ペルシア美術(読み)ぺるしあびじゅつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルシア美術」の意味・わかりやすい解説

ペルシア美術
ぺるしあびじゅつ

現在のイランを中心に栄えた古代美術。中国およびインドの美術とともに東洋美術の三大潮流の一つをなす。イランの国土は、南はペルシア湾、北はカスピ海、東はヒンドゥー・クシ山脈、西はメソポタミアに接し、山岳、砂漠、デルタ地帯と地理的にもきわめて多様性に富み、先史時代以来多くの民族が行き交い、多くの王国が興亡を繰り返した。これがイラン高原を中心に豊穣(ほうじょう)な古代ペルシア美術を育て、また文明の十字路として、東西文化交流に重要な役割を果たすこととなった。

[前田正明]

先史時代

彩文土器文化

紀元前7000年ごろ、新石器時代に入ると原始農耕文化がおこり、テペ・サラブの遺跡などから地母神や動物をかたどった土偶が出土している。前4000年ごろには轆轤(ろくろ)が考案され、土器生産が盛んになった。なかでも祭祀(さいし)に用いられた彩文土器は、形態も変化に富み、素焼、または赤褐色・淡黄色の化粧土に黒褐色の顔料で幾何学文、鳥獣文、植物文などを施し、活気に満ちた造形表現をみせ、イラン高原のテペ・シアルク、テペ・ヒッサール、イスラマバード、チャシム・イ・アリなどの遺跡から多く出土している。その最盛期は前4500~前3500年ごろで、金属器の普及とともに終わりを告げた。

[前田正明]

エラム文化

エラム王国は現在のイラン南西部フーゼスターン地方のスーサを中心に、前30世紀中ごろから前7世紀まで栄え、前1200年ごろには最盛期を迎えた。代表的な建造物はチョガ・ザンビルのジッグラト(階層状の聖塔、ジッグラト)や宮殿建築で、神殿の門にはグリフィン(怪獣)などの彩釉(さいゆう)テラコッタ製動物像が安置されていた。彫刻ではクラングーンやクル・イ・ファーラーなどの摩崖(まがい)彫刻、スーサやチョガ・ザンビル出土の丸彫り彫刻がある。なかでもスーサのニンフルサグ女神殿出土のナピル・アス立像(前13世紀、ルーブル美術館)は、頭部を欠くものの、豊かな肉体を写実的に端正に描写し、当時の青銅鋳造技術の水準の高さを示している。また各種工芸品、とくに金属工芸に多様な技術を駆使した優れた作品がある。

 エラムとほぼ同時期、イラン北東部のテペ・ヒッサール(Ⅱ、Ⅲ期)やトウラン・テペ(Ⅱ、Ⅲ期)では、前3000年ごろから彩色土器にかわって灰色、黒色土器がつくられた。また、イラン高原では青銅器から鉄器時代に移り、騎馬民族文化が興った。

[前田正明]

前10世紀の美術

前20世紀後半から前10世紀前半にかけて、北部、西部の山岳地帯ではカッシュ、ウラルトゥマンナイなどのイラン系騎馬民族が興り、イラン高原に侵入して民族的に大きな変動期を迎える。諸民族の文化融合により、特色ある動物文様や装飾意匠の基礎がつくられた、いわばペルシア美術の揺籃(ようらん)期ともいえる。ただ遺物の多くは盗掘品で、出土地も製作年代も不明な点が多い。出土地の判明しているものをあげると次のとおりである。

[前田正明]

マルリク文化

1961年、カスピ海南方のギラーン州マルリクという小高い丘で、イラン系民族の王墓とみられる57基の竪穴(たてあな)式石室墓が発見され、前1300~前900年ごろと推定される豪華な金銀器、精巧な金粒細工、青銅製の動物小像、黒色や赤色の研磨土器などが出土した。なかでも注目されるのは聖樹と有翼の牡牛(おうし)を描いた金製ゴブレット型杯(さかずき)で、牡牛頭部を別につくって鑞(ろう)付けし、他の薄肉浮彫り部分から突出させて、立体彫刻のような効果をもたせている。このような立体感を強調した技法は、ヒッタイトアナトリアカフカスの金属器の影響を思わせる。

 また、マルリク西方のハッサンルー遺跡からは灰色および黒色土器、銀製ビーカー型杯、象牙(ぞうげ)細工などが出土し、マルリク文化と並行する時代の重要な考古学的資料となっている。

