ホーナー(読み)ほーなー(英語表記)James Horner

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ホーナー」の意味・わかりやすい解説

ホーナー(James Horner、映画音楽作曲家)
ほーなー
James Horner
(1953―2015)

アメリカの映画音楽作曲家、指揮者。アカデミー最優秀作曲賞および最優秀主題歌賞を受賞し、2800万枚という驚異的なCD売上げを記録した『タイタニック』(1997)で映画音楽という枠を超え、広く一般聴衆にも知られる存在となった。ロサンゼルスに生まれるが、まもなくロンドン移住。5歳よりピアノを習い、英国王立音楽大学ではジョルジ・リゲティに作曲を師事。1970年、ロサンゼルスに戻った後は南カリフォルニア大学に進んで作曲の学位を取得。その後カリフォルニア大学ロサンゼルス校修士課程で学びながら同校で音楽理論を講じ、最終的に音楽学および作曲で同校の博士課程を修了した。

 1970年代後半、同校で生徒の一人が映画音楽の作曲法について相談をもちかけたことから映画音楽に興味をもちはじめ、アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の依頼で短編『日照り』(1978)の音楽を作曲。AFIの短編に数本作曲した後、ロジャー・コーマン率いるニュー・ワールド・ピクチャーズの作曲家としてB級低予算映画の音楽を多数担当。1978年の長編映画第一作『Up from the Depth』(日本ではビデオのみ発売。邦題『ジュラシック・ジョーズ』)を皮切りにコーマンの指導のもと、映画音楽作曲のノウハウを積みあげていった。このニュー・ワールド・ピクチャーズ時代に知己を得、のちにコンビを組むようになった重要な映画監督にジェームズ・キャメロンおよびロン・ハワードRon Howard(1954― )がいる。

 1980年の『宇宙の七人』あたりからダイナミズムあふれる作風が注目を集めるようになり、『スター・トレック2/カーンの逆襲』(1982)の音楽担当に抜擢(ばってき)された後、メジャー映画会社制作のSF、アクション大作を次々にこなして高い知名度を得るようになる。1980年代のホーナーの音楽はもっぱらセルゲイ・プロコフィエフおよびドミトリー・ショスタコビチに範をとった和声法と、充実した金管楽器や打楽器を前面に押し出した管弦楽法を特徴とし、キャメロン監督とのコンビ作『エイリアン2』(1986)およびハワード監督とのコンビ作『ウィロー』(1988)などにもっとも優れた成果を聴くことができる。また、実験性という観点から見れば『ブレインストーム』(1983)がホーナーのもっとも大胆かつ野心的な作品である。リゲティ譲りのトーン・クラスター技法(隣りあう複数の音を同時に鳴らす技法)や宗教音楽を思わせる混声合唱を用いた『ブレインストーム』は、「現代音楽の一分野」としての映画音楽の可能性を示している。

 1990年代に入るとケルト音楽をはじめとする民族音楽の影響が濃厚となり、同時に叙情的な旋律で作品のメインテーマを彩ることが多くなる。『パトリオット・ゲーム』(1992)、『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(1994)、『ブレイブハート』(1995)などがその種の作品の代表にあげられる。キャメロン監督とのコンビ作『タイタニック』は、当初ジョン・ウィリアムズとエンヤEnya(1961― )に作曲が依頼されていたが、両者から断られた後、最終的にホーナーが作曲を引き受けた。当時のホーナーがウィリアムズやジェリー・ゴールドスミスと並ぶアメリカ映画音楽の第一人者とみなされ、かつ、ケルト音楽にも精通した作曲家として認識されていたことを端的に示した逸話であるといえよう。

 映像と音楽のタイミングを一致させるクリック・トラック技術の使用を潔(いさぎよ)しとせず、長大な楽曲群を直接、画面と対峙させながらドラマのうねりを描出していく手腕はほかのハリウッドの作曲家にみられない特徴である。アカデミックな音楽教育をバックグラウンドにもつホーナーの気骨の表れと見ることもできる。その反面、度重なる自作の再利用や、ほかの作曲家の手になる旋律の引用など、作曲家としてのオリジナリティーを問う批判の声も少なくない。『タイタニック』以後の作品では、ハワード監督作『ビューティフル・マインド』(2001)におけるソプラノのボカリーズ(母音のみで歌う歌唱法)の使用や、一種のバイオリン協奏曲として書かれた『アイリス』(2001)など、ある特定の独奏パートをスコアの中心に据え、全体の音楽設計を施していく手法を好んで用いていた。

[前島秀国]


ホーナー(James Robert Horner、プロ野球選手)
ほーなー
James Robert Horner
(1957― )

アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のアトランタ・ブレーブス、日本のヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)、ふたたび大リーグのセントルイス・カージナルスで三塁手としてプレー。マイナー・リーグの経験なしでメジャー昇格を果たしたエリート強打者である。

 8月6日、カンザス州ジャンクション・シティで生まれる。アリゾナ州立大から1978年、ドラフト1巡目(全体1番目)指名を受けてブレーブスに入団。アマチュア時代から強打で鳴らしていたことと、当時のブレーブスが弱小球団だったことで、いきなり大リーグに昇格してプロ生活をスタートさせた。1年目から打率2割6分6厘、ホームラン23本、打点63の成績を89試合の出場でマークし、新人王に選ばれた。1979年と80年には2年連続して、また82年にもホームラン30本以上を記録。1986年には大リーグ・タイ記録となる1試合ホームラン4本もマークした。そのシーズンオフにこじれた契約問題が長引き、1987年はシーズン途中からヤクルトスワローズでプレー。ホームランを連発し、わずか93試合の出場でホームラン31本を打ち、「赤鬼」とよばれて話題となった。シーズンオフに帰国すると再来日を拒否し、試合の進め方や練習方法の違いなどから「地球の裏側にもうひとつの野球があった」と発言し、日本のファンの反感を買った。1988年はカージナルスでプレーしたが、往年の打撃は取り戻せず、この年限りで引退した。

 大リーグでの10年間の通算成績は、出場試合1020、安打1047、打率2割7分7厘、本塁打218、打点685。獲得したタイトルは、新人王。日本での1年間の通算成績は、出場試合93、安打99、打率3割2分7厘、本塁打31、打点73。

[山下 健]

『ボブ・ホーナー著、安西達夫訳『地球(アメリカ大リーグ)のウラ側にもうひとつの違う野球(ベースボール)があった』(1988・日之出出版)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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