ドイツで生まれ、アメリカで活躍した美術家、彫刻家。柔軟な素材を多用した、有機的な印象を与える彫刻を制作する。同時期のアメリカにみられる傾向であるプロセス・アート(完成した作品のかたちよりもそれがどのようにしてそのかたちをとるに至ったかという過程を重視する芸術様式)の代表的な作家の一人。その前半生は波乱に満ちている。ハンブルクのユダヤ人家庭に生まれたが、ナチスによるユダヤ人迫害のために、誕生後まもなく家族は離れ離れとなってドイツを脱出しなければならなくなった。1939年、ニューヨークでようやく家族全員が再会するものの、逃亡生活に疲れた母親はまもなく深刻なうつ病になり、両親は離婚。ヘスは父親との生活を選んだが、母親は結局ヘスが10歳のとき、うつ病を克服できずに自殺する。ヘスは最後までこの母親の悲劇を引きずっていたという。
とはいえ芸術家としてのキャリアは順風満帆なものだった。1952年にニューヨークの産業芸術学校入学、さらにプラット美術学校を経て、1954~1957年クーパー・ユニオンで学ぶ。優秀な学生だったヘスは1957年、奨学生としてエール大学音楽・美術学部の夏期講習に通ったあと、同大学の美術・建築学部に入学を許可されジョゼフ・アルバースの教室に入る。
アルバースは表現主義的な作品に対して冷淡であったが、1960年代初頭、ヘスはその師に大いに教えられつつも、暗い色調で記号化された人物やなにかの象徴のようなかたちを描く、まさに表現主義的な絵画を制作していた。だが最初の個展を開いた1963年には、そうした暗い色調や情念のようなものはすっかり消え去った。かわって、躍動感のある線描を主体に、コラージュの技法なども駆使しつつ鮮やかな色をところどころに加えた、理知的な、洗練された印象の絵画が発表された。
この傾向の絵画は引き続き1965年ごろまで制作される。私生活では、1961年に彫刻家のトム・ドイル Tom Doyle(1928―2016)と結婚、1964年には夫妻で1年以上にわたってヨーロッパに滞在した。ここでヘスは絵画の制作を止め、画面から紐状のかたちが飛び出たりぶら下がったりするレリーフ制作を経て、1965年には同じく紐状のかたちと簡潔な全体像を特徴とする、彫刻作品の制作を活動の中心とするようになる。
同年夫妻はニューヨークに戻るが、数か月後に離婚。ヘスはしだいに紐に加え、ゴムや樹脂など柔らかな素材を自在に用い始める。それらの素材は同型に加工され、執拗(しつよう)に反復しながら全体を覆うようにして作品に取り付けられる。その結果、作品はきわめて有機的で、見る者の生理的な感覚に訴えるものとなった。簡潔な全体像と反復といえば、ヘスに先立つミニマル・アートの作家たちにみられる特徴である。だがヘスは、徹底して幾何学的で非人間的な印象さえ与えるミニマル・アートを、柔らかさや有機性、あるいはユーモアといったものを加えてつくりかえ、それまでになかった彫刻をつくり出したのである。さらに、床に紐がたれさがって絡まり合うのをそのままにしておいたり、展示された布がランダムにつくり出す襞(ひだ)を作品の重要な一部とする手法によって、ブルース・ナウマンやリチャード・セラらとともにプロセス・アートの芸術家の一人に位置づけられた。
1960年代後半にはすでに同時代の重要な芸術家として認められていたヘスだったが、1969年脳腫瘍と診断され、翌1970年34歳で死去。遺(のこ)された発言や手紙にみるヘスは、自らの悲劇に落ち込むことなく、明晰(めいせき)な思考をもち皮肉混じりのユーモアを好んだ芸術家であった。そのことはまた遺された作品からも、十分にうかがうことができる。
[林 卓行]
アメリカの海洋地質学者。ニューヨークに生まれ、エール大学を卒業。のちにプリンストン大学教授となる。第二次世界大戦中、海軍士官として軍艦ケープ・ジョンソン勤務の際フィリピン海溝中にケープ・ジョンソン海淵(かいえん)(北緯10度27分、東経126度39.5分、深さ1万0497メートル)を発見。また、1946年、北西太平洋でそれまで知られていなかった海底地形であるギヨー(平頂海山)を発見した。この名称は、スイス生まれのアメリカの地理学者ギヨーArnold Henri Guyot(1807―1884)にちなんで、ヘスが命名したものである。その後1960年ころより、ウェゲナーの大陸移動説の復活拡張ともいえる海洋底拡大説をディーツと前後して唱え、今日の同説の確立やプレートテクトニクス理論の先駆者となった。主著に『History of Ocean Basins』(1962)がある。
[半澤正男]
