ヘス(読み)へす(英語表記)Eva Hesse

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヘス」の意味・わかりやすい解説

ヘス(Eva Hesse)
へす
Eva Hesse
(1936―1970)

ドイツで生まれ、アメリカで活躍した美術家、彫刻家。柔軟な素材を多用した、有機的な印象を与える彫刻を制作する。同時期のアメリカにみられる傾向であるプロセス・アート(完成した作品のかたちよりもそれがどのようにしてそのかたちをとるに至ったかという過程を重視する芸術様式)の代表的な作家の一人。その前半生は波乱に満ちている。ハンブルクのユダヤ人家庭に生まれたが、ナチスによるユダヤ人迫害のために、誕生後まもなく家族は離れ離れとなってドイツを脱出しなければならなくなった。1939年、ニューヨークでようやく家族全員が再会するものの、逃亡生活に疲れた母親はまもなく深刻なうつ病になり、両親は離婚。ヘスは父親との生活を選んだが、母親は結局ヘスが10歳のとき、うつ病を克服できずに自殺する。ヘスは最後までこの母親の悲劇を引きずっていたという。

 とはいえ芸術家としてのキャリアは順風満帆なものだった。1952年にニューヨークの産業芸術学校入学、さらにプラット美術学校を経て、1954~1957年クーパー・ユニオンで学ぶ。優秀な学生だったヘスは1957年、奨学生としてエール大学音楽・美術学部の夏期講習に通ったあと、同大学の美術・建築学部に入学を許可されジョゼフ・アルバースの教室に入る。

 アルバースは表現主義的な作品に対して冷淡であったが、1960年代初頭、ヘスはその師に大いに教えられつつも、暗い色調で記号化された人物やなにかの象徴のようなかたちを描く、まさに表現主義的な絵画を制作していた。だが最初の個展を開いた1963年には、そうした暗い色調や情念のようなものはすっかり消え去った。かわって、躍動感のある線描を主体に、コラージュの技法なども駆使しつつ鮮やかな色をところどころに加えた、理知的な、洗練された印象の絵画が発表された。

 この傾向の絵画は引き続き1965年ごろまで制作される。私生活では、1961年に彫刻家のトム・ドイル Tom Doyle(1928―2016)と結婚、1964年には夫妻で1年以上にわたってヨーロッパに滞在した。ここでヘスは絵画の制作を止め、画面から紐状のかたちが飛び出たりぶら下がったりするレリーフ制作を経て、1965年には同じく紐状のかたちと簡潔な全体像を特徴とする、彫刻作品の制作を活動の中心とするようになる。

 同年夫妻はニューヨークに戻るが、数か月後に離婚。ヘスはしだいに紐に加え、ゴムや樹脂など柔らかな素材を自在に用い始める。それらの素材は同型に加工され、執拗(しつよう)に反復しながら全体を覆うようにして作品に取り付けられる。その結果、作品はきわめて有機的で、見る者の生理的な感覚に訴えるものとなった。簡潔な全体像と反復といえば、ヘスに先立つミニマル・アートの作家たちにみられる特徴である。だがヘスは、徹底して幾何学的で非人間的な印象さえ与えるミニマル・アートを、柔らかさや有機性、あるいはユーモアといったものを加えてつくりかえ、それまでになかった彫刻をつくり出したのである。さらに、床に紐がたれさがって絡まり合うのをそのままにしておいたり、展示された布がランダムにつくり出す襞(ひだ)を作品の重要な一部とする手法によって、ブルース・ナウマンやリチャード・セラらとともにプロセス・アートの芸術家の一人に位置づけられた。

 1960年代後半にはすでに同時代の重要な芸術家として認められていたヘスだったが、1969年脳腫瘍と診断され、翌1970年34歳で死去。遺(のこ)された発言や手紙にみるヘスは、自らの悲劇に落ち込むことなく、明晰(めいせき)な思考をもち皮肉混じりのユーモアを好んだ芸術家であった。そのことはまた遺された作品からも、十分にうかがうことができる。

[林 卓行]


ヘス(Harry Hammond Hess)
へす
Harry Hammond Hess
(1906―1969)

アメリカの海洋地質学者。ニューヨークに生まれ、エール大学を卒業。のちにプリンストン大学教授となる。第二次世界大戦中、海軍士官として軍艦ケープ・ジョンソン勤務の際フィリピン海溝中にケープ・ジョンソン海淵(かいえん)(北緯10度27分、東経126度39.5分、深さ1万0497メートル)を発見。また、1946年、北西太平洋でそれまで知られていなかった海底地形であるギヨー(平頂海山)を発見した。この名称は、スイス生まれのアメリカの地理学者ギヨーArnold Henri Guyot(1807―1884)にちなんで、ヘスが命名したものである。その後1960年ころより、ウェゲナー大陸移動説の復活拡張ともいえる海洋底拡大説ディーツと前後して唱え、今日の同説の確立やプレートテクトニクス理論の先駆者となった。主著に『History of Ocean Basins』(1962)がある。

