西アジアの王国。アルサケス朝パルティアともいう。中国ではアルシャクArshak(アルサケスArsaces)を音訳した〈安息〉の名で知られる。パルティアはイラン北東部の地方名で,アケメネス朝時代にはパルサワParthavaと呼ばれていた。
パルティアの建国は,前3世紀中ごろ,セレウコス朝シリア(シリア王国)の東半部に生じた政治的変動に乗じて行われた。アルサケス1世Arsaces I(在位,前247-前217か214)はスキタイ系遊牧民ダアアイの一部族パルノイを率いてアスタウエネを占領し,前247年アサアクにおいて即位した。まもなくセレウコス朝からパルティア総督アンドラゴラスAndragorasが離反し,ついでバクトリアのディオドトスDiodotosが自立する事件が起こった。アルサケスはこの機会をとらえて前238年ころパルティアを征服し,さらにカスピ海南東岸のヒュルカニア地方を併合した。初期のパルティアは,一方では東方領土の回復を目ざしたセレウコス朝諸王の遠征,他方ではバクトリアの勢力拡大に遭って,しばらく地方的小王国にとどまっていた。
前2世紀に入ると,セレウコス朝はローマやプトレマイオス朝エジプトとの争いに忙殺され,バクトリアでは国内が分裂し,パルティアの発展が可能になった。ミトリダテス1世(在位,前171-前139か138)はメディアに進軍し,前141年にはセレウキアを占領してバビロニアを征服した。彼は初めて〈大王〉を称し,その後約400年つづく帝国支配を確立した。ミトリダテス1世の死後,東方では大月氏がバクトリアを占拠し,フラアテス2世Phraates Ⅱ(在位,前139か138-前128)とアルタバヌス1世Artabanus Ⅰ(在位,前127-前124か123)はいずれもその影響を受けて侵入してきた遊牧民と戦って倒れた。再び帝国の発展に力を尽くしたのはミトリダテス2世(在位,前124か123-前88か87)であった。彼はメソポタミア北部への進出を果たし,アルメニア王国に勢力を拡大した。パルティアが中国およびローマと初めて交渉をもったのも,彼の時代である。しかし,治世末期に王と貴族の対立が激化し,王弟ゴタルゼス1世Gotarzes Ⅰ(在位,前91か90-前80)が帝国西部において自立した。パルティアの混乱に乗じて,アルメニアのティグラネス2世(大王)はメディア・アトロパテネとメソポタミア北部を占領した。彼はポントスのミトリダテス6世の反ローマ闘争に協力したが,ローマとアルメニアの対立はやがてパルティアを巻き込み,フラアテス3世Phraates Ⅲ(在位,前71か70-前58か57)の時代からローマとの長い抗争の歴史が開始された。前53年,オロデス2世Orodes Ⅱ(在位,前58か57-前39)の将軍スーレンSurenはパルティア騎兵隊を率いてクラッススをカラエに大敗させ,前36年にはフラアテス4世Phraates Ⅳ(在位,前40-前3か2)の軍がアントニウスを撃破した。前20年,両国の間に平和条約が成り,ユーフラテス川が国境とされ,アルメニアに対するローマの宗主権が承認された。
その後,パルティア宮廷にローマ化が進行したが,かかる傾向に不満を抱いた貴族たちは,北東イラン出身で母がアルサケス朝につながるアルタバヌス2世Artabanus Ⅱ(在位10か11-38)を王に推戴した。彼は対外的平和を利用して国内における王権の強化に努め,長子アルサケスArsacesを一時アルメニア王に就けることに成功した。ウォロゲセス1世Vologeses Ⅰ(在位51-76か80)も弟ティリダテスTiridatesをアルメニア王にして,同国を勢力下においた。彼はパフラビー文字を使用した貨幣の発行,ギリシア系都市セレウキアに対抗したウォロゲシアVologesiaの建設など,民族主義的な政策を採ったことで知られる。治世末に諸王子間に王位継承の争いが起こり,以後2人ないし3人の王が分立する長い内乱時代(77か78-147)に入った。その間にトラヤヌスのパルティア遠征(113-117)が行われ,セレウキアと首都クテシフォンがローマ軍に占領された。2世紀後半にもセレウキアとクテシフォンは2度にわたってローマ軍の攻略を受けた。ウォロゲセス6世Vologeses Ⅵ(在位207か208-228)から自立したアルタバヌス4世Artabanus Ⅳ(在位213-224)は217年にニシビスにおいてローマ軍を破ったが,224年にアルダシール1世と戦って敗死し,226年帝国支配は実質的にパルティアからササン朝ペルシアに交代した。なお,ウォロゲセス6世の貨幣は228年まで存続するが,アルサケス朝はもはや地方的勢力にすぎなかった。