[前田正明]

ルリスタン青銅器文化

イラン西部のザーグロス山中のルリスタン地方で発見された青銅器は、そのほとんどが盗掘品のため、科学的研究は著しく遅れている。しかし、ほぼ前20世紀後半から前10世紀の初めにかけて栄え、エラム、バビロニアなど近隣諸国の文化と接触しつつ発達したと推定されている。青銅製の馬具、戦車用の轡(くつわ)が多数出土するところから、この文化の担い手が遊牧騎馬民族であったことは疑いない。そのほか、いわゆるルリスタン青銅器は動物や神像の護符など小型のものが多い。

[前田正明]

ジビエの遺宝

1947年、クルディスターン地方の寒村ジビエで城塞址(じょうさいし)が偶然発見された。出土品は村人によってたちまち分配され、溶解されたものもあったが、一部は免れて博物館などに収蔵された。出土品は前9~前7世紀の製作で、アッシリア、ウラルトゥ、スキタイの文化と密接な関係をもつものと考えられる。象牙細工の丸彫りと浮彫りがもっとも多く出土し、これらは家具調度の装飾に用いたものと思われる。また、一群の金属工芸品は高度の技術と豊かな芸術性を示し、胸飾り、腕輪、銀製大皿など優れた作品が少なくない。

[前田正明]

メディア

メディア人は南ロシアからイランに侵入し、前7世紀ごろ王国を建設したが、前6世紀のなかばにアケメネス朝のキロス2世に敗れて滅亡した。短期間ではあるが、北西イランとアケメネス朝美術を結ぶものとして注目される。近年ババ・ジャ・テペなどの考古学的発掘が行われ、両耳壺(つぼ)、把手(とって)付き注口土器、短剣の金製の鞘(さや)などが発見されている。

[前田正明]

アケメネス朝美術

キロス2世(在位前559~前529)はメディア王国を滅ぼしてイラン高原を制覇し、都をパサルガダエに置いた。ダリウス1世(在位前522~前486)はさらに版図を広げ、新たにペルセポリスを建設、以後アケメネス朝はアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅びるまで、2世紀にわたって西アジア全域に君臨、各地の伝統を総合して、ギリシア美術も取り入れながら独自の美術を完成させた。これを代表するのがペルセポリスの壮大な宮殿群で、386メートル×473メートルの大テラスの上に、万国の門、百柱の間、謁見の間、ダリウス1世およびクセルクセス1世の宮殿などがあり、壁面に施された浮彫り彫刻とともに、当時の栄光を今日に伝えている。

 前330年、ペルセポリスはアレクサンドロス大王の軍隊による略奪と炎上により、宮殿の宝物の大部分を失ったが、夏の宮殿址エクバターナからは、金製有翼獅子(しし)形角杯、クセルクセス1世銘の金製鉢、酒杯、動物の首の柄をもつ剣など多くの工芸品が出土している。金属工芸以外ではガラス製品もみられ、ペルセポリスやアナトリア高原から蓮華(れんげ)文を施した瑠璃碗(るりわん)や、象眼(ぞうがん)を施したガラス玉が発見されている。

[前田正明]

パルティア美術

アレクサンドロス大王によってもたらされたヘレニズム文化は、大王の後継者セレウコス朝と次のパルティア朝(前247~後226)の美術の方向を決定づけた。機動力を備えた軽装騎兵隊をもったパルティアは、前2世紀中ごろに広大な地域を征服したが、その文化で注目されるのは建築材料と工法である。ギリシアの速乾性の石膏(せっこう)モルタルを用いて切り石積みの屋根やアーチをつくり、のちには石材にかわってれんがも多用している。またストゥッコ(化粧漆食(しっくい))で建物壁面を覆い、装飾文様を施して壁面の単調さを補っている。パルティア時代の典型的な都市はほぼ円型で、イラク北方のハトラ遺跡には、中央から四方に大路を配し、四方に城門を設けたその形式がよく保たれている。ハトラの太陽神殿にはみごとなイワーン形式の建物が残るが、これは建物正面の壁を取り払った開放的な広間を主体とするもので、天井にはトンネル型のボールト(穹窿(きゅうりゅう))を架け、庭などに面した入口を半円形アーチで飾った建物である。イワーンは西アジアに普及し、次のササン朝にも引き継がれた。