スイスの生理学者。フラウエンフェルトに生まれる。ローザンヌ、ベルン、ベルリン、キールの大学に学び、1906年チューリヒ大学で学位を得た。その後ラッペルスビルで開業し、しばらくの間、外科・眼科の診療に従事したが、1912年から生理学の研究に転じ、チューリヒ大学、ボン大学を経て、1917年チューリヒ大学生理学研究所所長についた。その後イギリスの各大学生理学研究所に留学し、ラングレーJohn Newport Langley(1852―1925)、シェリントン、スターリング、ホプキンズ、デールらに師事した。初め血液力学・呼吸調節に関する研究を行い、ついで自律神経系の調節機能に関する研究に移った。1925年に間脳の研究を始め、微細な電極針の挿入によって非常に限られた部分に刺激を与える技術を開発した。1949年、「内臓諸器官の調節者としての間脳の機能的体制の発見」に対し、ノーベル医学生理学賞が与えられた。
[大鳥蘭三郎]
ナチス・ドイツの政治家。第一次世界大戦後ミュンヘン大学に学び地政学のハウスホーファー教授の影響を受ける。在学中、右翼団体のトゥーレ協会に入り、さらに1920年ナチ党に入党した。1923年のヒトラーのミュンヘン一揆(いっき)(ヒトラー一揆)に参加、翌1924年裁判で禁錮刑の判決を受け、ヒトラーと同じランツベルク陸軍刑務所に収監された。このときヒトラーの『わが闘争』の口述筆記を依頼され、以後ヒトラーの私設秘書となった。1933年ヒトラーにより党総統代理の地位を与えられたが、他のメンバーの活動の陰に隠れ存在が薄かった。1941年5月、ドイツの対ソ攻撃の直前、単身飛行機を操縦してスコットランドに飛び、独断でイギリスとの和平を図ったがイギリス政府に無視され、ナチ党からは常軌を逸した行動とされた。1946年ニュルンベルク裁判で終身刑の判決を受け、ベルリンのシュパンダウ刑務所で服役。のち旧西ドイツ政府は高齢を理由にしばしば釈放を要請したが実現しないまま、41年の獄中生活のすえ、1987年8月17日93歳で死亡した。自殺とみられている。
[藤村瞬一]
オーストリア生まれのアメリカの物理学者。グラーツ大学を卒業し、1910年同大学で学位を得たのち、ウィーン科学アカデミーのラジウム研究所でマイヤーStefan Meyer(1872―1949)の助手をつとめた。1912年軽気球を用いて一連の放射線高空観測に取り組み、地球に含まれている放射性物質がおこすイオン化反応と地球の外からくる放射線のイオン化反応の違いをみいだした。これは宇宙線の諸性質を初めて明らかにしたものであり、宇宙線研究の先駆となった。1921年から1923年までアメリカでラジウム研究の指導的役割を務めたのち、1925年グラーツ大学実験物理学正教授を経て、1931年インスブルック大学教授となった。1938年ドイツ・オーストリア併合の際大学を追われ、アメリカに渡り、1956年までニューヨークのフォードハム大学物理学教授を務めた。1936年、陽電子を発見したC・D・アンダーソンとともに、「宇宙線の発見」によりノーベル物理学賞を受けた。
[小林武信]
スイス生まれの化学者。幼少のとき、一家はロシアに移住し、そこで一生を過ごした。医学を学んで、医者となったが、鉱物の研究によって、ペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)の帝国科学アカデミー会員に選ばれ(1828)、化学の研究に専念するようになった。なかでも親和力の問題を取り上げ、反応熱測定のほうから解決に迫ろうとした。水による硫酸の希釈において発生する熱、および中和の反応熱の測定から、ヘスの法則(熱の総量は、反応が直接進もうと、途中何段階も経過しようと変わらない)を確立した(1840年ころ)。ヘスの研究は、19世紀後半における熱化学の発展の基盤となった。
[吉田 晃]
ドイツの初期社会主義者。ユダヤ人商人の子として生まれ,独学で哲学を修める。《人類の聖史》(1837)および《ヨーロッパ三頭政治》(1841)の2著において,ドイツにおける最初の社会主義思想を打ち出すとともに,ヘーゲル左派的な〈行為の哲学〉を展開した。また《ライン新聞》をはじめ多数の新聞雑誌に論説を寄稿し,〈哲学的共産主義〉の代表者として知られる。フォイエルバハの疎外論を社会経済の領域に適用した彼の理論は,一時期マルクスにも影響を与えた。しかしその後〈真正社会主義〉の理論家として《共産党宣言》の中で批判された。1848年の革命後は,スイスを経てパリに亡命。50年代以降ユダヤ人解放に関心を寄せ,《ローマとエルサレムRoma und Jerusalem,die letzte Nationalitätsfrage》(1862)を著して,シオニズムの先駆者と目される。60年代以降も労働問題への関心を失わず,一時ラサール派だったが,晩年は国際労働者協会でマルクスを支持した。
執筆者:良知 力
