ブレジネフ(読み)ぶれじねふ(その他表記)Леонид Ильич Брежнев/Leonid Il'ich Brezhnev

デジタル大辞泉 「ブレジネフ」の意味・読み・例文・類語

ブレジネフ(Leonid Il'ich Brezhnev)

[1906~1982]ソ連の政治家。1952年にロシア共産党幹部会員候補兼書記として頭角を現し、党務関係の要職を歴任。フルシチョフ失脚で党第一書記(1966年に書記長改称)となり、国際緊張の緩和、平和共存の二原則に基づくいわゆるブレジネフ路線を推進、1977年には最高会議幹部会議長も兼ねた。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ブレジネフ」の意味・読み・例文・類語

ブレジネフ

  1. ( Leonid Il'ič Brježnjev レオニード=イリッチ━ ) ソ連の政治家。一九五七年共産党中央委員会幹部委員となる。六四年フルシチョフ失脚後、党第一書記となり六六年書記長に就任し、ボドゴルヌイ国家元首、コスイギン首相とともに集団指導体制をとる。七七年からは最高会議幹部会議長を兼任。八二年在職中に死去。(一九〇六‐八二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブレジネフ」の意味・わかりやすい解説

ブレジネフ
ぶれじねふ
Леонид Ильич Брежнев/Leonid Il'ich Brezhnev
(1906―1982)

ソ連の政治家。12月19日、ウクライナカーメンスコエ(現、カーミヤンシケ)の製鉄労働者の家庭に生まれる。15歳のときから働き始め、1923年に青年共産同盟に入る。1927年にクルスク農学校を卒業後農村で働き、1931年に共産党に入党。1935年に郷里の冶金(やきん)大学を卒業し製鉄技師となる。1937年にドニエプロジェルジンスク(1936年までカーメンスコエ)市長代理に選ばれてから政治活動に専従し、1939年にはドニエプロペトロフスク州(現、ドニプロペトロウスク州)党委員会書記となる。第二次世界大戦中は軍の政治活動を指導し、戦後はウクライナやモルドバで党活動に従事。1952年の第19回党大会で中央委員に選ばれ、党中央委幹部会員候補兼書記となる。1953年のスターリン死後一時格下げされたが、1956年の第20回党大会で返り咲き、1957年には党中央委幹部会員となる。1964年のフルシチョフ失脚後、党中央委第一書記、1966年からは書記長となり、1977年からはソ連最高会議幹部会議長を兼務し、ソ連の党と国家の最高指導者となる。1977年には、ソ連を発達した社会主義社会と規定する憲法を制定するうえで重要な役割を果たした。在職のまま1982年11月に死去したが、死後ブレジネフに対する批判がおこり、1970年代から1980年代にかけてのソ連の経済成長率の低下や社会的・精神的・倫理的な欠陥についての責任が問われた。遺体はモスクワの「赤の広場」に埋葬されている。

[中西 治]

『ブレジネフ選集翻訳委員会訳『ブレジネフ選集1・2』(1978・モスクワ、プログレス出版社)』『中沢孝之著『ブレジネフ体制のソ連』(1975・サイマル出版会)』『ジョン・ドーンバーグ著、木村明生監訳『ブレジネフ』(1978・朝日イブニングニュース社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ブレジネフ」の意味・わかりやすい解説

ブレジネフ
Leonid Il'ich Brezhnev
生没年:1906-82

ソ連邦の政治家。ウクライナのカメンスコエ(現,ドニエプロジェルジンスク)で金属労働者の家に生まれた。1931年共産党に入党。35年ドニエプロジェルジンスク冶金大学を卒業。第2次世界大戦中は南部戦線で軍の政治委員を務めた。50-52年モルダビア共和国党第一書記。52年党中央委員会幹部会員候補,党中央委員会書記となったが,翌年スターリン死後の機構改革で解任され,軍総政治部副部長に一時格下げされた。54-56年カザフ共和国党中央委員会第二書記,次いで第一書記となり,カザフスタンの大規模な開拓事業を指導した。56年の第20回党大会で再び党中央委員会幹部会員候補兼書記に返り咲き,57年幹部会員(1966年以後は政治局員と改称)となった。この間,重工業,建設,国防産業,宇宙開発の分野を指導した。60-64年ソ連邦最高会議幹部会議長(国家元首)を務め,64年10月フルシチョフ失脚後,党中央委員会第一書記(1966年書記長と改称)となった。76年元帥,国防会議議長,77年6月から最高会議幹部会議長を兼任した。内政では1966年に利潤指標導入など部分的経済改革を実施し,その後も経済効率を高めるための措置を幾度か発表したが,中央集権システムを温存し官僚機構の肥大化を放置したため,実効は得られなかった。79年以後は保守色を強めて自由化や改革の動きは抑え,内政面は安定したが経済は一般に長期停滞の傾向を示した。第23回(1966),24回(1971),25回(1976),26回(1981)党大会を指導し,1977年には新憲法を制定した。82年5月食糧計画を採択。外政面では,1968年8月チェコスロバキアに軍事介入してその自由化を押さえ込み,69年3月ダマンスキー島珍宝島)で中国と武力衝突をひきおこした。73年6月アメリカを訪問し,以後デタント緊張緩和)時代がしばらく続いた。75年4月のサイゴン陥落を経て,同年7月ヘルシンキでの全ヨーロッパ首脳会議でヤルタ体制を認めさせた。79年12月にはアフガニスタンに侵攻し,これにより東西両陣営のデタントは終わった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブレジネフ」の意味・わかりやすい解説

