ソ連邦の政治家。アルメニア人の革命家として,1915年にソ連邦共産党の前身であるロシア社会民主労働党に入党。17年からの革命に際してはアゼルバイジャンのバクーで活躍し,20年のバクー労働者の武装蜂起に参加。この後ニジニ・ノブゴロド(現,ゴーリキー)をはじめとして地方党機関においてスターリン主流派の党官僚として活動した。23年に中央委員となって76年までその地位にあり,1926年から政治局員候補,外国貿易・国内商業人民委員として,商業,貿易の組織化を行った。28-29年以後の全面的集団化期には穀物調達の責任者として党,政府のなかで活躍した。30年代には補給,食品工業,対外貿易の責任者を歴任,また37年には人民委員会議副議長となり,このころスターリンのもとで政治局員となった。第2次世界大戦以後も一貫して対外貿易,商業を中心に働くが,特に56年の第20回共産党大会においてフルシチョフとともにスターリン批判の先頭に立ち,57年フルシチョフ退陣をせまる反党グループ事件においてフルシチョフを支持し,モロトフらの追放に協力した。64年には最高ソビエト議長として国家元首になり,10月にはフルシチョフ党第一書記兼首相の失脚に立ち会う。その後65年にこの職をみずから辞し,半ば引退生活を送りながら回想録を執筆。遺体はノボデビーチー修道院墓地に葬られた。
執筆者:下斗米 伸夫
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ソ連の政治家。11月25日にアルメニアに生まれる。公式には大工の息子といわれている。チフリス(現トビリシ)の神学校を卒業後、1年間、神学大学で学ぶ。1915年にボリシェビキ党に入り革命運動に従事。1922年に党中央委員候補に選ばれ、1923年に中央委員、1926年に党中央委政治局員候補となり、内外商業人民委員として初入閣。1935年に政治局員に昇格、1937年には人民委員会議副議長(副首相)となる。第二次世界大戦中は国家防衛委員会委員として食糧や燃料の供給で活躍。戦後も1946年から1955年までは副首相、それ以降1964年までは第一副首相を務める。1964年7月には最高会議幹部会議長(国家元首)となり、10月のフルシチョフの解任では重要な役割を果たした。1965年12月に健康上の理由で同議長を辞し、1966年春には党中央委幹部会員の地位からも引退した。1978年10月21日にモスクワで死去した。
[中西 治]
『小川政邦・上田津訳『ミコヤン回想録1 バクー・コンミューン時代』(1973・河出書房新社)』
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1895~1978
ソ連共産党の指導者。アルメニア人。1920年代後半より商業・貿易関係の閣僚,34年以後政治局員としてスターリンの片腕。56年フルシチョフと結んでスターリン批判をすすめ,58年第一副首相,64年最高会議議長を務めたが,65年引退。
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