ポーランドの詩人。リトアニアの貧乏貴族の家に生まれ,ナポレオン戦争を故郷の村で経験したのち,ビルニュスの大学に進み,学内の愛国主義的な秘密結社に籍を置きながら詩作を開始した。初期の詩は擬古典的な作風であるが,1820年に書かれた《青春頌歌》には若き詩人の精神的高揚が高らかに歌われている。1819年から教職に就いた彼はドイツやイギリスのロマン派の詩に深く親しみ,23年に《グラジーナ》と《父祖の祭り》からなる詩集を刊行した。前者は政治的主張を盛り込んだ民族の叙事詩,後者はスラブの土着信仰やスラブ演劇の諸要素を斬新に取り入れた韻文の夢幻劇である。このあと彼は秘密結社との結びつきを問われてロシアでの生活を強いられ,これから彼の流浪の人生が始まる。
《クリミアのソネット》(1826)は東方の大地を前にした詩人の使命感と流離の苦しみとを歌いあげた典型的なロマン主義の作品である。29年にロシアをあとにした彼はドイツ,イタリアを回り,30年の十一月蜂起の失敗を聞いて途方にくれ,押し寄せるポーランド人亡命者の一団とともにパリに本拠を置いてポーランド革命の夢を追い求めた。《ポーランド民族とその遍歴の書》(1832)では,殉教の国ポーランドは将来救世主として復活するはずであるとメシアニズムを説き,《パン・タデウシュ》(1834)ではリトアニアで過ごした少年時代の記憶を美しい大叙事詩の形で書き起こした。このあと彼は神秘主義思想に傾倒してほとんど詩作の筆を絶ってしまうが,40-44年のコレージュ・ド・フランスでのスラブ文学史の講義や48年革命におけるイタリアでの義勇軍活動,49年にパリで発行された《国民論壇La Tribune des Peuples》紙の編集などで活躍した。クリミア戦争の始まったトルコで55年にコレラで死んだが,彼の生涯の遍歴はショパンとの友情のかたちでも後世に知られ,彼は今なおポーランド人愛国者の象徴的存在である。
執筆者:西 成彦
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…ポーランドでも19世紀前半にワルシャワとクラクフを中心にスラブ文献学がおこった。ロシアの圧制を逃れてパリに亡命していたポーランドの国民詩人ミツキエビチは,スラブ文学の講義を通じて祖国の独立運動に大きな影響を与えた。 19世紀中葉よりスラブ学はそれまでのロマン主義的傾向および総合的性格から脱皮して,スラブ諸民族の文化を対象とする言語学,文学研究,民俗学,考古学などに細分化された。…
…共和国の学術・文化の中心で,六つの高等教育機関,五つの劇場,七つの博物館をもつが,1978年に400周年を祝ったビルニュス大学は,イエズス会の神学校が前身で,旧ソ連邦の大学で最も起源が古い。19世紀初めここで学んだポーランドの国民詩人ミツキエビチは,リトアニア人にも民族の誇りとされている。 リトアニア大公国の首都としてのビルニュスには,大公ヨガイラによるカトリックの国教化で1387年司教座が置かれ,ドイツ都市法による自治が認められた。…
※「ミツキエビチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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