ヨーロッパ南東部,ザカフカスのアルメニア共和国と,トルコ東部のアルメニア高原を中心とする地域の歴史的な呼称。アルメニア人は自らをハイ(複数はハイク)といい,この地域をハイアスタンまたはアイアスタンと呼ぶ。かつて彼らが主要な住民として生活していた地域の範囲は,現在よりはるかに広く,そのため古くは,北は現在のグルジア,東はアゼルバイジャンを経てカスピ海沿岸まで,南はメソポタミアの低地,西は小アジアの東半を占めるカッパドキアまでという,広い地域をアルメニアと称していたこともあった。
自然,地誌
ほとんどが標高800~2000mの高原で,北東部は火山活動で生じたアルメニア山塊となり,地震の多発地帯としても知られる。ノアの箱舟がたどりついたとされるアララト山(5165m)やアラギョズ山(4090m)などの高山を中心とするこの山塊は,ティグリス,ユーフラテス,アラス(アラクス),クラの各川の水源となっており,山間にはセバン,バン,ウルミエなど大小の湖が点在する。気候は,地形が複雑であるため変化に富むが,おおむね(1)乾燥亜熱帯性,(2)乾燥大陸性,(3)乾燥温暖帯性,(4)温帯性,(5)冷山地性,(6)高山性の6種に分類される。(1)はクラ川,アラス川流域の低地,(2)は標高約1300mまでのアラス川中流域で,冬は雪は多いが風がなく,夏は長く暑く,乾燥する。(3)はアラス川流域では標高約1700mまで,他の地域では標高約1200mまでのところで,冬は雪多く暖かく,夏も月平均気温が22℃を下まわる。(4)は標高2000mあたりまでの山地,(5)は標高2500m前後のところで,夏の放牧地となっている。(6)はそれ以上の高地にみられるが,4000mを超える部分は,一年を通じて氷雪に覆われる。(2)に属するエレバン市では,月平均気温が8月25℃,1月-5℃で,同市を中心とするアラス川沿いの地域では,ブドウ,果樹栽培が行われる。トルコ側のティグリス,ユーフラテス川上流の河谷部では穀物栽培がみられるほか,山腹の草地を利用したヤギ,羊の飼育が行われる。地下資源では,アルメニア共和国アラベルジ,カファンの銅,トルコ側ではティグリス川に沿うエルガニの銅,クロムと,ガルザン,ラマンの石油が重要である。
歴史
アルメニア高原からは,旧石器時代アブビル文化の石斧,中石器時代の岩壁画が発見されている。新石器時代の金石併用文化は同時代の西アジアに共通するもので,青銅器時代(前2千~前1千年紀)には巨石文化がみられる。
ウラルトゥ王国から長期の異民族支配へ
アルメニアに関する最古の記録は,ヒッタイト帝国の年代記(前14世紀)に見え,アルメニア発見最古の碑文はバン湖北方のマナズケルトのナイリ人に対するアッシリアの戦勝碑文である(前12世紀)。ナイリ人と近縁関係のウラルトゥ(旧約聖書のアララト)はアルメニア最初の統一国家となり,前590年メディアに滅ぼされるまで続いた。アケメネス朝とそれに続くヘレニズム時代には,オロンテス(エルバンド)朝(前401-前200),アルタシェス(アルタクス)朝(前190-前1世紀,〈大アルメニア王国〉とも呼ぶ)が興った。アルタシェス朝はティグラン(ティグラネス)大王(在位,前95-前55)の治世下に最盛期を迎え,領土は黒海,カスピ海,地中海に達した。王は,広大な領土の中央に新都ティグラノケルト(トルコ南西部)を置いた。前1世紀のローマとイランとのアルメニア争奪戦がイランの勝利に終わると,パルティア王族の分家がアルサケス朝を興した(後62)が,やがて両帝国の戦争が再開されてアルメニアは分割され,アルサケス朝はローマ側で391年,イラン・ササン朝側では428年に廃されて,それぞれ直接統治に移された。
