの世(黄金時代)」とたたえられる繁栄をアテネにもたらした。彼の死後は長子ヒッピアスが後を継いだ。

[清永昭次]

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