 彫刻には大理石や石灰岩製の神像、王侯像の丸彫り、浮彫りなどがあり、ヘレニズムの影響を受けたものと、パルティア本来のものが混在している。後者では、シャミー出土の青銅貴人像(テヘラン国立考古博物館)にみられるように、厳格な正面観の描出、克明な細部描写、精神主義的表現に特色がある。

[前田正明]

ササン朝美術

紀元後3世紀に入ると、アケメネス朝と同じくファールス地方から興ったササン朝(226~651)のアルダシール1世(在位226~242)は、アケメネス朝の栄光ある後継者を自認し、パルティアのヘレニズム的傾向に反発して帝国の絶対的権力を確立し、イランの民族主義をよりいっそう明確に打ち出した。6世紀なかばのササン朝黄金期には、西方のローマ、ビザンティン、東方の仏教美術を取り入れながら、イラン民族の造形・装飾感覚を生かしてササン朝美術が創造・完成され、王朝滅亡後もウマイヤ朝の宮廷に取り入れられるなどして、イスラム美術の中核としてその命脈を保った。

[前田正明]

建築・彫刻

建築遺構はあまり多くなく、フィルザバードの円形都市、ビシャプールのシャープール1世宮殿址、首都クテシフォンの宮殿などが知られている。技法的には前代のパルティアの建築を踏襲・発展させ、方形の建物の四隅に変形の小アーケードを築き、それをつなげて球形ドームを架ける方法がみられる。素材も、クテシフォン宮殿では日干しれんがや焼成れんがを、イラン高原地方では割石を用いるなど、入手しやすいものを使用している。

 彫刻は、アケメネス朝では宮殿・王墓に付属した浮彫りが多かったが、ササン朝では各国王がつくらせた摩崖彫刻が、王朝発祥の地ファールス地方を中心に約30残っている。ナクシュ・イ・ロスタムのアルダシール1世、シャープール1世などの叙任式や戦闘の場面の浮彫り7面や、大小2個の石窟(せっくつ)からなるターク・イ・ブスタンのホスロー2世の騎馬や狩猟などの浮彫りがとくに有名である。

[前田正明]

工芸

もっとも重要なのは金属工芸で、先史時代以来の鋳金技術を発達させ、この時代に至って最高の製作水準に達した。杯、皿、八曲長杯、水差し、把手付き水瓶などにササン朝特有のデザインを生み、鏨(たがね)による打出しをはじめ、象眼、ニエロ、エマイユなどの技法を用いている。モチーフには帝王狩猟図や帝王即位式図があり、銀製品の題材や染織品の図柄に使われている。また、聖樹、動物、植物などの文様も盛んに用いられた。

 これらササン朝の工芸品は、運搬が容易であったこともあって東西に輸出され、その分布は西はポーランド、北はロシア、東はシルク・ロードを通って中国から日本に及んでいる。八つの花びらを重ねたような八曲長杯は、中国の唐では異国情緒の酒器として珍重され、類似品もつくられた。正倉院宝物の金銅製八曲長杯はそうした文化交流を示すものといえよう。また把手付き水差しは、中国では胡人(こじん)(ペルシア人)の用いる瓶ということで胡瓶(こへい)とよばれ、正倉院宝物や法隆寺献納奉物にもこの名が残っている。こうしてペルシアに生まれたササン朝文化の種子は、国際性豊かな美術の花を各地に開かせることとなった。

[前田正明]

『R・ギルシュマン著、岡谷公二訳『古代イランの美術』Ⅰ、Ⅱ(1965、1966・新潮社)』『林良一他著『新潮古代美術館2 栄光の大ペルシア帝国』(1981・新潮社)』『深井晋司・田辺勝美著『ペルシア美術史』(1983・吉川弘文館)』


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ペルシア美術 (ペルシアびじゅつ)

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ペルシア美術
ペルシアびじゅつ

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世界大百科事典(旧版)内のペルシア美術の言及

【イラン美術】より

…イラン美術とは,イラン高原およびフージスターン地方に,前6000年ころからアラブに征服される後7~8世紀ころにいたる期間,エラムなどの土着(非イラン系)民族およびイラン民族によって制作された美術である。 イラン高原は西をメソポタミア平野,アナトリア高原,東をインド,北を中央アジアの草原地帯に囲まれ,東西南北の交渉の中心地にあった。このような地理的特質から,あるいはイラン高原に興った王朝が西アジアから中央アジアの一部を支配するにいたったため,イラン美術は諸外国の既存の美術から多くの影響を受けている。…

※「ペルシア美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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