2~3世紀にそれ以前のイラン系,ギリシア系の多神教からキリスト教への改宗が進み,4世紀に国教化された。405-406年には修道士のメスロプ・マシトツが独自のアルファベット(アルメニア文字)を考案した。ローマ領では,アルメニア大領主制が解体され中央集権化が進んだが,逆にイラン側では,土着の封建的社会構造が維持され,ヤズドゲルド3世がキリスト教を迫害し,マズダク教を強制したときには,バルダン・マミコニヤンVardan Mamikonyanの率いる民族的規模の大反乱が起こった(451)。ササン朝を倒したアラブは652年アルメニアをも征服し,ドビンのアミールがこれを治めた。アラブの過酷な支配は,851年の反乱以後ゆるめられ,885年には大諸侯中の首位にあったバグラト家のアショットに王位が与えられた。一方,南東アルメニアに広大な所領を有していたアルツルニ家は,アショットの即位に反対したが,最終的にはバグラト家の〈王中の王〉の地位を承認し,自らはバスプラカン王国を興した(908)。バグラト朝では当初より諸侯の地位が強力であり,加えて王権の分割相続も行われたので,10世紀後半には複数の王冠を戴く小所領の寄せ集めとなった。11世紀初め,ビザンティンの拡大政策とセルジューク朝の侵入が相前後して起こり,最終的にアルメニアは半イスラム化した遊牧トルコ人の遊牧地となり,セルジューク朝系の種々の政権に分割された。12~13世紀初期は,クルド系アルメニア人ザハリヤン家がグルジア王の宗主権のもとに北東アルメニアを再征服したが,ホラズム,モンゴル両帝国軍の数次にわたる遠征と征服のために国土は再び荒廃した。
10世紀末以来多くのアルメニア人は故郷を捨て,北シリアやキリキアに移住したが,キリキア・アルメニア王国(1080-1375)はシルクロード交易の門戸として栄えた。一方では,住民が立ち去った大アルメニアのトルコ化,クルド化が進行し,外国軍隊の侵入もティムール帝国,カラ・コユンル朝,アク・コユンル朝と続いたので,古い歴史をもつ封建的領主制は崩壊した。16~18世紀は,トルコ,イラン両帝国の間でアルメニア争奪戦が続いたが,1639年の分割条約によって,トルコ領はパシャ領とミッレト制(オスマン・トルコの宗教共同体)の,イラン領はエレバンのベグレルベグの支配を受けた。イラン領カラバグ(カラバフ)地方の5マリク(領侯)領が政治的独立のなごりとして残った。西アルメニアでは遊牧クルド人とトルコ人官憲の不法行為が農民を苦しめた。
ロシアのピョートル大帝の南下政策はアルメニア人に解放の希望を抱かせ,1701年イスラエリ・オリが使者としてロシアに派遣された。この結果20年に東アルメニアでは,カラバグでカトリコスのエサイ・ハサン・ジャラリヤン,シウニク地方でダビド・ベクに率いられる反乱が起こったが,予期したロシア軍の援助が得られないまま,イランの新王朝アフシャール朝とオスマン帝国干渉軍によって鎮圧された。政治的混乱のみられた18世紀は,文化の面ではアルメニアのルネサンス期にあたり,ベネチアで活躍した歴史家のチャミチャン(1738-95)や恋愛抒情詩を書いたサヤト・ノバ(1712-95)を生んだ。
執筆者:北川 誠一
独立への試練