アメリカの物理学者。オーストリアの生れ。グラーツ大学で数学と物理学を学ぶ。1911年以降,気球を利用して密封した容器中の気体の電離現象を研究,高度の増加とともに電離される割合は減少するが,1000m以上になると増加し始め,5000mの高さでは地上における観測値の数倍になることを発見し,宇宙空間からやってくる高エネルギー放射線の存在を証明した。31年には,ロックフェラー財団などからの援助を受けて,インスブルック近くのハーフェレカー山(標高2300m)の山頂に宇宙線観測所を開設した。36年宇宙線の発見によりノーベル物理学賞を受賞した。38年,オーストリア併合の際にグラーツ大学教授の職を追われてアメリカへ渡り,ニューヨークのフォードハム大学の教授となる。
執筆者:日野川 静枝
ナチ党(ナチス)の古参党員でヒトラーの側近。1924年,獄中のヒトラーの《わが闘争》の口述筆記の相手を務める。32年,党官房の長として〈指導者代理〉(〈第三帝国〉では〈総統代理〉),33年3月からはその資格で閣僚,さらにゲーリングにつぐヒトラーの〈第二後継者〉にも指名される。41年5月,独ソ戦を前にヒトラーの意をくんでイギリスに飛んで独英間の和解を図ったが失敗,ナチス側からは〈気違い〉扱いをされる。ニュルンベルク裁判で終身刑を宣告され,シュパンダウ刑務所に収容された。
執筆者:山口 定
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
スイス生まれのロシアの化学者.1825年ドルパト大学(現在のエストニアのタルトゥー大学)医学部卒.卒業後J.J. Berzelius(ベルセリウス)の研究室に一か月滞在し,大きな影響を受けた.シベリアのイルクーツクでの開業医時代に行ったシベリア産鉱物の研究が認められて,1828年サンクトペテルブルク科学アカデミーの化学助手に選出,1834年には正会員となり,同時に多くの高等教育機関で教えた.化学反応の親和力に関する理論的関心から反応熱の研究をはじめ,氷熱量計による測定から1840年までにいわゆるヘスの法則を確立するとともに,中性塩の複分解反応では熱が発生しないとする経験則を提唱した.かれが書いたロシア語の化学教科書“純粋化学の基礎”は版を重ね(第7版,1849年),ロシア語の化学命名法の確立に貢献した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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1894~1987
ナチス・ドイツの政治家。ヒトラーの秘書(1926~32年)を務めた後,ナチ党の副党首。1933年には閣僚になった。41年5月に単身飛行機でイギリスに渡り,独断で和平交渉を行おうとし,第二次世界大戦終結まで捕われたまま精神医療を受けていた。ニュルンベルク国際軍事裁判で終身刑の判決を受け,ベルリンのシュパンダウ刑務所で生涯服役。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…またナポレオン1世は政治的・戦略的関心からこれに興味を寄せた。しかし,ユダヤ人国民国家の建設は,ヨーロッパにおける最後の民族問題の解決を意味すると考えた最初の思想家はモーゼス・ヘス(《ローマとエルサレム》1862)であった。 しかし,この思想が具体的に組織されたかたちをとるにいたったのは,19世紀末ロシアにおいてである。…
…しかし,その人間観にはバウアーの〈自己意識〉,フォイエルバハの〈感性的人間〉,マルクスの〈社会的人間〉それぞれの間に対立があり,市民ジャーナリズムの形成と時を同じくして激しい論争が交わされた。M.ヘス,エンゲルス,マルクスがドイツを去り,1848年の市民革命が挫折すると,シュトラウス,バウアーはドイツの国民主義に傾斜していき,前者はニーチェの激しい批判を浴びる。この国民主義を土台に,ラサール派が誕生し,マルクスの社会主義と対立を生み論争点のいくつかはマルクス主義対ファシズムという形でひきつがれた。…
…磁気単極子などは未確認である。
[宇宙線の発見と研究の歴史]
1912年オーストリアのV.F.ヘスは,気球に載せた検電器で約1km上空の放射線の検出を行い,宇宙から強力な放射線がきていることを発見した。宇宙線と名付けられたこの放射線は異常に高いエネルギーをもつので,その本質の解明と発生のなぞを解くことが新しい物理学と天文学の発展につながるものとして盛んに研究が行われた。…
※「ヘス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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