パルティアの王は代々始祖の名アルサケスを称した。国内にはスーレン家などの大諸侯がサトラップ(総督)として州を支配し,ペルシス(ペルシア)その他には土着の君主が存在して地方分権的傾向が強かった。前1世紀以来,貴族は王位継承問題に干渉し,そのため繰返し対立王の出現をみた。王の貨幣にギリシア文字やセレウコス朝の称号が見いだされることから,従来アルサケス朝のヘレニズム化政策が強調されてきた。しかし,アルサケス紀元(前247)の使用や,アケメネス朝の相続者としての意識に民族主義的志向を認めることができる。この傾向は後1世紀以来さらに促された。パルティア時代の社会は封建制と規定されることが多いが,奴隷制社会とみなす説もある。いずれにせよ,その社会経済的構造はまだ十分に解明されていない。
初期の王都ニサは,第2次大戦後ソ連考古学者の発掘によって発見され,〈ニサ文書〉の出土によって有名である。その後,首都はヘカトンピュロス,バビロニア征服後はクテシフォンに移された。セレウキアとスーサはギリシア系都市として存続した。バビロニアのギリシア人やユダヤ人など,異民族には自治が認められていた。パルティア後期,とくに帝国西部において都市化が進行するが,それはシルクロードの東西貿易や地方的経済の発展によるものと考えられる。アルサケス朝は宗教的寛容政策を採り,メソポタミアではイランやセム,ヘレニズムの諸要素を折衷した諸信仰が成立した。帝国内において最も広く崇拝されたのはミトラ神で,アナーヒター女神も各地に神殿を有していた。ゾロアスター教はイラン人の間に信仰され,伝承によればウォロゲセス1世の時代にアベスターの編集が行われたという。
執筆者:佐藤 進
パルティアの一派は,前1世紀~後1世紀に西北インド,アフガニスタン,東部イランを支配した。この一派はインド・パルティア族Indo-Parthianとして知られ,インドの古典ではパフラバPahlavaと記されている。この民族の歴史は,文献中のわずかな記事と,貨幣・碑文を用いて研究されているが,不明な点が多い。同じころ中央アジア方面から南下したサカ族(シャカ族,インド・スキタイ族)としばしば混同され,貨幣・碑文から名の知られる王の多くが,いずれの民族系統に属するか判定し難い。インド・パルティア族の王としては,1世紀前半に出たゴンドフェルネス(ゴンドファレス)が最も名高い。《トマス行伝》で使徒トマスがその宮廷を訪れたとされるインド王グードナファルGūdnapharはこの王のことらしい。インド・パルティア勢力は,この王の後継者の時代(1世紀半ばころ)にクシャーナ朝に滅ぼされた。
執筆者:山崎 元一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イラン北東部に紀元前3世紀ごろイラン系遊牧民が建てた王国。建国者アルサケスの名からアルサケス朝ともよばれ、中国史料では「安息(あんそく)」と記されている。前247年、パルニ人の長アルサケスはセレウコス朝の支配から脱し、独立政権を建てた。その後を継いだ弟のティリダテスはシリアのセレウコス2世に敗北したが、その後ふたたび勢力を回復し、前171年ごろ即位したミトリダテス1世の治下において、王国は広大な版図を獲得した。王はバクトリア王国やセレウコス朝の領土を征服し、さらにメディア、バビロニアに侵入した。都は初めニサであったが、その後ヘカトンピロスに移され、前129年には新しい首都としてクテシフォンが建設された。王国はこの新都を中心に繁栄した。しかしその子フラーテス2世や、次王アルタバヌス2世は、南下してきた遊牧民サカ人やトハラ人との戦いに敗れたため、国内の統一は崩れて混乱した。前123年ごろ即位したミトリダテス2世の時代に帝国は復興したが、アルメニアの領有をめぐり膨張してきたローマ帝国と衝突した。