コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

十一月蜂起 じゅういちがつほうきPowstanie Listopadowe

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

十一月蜂起
じゅういちがつほうき
Powstanie Listopadowe

ワルシャワ反乱とも呼ばれる。ロシアの支配からの解放を求めてポーランドの士族階級 (シュラフタ ) が起した反乱の一つ (1830~31) 。ロシア皇帝兼ポーランド王ニコライ1世がフランスの七月革命 (30) 鎮圧のため,ポーランド軍の動員を企てたのに対して,1830年 11月 29日ワルシャワで士官の反乱が勃発,市民がこれに呼応して武器庫を占領,皇帝の兄コンスタンチン大公麾下のロシア駐屯軍は撤退を余儀なくされた。 12月3日臨時政府,翌1月 25日ニコライ1世の廃止が宣され,4月になると反乱は会議王国 (ポーランド王国) の域を越えてさらにリトアニア (リトワ) ,白ロシア,ウクライナの一部に波及した。しかし政府権力を握った A.チャルトルイスキら保守派はもともと交渉による和平を望んだが,他方で愛国協会に結集した J.レレウェルら急進派の突上げを受けてやむなく戦闘にのぞんだものの,軍事的勝利への確信を欠き,優柔不断な作戦指導に終始した。 I.パスケービッチ将軍指揮下のロシア正規軍に対して,ポーランド軍はよく戦ったが,31年5月のオストロウェンカの戦いで決定的な敗北をこうむった。他方蜂起指導部は農奴解放令を拒否して,みずから国内大衆の支持を断ち,最後の望みを西ヨーロッパ諸国の介入に期待したが,このための外交交渉も不調に終った。9月にワルシャワが陥落,蜂起に参加した民族のエリートは西ヨーロッパへの亡命の道を選んでここにポーランド史上「大亡命時代」として知られる一時代を画することになった。十一月蜂起は西ヨーロッパの急進的民主主義者に強い感銘を与え,第1次世界大戦まで毎年各地で記念祭が催された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

じゅういちがつほうき【十一月蜂起 Powstanie listopadowe】

1830年11月,ポーランド王国で起こったロシアからの独立を目ざした蜂起。ナポレオンが作ったワルシャワ侯国は,その大部分がロシア皇帝を国王とするポーランド王国(会議王国)として再興されることがウィーン会議(1815)で決定された。時のロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801‐25)の意向を反映した王国憲法は,当時ヨーロッパで最も自由主義的な憲法として評判であった。しかしそれは条文上のたてまえにすぎず,実際には検閲制度の導入やセイム審議の公開禁止令などにより民主的なたてまえは無視されていた。

出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について 情報

世界大百科事典内の十一月蜂起の言及

【ポーランド】より

ニコライ世にいたっては,デカブリストとの接触ゆえに反逆罪に問われていた愛国者協会Towarzystwo patriotyczneのリーダーが憲法の規定に従ってセイムで裁かれたとき,判決が軽すぎるとしてこれを無視し,彼らを勝手にシベリアに送ってしまった(1828)。(2)十一月蜂起 1830年,ワルシャワ歩兵士官学校のビソツキPiotr Wisocki(1797‐1874)を中心としたグループによる十一月蜂起は基本的に,こうしたロシア皇帝の専制的なやり方に対して特権擁護のためにシュラフタが起こした蜂起であった。蜂起はコンスタンタン大公をワルシャワから追い,チャルトリスキを首班とする臨時政府を樹立,さらに保守派の軍司令官を解任,ニコライ1世の廃位を決議するが,ロシアの大軍を前に屈伏,31年9月に終結した。…

※「十一月蜂起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

十一月蜂起の関連キーワードムラビヨフ・アムールスキーウィエロポルスキニエムツェビッチミエロスワフスキクローネンベルクビスピャンスキチャルトリスキワルシャワ大学スウォバツキザモイスキレレベル

今日のキーワード

偽計業務妨害罪

虚偽の風説を流布し,または偽計を用いて人の業務を妨害する罪 (刑法 233) 。流布とは,犯人自身が公然と文書,口頭で伝達するほか,口伝えに噂として流す行為も含む。偽計とは人を欺罔,誘惑し,あるいは人...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android