トルコ,イランの長年の勢力争いに加えて,18世紀になるとロシアが介入し,アルメニアは3帝国の角逐の場となった。ロシアのアルメニア併合は,トルコ,イランへの対抗力としてロシアを利用しながらアルメニアを解放しようとしたこの国の指導層に依拠する形で進められた。19世紀初頭3度の対イラン戦争の後,1828年トルコマンチャーイ条約によって東アルメニアはロシアに併合された。続く対トルコ戦争でロシア軍はカルス等を占領したが,29年アドリアノープル条約でトルコへの返還を余儀なくされた。長年にわたる外国支配によってロシア各地,中東各地に広く散在したアルメニア民族は,諸都市の商業活動で顕著な役割を演じた。ロシア帝国は,ティフリス(現,トビリシ)に置いたカフカス総督府の下,複雑に錯綜した諸民族に対して徹底した植民地的抑圧政策を行った。その際アルメニア人が〈カフカスのユダヤ人〉に仕立て上げられ,彼らの肩にさまざまの矛盾が皺寄せされた。アルメニア人とアゼルバイジャン人等の対立が煽りたてられ,民族衝突が繰り返された。
トルコ領アルメニアの解放と再統一(〈大アルメニア構想〉)を求めるアルメニアの民族運動は,帝国主義的進出を図るロシアの利用するところでもあった。1878年ベルリン会議は〈東方問題〉の一部としてアルメニアにも言及したが,状況を変えはしなかった。トルコ各地で激しく展開されたアルメニア民族運動は,トルコ政府による95-96年の大虐殺を頂点とする過酷な弾圧にさらされた。こうした中で世紀末にフンチャク,ダシナクツチュン党等の民族党派が結成され,最初のマルクス主義者のグループも生まれた。19世紀末~20世紀初頭には銅,酒造(ブドウ酒,ブランデー)等の産業が発展し,鉄道も敷設された。しかしまだ農業の比重が圧倒的であり,アルメニア人のブルジョアジーも労働者も,むしろこの地方の外での活躍が際立っていた。革命前夜のザカフカスの中心であったグルジアのティフリス市では,構成人口の第1位をアルメニア人が占め,その市長もアルメニア人であったし,アゼルバイジャンのバクーの労働者の30%弱を占めていた。第1次大戦期,再びトルコ領アルメニアの解放を求める運動は高揚し,トルコ政府はアルメニア人150万人以上の大虐殺(1915-16)でこれに応えた。
革命政権の樹立
1917年ロシアの首都ペトログラードでおこった二月革命の後も,アルメニアは基本的にザカフカス全体の動向の枠内にあり,アルメニア人活動家もティフリス,バクーをその場としていた。首都の十月革命に対してダシナクツチュン,グルジア・メンシェビキ,アゼルバイジャンのムサーワート党等の民族主義諸派は17年11月ティフリスでザカフカス委員部を形成した。そしてトルコ軍の侵攻下に18年4月ザカフカス連邦共和国の独立を宣言したが,帝国主義諸列強の干渉の中で内部矛盾を深め,三つの国に分裂,5月ダシナクツチュンはアルメニアの独立を宣言した。トルコとのバトゥーミ条約では国土の多くを喪失した。ダシナクツチュン政権は,対グルジア戦争,対トルコ戦争等内外の対立とイギリス等列強の利害に翻弄された。20年4月アゼルバイジャンにソビエト権力が樹立され,その直後,5月のアルメニアでの武装蜂起は敗北したが,11月29日ソビエト権力の樹立が宣言され,ここにアルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立した。21年2月ダシナクツチュンの蜂起で主都エレバンは陥落したが,ソビエト権力は4月に主都を奪回,7月蜂起は最終的に敗北に終わった。22年3月グルジア,アゼルバイジャンと共にザカフカス連邦的同盟を結成,12月にはこれをザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国に改組し,12月30日ロシア,ウクライナ,白ロシア(現ベラルーシ),ザカフカスの4ヵ国で,ソビエト連邦を形成した。1936年憲法でザカフカス連邦社会主義共和国は廃止され,アルメニアとして独立のソ連邦構成共和国となった。スターリン体制下では〈民族主義的偏向〉を理由として,アルメニアでも土着の活動家が大量に粛清され,深刻な打撃を受けた。
執筆者:高橋 清治