ブレジネフ
Brezhnev, Leonid Il'ich

[生]1906.12.19. ウクライナ,カメンスコエ
[没]1982.11.10. モスクワ
ソ連の政治家。製鉄工場で働き,1927年農業学校を修了後クルスクで測地技師となり,31年共産党に加入。その後金属専門学校を経て,郷里の金属工場に勤務。 38年ドネプロペトロフスクの党地方委員会部長となり,39年同地方委員会書記に就任。第2次世界大戦ではコーカサス (カフカス) ,ウクライナ,チェコスロバキアの戦線に参加し,43年陸軍少将に昇進。 46年ウクライナのザポロジア地区党第一書記として戦後復興を推進し,ウクライナの最高指導者 N.フルシチョフに認められた。 50~52年モルダビア共産党第一書記をつとめ,のちモスクワに出て,52年党中央委員,次いで幹部会員候補となった。 I.スターリンの死後一時格下げされたが,党第一書記となったフルシチョフからカザフスタン開拓の任務をゆだねられた。最初は同地方党第二書記,次いで第一書記として農業増産に業績を上げ,56年2月モスクワへ帰り,党幹部会員候補兼書記の地位に復帰。 57年 V. M.モロトフ,G. M.マレンコフらがフルシチョフに反対した際にはフルシチョフを支持し,党幹部会員に昇進。 60~63年最高会議幹部会議長 (国家元首) となり,64年 10月にはフルシチョフ追落しに成功,党第一書記 (1966以降書記長) に就任した。その後 A. N.コスイギン首相,N. V.ポドゴールヌイ国家元首の3人による集団指導制を宣言したが,次第に権力を自己の勢力で固め,77年にはポドゴールヌイを解任して最高会議幹部会議長をも兼任し,名実ともに第一人者の地位を占めるにいたった。ソ連邦元帥。

ブレジネフ

「ナベレジヌイエチェルヌイ」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

百科事典マイペディア 「ブレジネフ」の意味・わかりやすい解説

ブレジネフ

ソビエト連邦共産党の指導者。ウクライナ生れ。1931年入党。ウクライナの重工業発展を指導。第2次大戦中は同地の戦線で政治工作を指導。1952年党中央委員会幹部会員となり,重工業建設・人工衛星打上げの責任者を務めた。1960年―1964年ソ連最高会議幹部会議長,1964年フルシチョフに代わり党第一書記(1966年以降書記長)。1977年にはブレジネフ憲法を制定。
→関連項目シュニトケソビエト連邦ソビエト連邦共産党東欧革命

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ブレジネフ」の解説

ブレジネフ
Leonid Il'ich Brezhnev

1906~82

ソ連の指導者。農業技師から製鉄技師となった。1931年に入党し,大粛清後に地位が上昇した。大祖国戦争ではウクライナで軍の政治工作にあたり,戦後1950年にモルダヴィア共産党第一書記となり,54~55年はカザフスタン共産党第一書記を務めた。57年より党中央委員会幹部会員となり,60年には最高ソヴィエト議長に選ばれた。64年フルシチョフを退陣させ,党第一書記を兼務し,フルシチョフ路線の修正を進めた。ブレジネフのもとでスターリン批判は禁じられ,全員一致による保守的な安定路線がとられた。ソ連はアメリカとのデタントを達成したが,体制的に失速した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ブレジネフ」の解説

ブレジネフ
Leonid Il'ich Brezhnev

1906〜82
旧ソ連の政治家
1931年ソ連共産党に入党。第二次世界大戦後,州党委員会第一書記・党中央委員会書記をへて,64年フルシチョフが解任されたあと,党第一書記となる。1966年書記長に就任し,77年6月に最高ソヴィエト幹部会議長(国家元首)となる。制限主権論(ブレジネフ−ドクトリン)を唱えて“プラハの春”を弾圧,中国とダマンスキー島(珍宝島)で対立し,1979年にはアフガニスタンに侵攻して東西対立を激化させた。内政では自由化を抑え,党機構を肥大化させて長期にわたる経済の停滞を招いた。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のブレジネフの言及

【ソビエト連邦】より

…この結果,64年10月,フルシチョフはその部下たちによって抜打ち的に辞職を強いられるにいたった。
[ブレジネフ期]
 フルシチョフに取って代わったのは,ブレジネフ党第一書記とコスイギン首相といった党と政府機構の上層幹部の代表者であった。彼らはスターリンの〈上からの革命〉で上昇し,フルシチョフの〈スターリン批判〉でテロルの恐怖から解放された人々であった。…

【ソビエト連邦共産党】より

…党の基本目標や任務を定めた文書を〈綱領〉と呼び,1961年採択の〈綱領〉では,ソ連の現状を共産主義社会への前進の段階にあると規定した。しかしブレジネフ期に,〈発達した社会主義〉の段階にあると表現した。ゴルバチョフは86年に〈発達した社会主義の初期段階〉と言ったが,その後は,このような社会主義やそれへの過渡期という概念そのものを否定する考え方が出てきて,90年の党綱領はあらためて〈人道的・民主的社会主義〉をめざす方向に変わった。…

※「ブレジネフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android