ソ連の政治家。12月19日、ウクライナのカーメンスコエ(現、カーミヤンシケ)の製鉄労働者の家庭に生まれる。15歳のときから働き始め、1923年に青年共産同盟に入る。1927年にクルスク農学校を卒業後農村で働き、1931年に共産党に入党。1935年に郷里の冶金(やきん)大学を卒業し製鉄技師となる。1937年にドニエプロジェルジンスク(1936年までカーメンスコエ)市長代理に選ばれてから政治活動に専従し、1939年にはドニエプロペトロフスク州(現、ドニプロペトロウスク州)党委員会書記となる。第二次世界大戦中は軍の政治活動を指導し、戦後はウクライナやモルドバで党活動に従事。1952年の第19回党大会で中央委員に選ばれ、党中央委幹部会員候補兼書記となる。1953年のスターリン死後一時格下げされたが、1956年の第20回党大会で返り咲き、1957年には党中央委幹部会員となる。1964年のフルシチョフ失脚後、党中央委第一書記、1966年からは書記長となり、1977年からはソ連最高会議幹部会議長を兼務し、ソ連の党と国家の最高指導者となる。1977年には、ソ連を発達した社会主義社会と規定する憲法を制定するうえで重要な役割を果たした。在職のまま1982年11月に死去したが、死後ブレジネフに対する批判がおこり、1970年代から1980年代にかけてのソ連の経済成長率の低下や社会的・精神的・倫理的な欠陥についての責任が問われた。遺体はモスクワの「赤の広場」に埋葬されている。
[中西 治]
『ブレジネフ選集翻訳委員会訳『ブレジネフ選集1・2』(1978・モスクワ、プログレス出版社)』▽『中沢孝之著『ブレジネフ体制のソ連』(1975・サイマル出版会)』▽『ジョン・ドーンバーグ著、木村明生監訳『ブレジネフ』(1978・朝日イブニングニュース社)』
ソ連邦の政治家。ウクライナのカメンスコエ(現,ドニエプロジェルジンスク)で金属労働者の家に生まれた。1931年共産党に入党。35年ドニエプロジェルジンスク冶金大学を卒業。第2次世界大戦中は南部戦線で軍の政治委員を務めた。50-52年モルダビア共和国党第一書記。52年党中央委員会幹部会員候補,党中央委員会書記となったが,翌年スターリン死後の機構改革で解任され,軍総政治部副部長に一時格下げされた。54-56年カザフ共和国党中央委員会第二書記,次いで第一書記となり,カザフスタンの大規模な開拓事業を指導した。56年の第20回党大会で再び党中央委員会幹部会員候補兼書記に返り咲き,57年幹部会員(1966年以後は政治局員と改称)となった。この間,重工業,建設,国防産業,宇宙開発の分野を指導した。60-64年ソ連邦最高会議幹部会議長(国家元首)を務め,64年10月フルシチョフ失脚後,党中央委員会第一書記(1966年書記長と改称)となった。76年元帥,国防会議議長,77年6月から最高会議幹部会議長を兼任した。内政では1966年に利潤指標導入など部分的経済改革を実施し,その後も経済効率を高めるための措置を幾度か発表したが,中央集権システムを温存し官僚機構の肥大化を放置したため,実効は得られなかった。79年以後は保守色を強めて自由化や改革の動きは抑え,内政面は安定したが経済は一般に長期停滞の傾向を示した。第23回(1966),24回(1971),25回(1976),26回(1981)党大会を指導し,1977年には新憲法を制定した。82年5月食糧計画を採択。外政面では,1968年8月チェコスロバキアに軍事介入してその自由化を押さえ込み,69年3月ダマンスキー島(珍宝島)で中国と武力衝突をひきおこした。73年6月アメリカを訪問し,以後デタント(緊張緩和)時代がしばらく続いた。75年4月のサイゴン陥落を経て,同年7月ヘルシンキでの全ヨーロッパ首脳会議でヤルタ体制を認めさせた。79年12月にはアフガニスタンに侵攻し,これにより東西両陣営のデタントは終わった。
執筆者:袴田 茂樹
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1906~82
ソ連の指導者。農業技師から製鉄技師となった。1931年に入党し,大粛清後に地位が上昇した。大祖国戦争ではウクライナで軍の政治工作にあたり,戦後1950年にモルダヴィア共産党第一書記となり,54~55年はカザフスタン共産党第一書記を務めた。57年より党中央委員会幹部会員となり,60年には最高ソヴィエト議長に選ばれた。64年フルシチョフを退陣させ,党第一書記を兼務し,フルシチョフ路線の修正を進めた。ブレジネフのもとでスターリン批判は禁じられ,全員一致による保守的な安定路線がとられた。ソ連はアメリカとのデタントを達成したが,体制的に失速した。
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…この結果,64年10月,フルシチョフはその部下たちによって抜打ち的に辞職を強いられるにいたった。
[ブレジネフ期]
フルシチョフに取って代わったのは,ブレジネフ党第一書記とコスイギン首相といった党と政府機構の上層幹部の代表者であった。彼らはスターリンの〈上からの革命〉で上昇し,フルシチョフの〈スターリン批判〉でテロルの恐怖から解放された人々であった。…
…党の基本目標や任務を定めた文書を〈綱領〉と呼び,1961年採択の〈綱領〉では,ソ連の現状を共産主義社会への前進の段階にあると規定した。しかしブレジネフ期に,〈発達した社会主義〉の段階にあると表現した。ゴルバチョフは86年に〈発達した社会主義の初期段階〉と言ったが,その後は,このような社会主義やそれへの過渡期という概念そのものを否定する考え方が出てきて,90年の党綱領はあらためて〈人道的・民主的社会主義〉をめざす方向に変わった。…
※「ブレジネフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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