改訂新版 世界大百科事典 「十一月蜂起」の意味・わかりやすい解説
十一月蜂起 (じゅういちがつほうき)
Powstanie listopadowe
1830年11月,ポーランド王国で起こったロシアからの独立を目ざした蜂起。ナポレオンが作ったワルシャワ侯国は,その大部分がロシア皇帝を国王とするポーランド王国(会議王国)として再興されることがウィーン会議(1815)で決定された。時のロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801-25)の意向を反映した王国憲法は,当時ヨーロッパで最も自由主義的な憲法として評判であった。しかしそれは条文上のたてまえにすぎず,実際には検閲制度の導入やセイム審議の公開禁止令などにより民主的なたてまえは無視されていた。こうした事態に抗議して1828年,護憲とロシア帝国からの独立を目的としたビソツキ・グループWysockiego sprzysiężenieがワルシャワ歩兵士官学校で結成された。蜂起に至るには三つの要因があった。30年11月,ベルギー独立戦争を鎮圧するためにポーランド軍が動員されるかもしれないといううわさがワルシャワでささやかれるようになった。また同じ頃,ビソツキ・グループのメンバーがなん人か検挙され,グループ全体に危機感がみなぎっていた。そんな時にイギリスでコシチューシュコの親友として知られたグレー内閣が成立し,蜂起に対する期待感が強まった。
11月29日の夜に行動が開始され,ベルベデル宮殿にいるコンスタンティンKonstantin Pavlovich大侯(1779-1831。アレクサンドル1世の弟。公式にはポーランド軍の司令官にすぎなかったが事実上の王国の支配者)の暗殺,ワルシャワにいるロシア軍の武装解除と武器庫の開放などが当面の行動目標とされた。大侯は難を逃れてワルシャワ郊外への脱出に成功するが事態の収拾にはポーランド人自身があたるべきであるとして自らは動こうとしなかった。またビソツキ・グループには政権担当の積極的な意志はなく,制度上の統治機関であった行政会議が事態の収拾にあたることになった。しかし,会議を構成していた保守派はビソツキ・グループの要求でレレベルらを新たに会議のメンバーに加え,フオピツキJózef Chłopicki(1771-1854)をポーランド軍司令官に任命することで,いちおう事態を収拾した。しかし保守派はロシア帝国からの分離はまだ考えておらず,最終的な問題解決には皇帝との交渉が不可欠であると考えていた。モフナツキMaurycy Mochnacki(1803-34)ら過激派は,直ちに臨時政府を発足させて対ロシア戦争に踏み切るべきであると主張し,12月愛国者協会を結成して行政会議に圧力をかけた。行政会議は解散し,チャルトリスキを首班とする臨時政府がこれに代わって登場した。しかし大侯がロシアへ帰国する前に,ポーランド軍の忠誠義務を解除したため,大侯に従ってワルシャワ郊外に出かけていたポーランド軍がワルシャワに帰ってきた。勢いづいた保守派は愛国者協会を解散させ,フオピツキに独裁を宣言させ,また使節をモスクワに送った。しかし翌年になって〈反乱者ども〉との事態収拾への交渉を拒否するニコライ1世(在位1825-55)の意志が伝えられ,フオピツキは辞任せざるをえなくなった。過激派の巻返しが始まり,愛国者協会が活動を再開した。さらにロシア軍司令官が無条件降伏を要求していることが伝えられ,セイムはニコライ1世の廃位を決議し,チャルトリスキを首班とする国民政府を成立させた。こうしてポーランド側の戦いに賭ける姿勢が確定し,蜂起の命運は戦場での勝敗が決めることになった。ロシアは大軍を動員し,ポーランドへの侵入を開始した。ポーランド軍最高司令官に任じられたスクシネツキJan Skrzynecki(1786-1860)は消極的な作戦に終始し,打ち続く敗北が原因で最高司令官の任を解かれるが,それでも戦局は好転しなかった。8月には民衆によるスパイ狩りとリンチ騒ぎが起こり,その責任を負ってチャルトリスキは辞職した。その後に登場してきたクルコウェツキJan Krukowiecki将軍(1772-1850)の政府には独裁的権限が認められ,局面の打開がまかされることになったが,すでにロシア軍はワルシャワの周辺に迫っており,クルコウェツキにできたことは可能な限り有利な条件をロシア軍に認めさせて降伏することでしかなかった。31年9月7日にワルシャワが降伏した。これによって蜂起は事実上終わった。
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執筆者:宮島 直機
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