王はローマと友好条約を結んだが、その後も両国間の戦いは続いた。パルティアの組織化された軽装騎兵は、ローマの重装歩兵に対して、その機動力を十分に生かした戦術で健闘した。しかしパルティアも王家の王位継承の争いや北方民族の脅威などの諸問題を抱えていたので、戦いの勝敗がつかず長期化した。パルティアは長年にわたるローマとの戦闘で国力が衰え、226年ファールス地方に興った新勢力ササン朝ペルシアのアルダシール1世によって滅ぼされた。パルティアは遊牧民の国家であったが、しだいに定住していた農民に同化し、封建社会を形成した。帝国の支配機構はセレウコス朝の体制を継承し、ギリシアとペルシアの影響を受けた文化が栄えた。また東西を結ぶ要地だったので絹貿易の利益が大きく、そのような交易を通じての文化交流の発展を促進させた。
[吉村作治]
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前247/前238頃~後224/226
カスピ海南東方に位置するセレウコス朝領のパルティア州より興り,イラン,メソポタミアを支配した王国。中国名は安息(あんそく)。イラン系遊牧民パルノイの族長アルサケス(アルシャク)を開祖とするので,アルサケス(アルシャク)朝とも呼ばれる。前2世紀中頃にはユーフラテス川からインダス川に至る大領域を支配し,前2世紀末頃からはメソポタミアを中心にローマと攻防を繰り返したが,3世紀に入るとサーサーン朝の攻撃を受けて王国は30代で滅んだ。224年は戦いに敗れて王位の断絶した年,226年はクテシフォン陥落の年である。文化的には初めギリシア風を好んだが,紀元後はしだいにイラン風が強くなった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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[近現代の文学]
近現代文学は,古典文学の復興をめざす新古典派,これに反発して,自由主義的立場から近代化をはかろうとするロマン派,大衆的基盤に立つ社会主義的写実派の3派によって開花している。新古典派は散文ではムハンマド・アルムワイリヒーMuḥammad al‐Muwayliḥī(1868‐1930)の《イーサー・ブン・ヒシャーム》に見られるようなマカーマート形式の小説を書いたものもあるが,詩により大きな重点をおき,バールーディーal‐Bārūdī(1839‐1904),アフマド・シャウキーAḥmad Shawqī(1932没)などによって,パン・イスラム主義やアラブ民族主義の思想がカシーダ形式で表明された。ロマン派ではムハンマド・フサイン・ハイカルMuḥammad Ḥusayn Haykal(1888‐1956)が,アラブ文学史上初の小説《ザイナブ》を1913年に発表した。…
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[近現代の文学]
近現代文学は,古典文学の復興をめざす新古典派,これに反発して,自由主義的立場から近代化をはかろうとするロマン派,大衆的基盤に立つ社会主義的写実派の3派によって開花している。新古典派は散文ではムハンマド・アルムワイリヒーMuḥammad al‐Muwayliḥī(1868‐1930)の《イーサー・ブン・ヒシャーム》に見られるようなマカーマート形式の小説を書いたものもあるが,詩により大きな重点をおき,バールーディーal‐Bārūdī(1839‐1904),アフマド・シャウキーAḥmad Shawqī(1932没)などによって,パン・イスラム主義やアラブ民族主義の思想がカシーダ形式で表明された。ロマン派ではムハンマド・フサイン・ハイカルMuḥammad Ḥusayn Haykal(1888‐1956)が,アラブ文学史上初の小説《ザイナブ》を1913年に発表した。…
※「パルティア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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