[半澤正男]


ヘス(Walter Rudolf Hess)
へす
Walter Rudolf Hess
(1881―1973)

スイスの生理学者。フラウエンフェルトに生まれる。ローザンヌ、ベルン、ベルリン、キールの大学に学び、1906年チューリヒ大学で学位を得た。その後ラッペルスビルで開業し、しばらくの間、外科・眼科の診療に従事したが、1912年から生理学の研究に転じ、チューリヒ大学、ボン大学を経て、1917年チューリヒ大学生理学研究所所長についた。その後イギリスの各大学生理学研究所に留学し、ラングレーJohn Newport Langley(1852―1925)、シェリントンスターリングホプキンズ、デールらに師事した。初め血液力学・呼吸調節に関する研究を行い、ついで自律神経系の調節機能に関する研究に移った。1925年に間脳の研究を始め、微細な電極針の挿入によって非常に限られた部分に刺激を与える技術を開発した。1949年、「内臓諸器官の調節者としての間脳の機能的体制の発見」に対し、ノーベル医学生理学賞が与えられた。

[大鳥蘭三郎]


ヘス(Rudolf Hess)
へす
Rudolf Hess
(1894―1987)

ナチス・ドイツの政治家。第一次世界大戦後ミュンヘン大学に学び地政学のハウスホーファー教授の影響を受ける。在学中、右翼団体のトゥーレ協会に入り、さらに1920年ナチ党に入党した。1923年のヒトラーのミュンヘン一揆(いっき)(ヒトラー一揆)に参加、翌1924年裁判で禁錮刑の判決を受け、ヒトラーと同じランツベルク陸軍刑務所に収監された。このときヒトラーの『わが闘争』の口述筆記を依頼され、以後ヒトラーの私設秘書となった。1933年ヒトラーにより党総統代理の地位を与えられたが、他のメンバーの活動の陰に隠れ存在が薄かった。1941年5月、ドイツの対ソ攻撃の直前、単身飛行機を操縦してスコットランドに飛び、独断でイギリスとの和平を図ったがイギリス政府に無視され、ナチ党からは常軌を逸した行動とされた。1946年ニュルンベルク裁判で終身刑の判決を受け、ベルリンのシュパンダウ刑務所で服役。のち旧西ドイツ政府は高齢を理由にしばしば釈放を要請したが実現しないまま、41年の獄中生活のすえ、1987年8月17日93歳で死亡した。自殺とみられている。

[藤村瞬一]


ヘス(Victor Francis Hess)
へす
Victor Francis Hess
(1883―1964)

オーストリア生まれのアメリカの物理学者。グラーツ大学を卒業し、1910年同大学で学位を得たのち、ウィーン科学アカデミーのラジウム研究所でマイヤーStefan Meyer(1872―1949)の助手をつとめた。1912年軽気球を用いて一連の放射線高空観測に取り組み、地球に含まれている放射性物質がおこすイオン化反応と地球の外からくる放射線のイオン化反応の違いをみいだした。これは宇宙線の諸性質を初めて明らかにしたものであり、宇宙線研究の先駆となった。1921年から1923年までアメリカでラジウム研究の指導的役割を務めたのち、1925年グラーツ大学実験物理学正教授を経て、1931年インスブルック大学教授となった。1938年ドイツ・オーストリア併合の際大学を追われ、アメリカに渡り、1956年までニューヨークのフォードハム大学物理学教授を務めた。1936年、陽電子を発見したC・D・アンダーソンとともに、「宇宙線の発見」によりノーベル物理学賞を受けた。

[小林武信]


ヘス(Germain Henri Hess)
へす
Germain Henri Hess
(1802―1850)

スイス生まれの化学者。幼少のとき、一家はロシアに移住し、そこで一生を過ごした。医学を学んで、医者となったが、鉱物の研究によって、ペテルブルグ(ソ連時代のレニングラード)の帝国科学アカデミー会員に選ばれ(1828)、化学の研究に専念するようになった。なかでも親和力の問題を取り上げ、反応熱測定のほうから解決に迫ろうとした。水による硫酸の希釈において発生する熱、および中和の反応熱の測定から、ヘスの法則(熱の総量は、反応が直接進もうと、途中何段階も経過しようと変わらない)を確立した(1840年ころ)。ヘスの研究は、19世紀後半における熱化学の発展の基盤となった。

[吉田 晃]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ヘス」の意味・わかりやすい解説

ヘス
Hess, Rudolf

[生]1894.4.26. エジプト,アレキサンドリア
[没]1987.8.17. ベルリン
ナチス党幹部。第1次世界大戦に空軍士官として従軍。 1920年ナチス党員,23年ミュンヘン一揆に参加,のち A.ヒトラーとともにランツベルクで入獄中,『わが闘争』の口述筆記をした。 25年ナチス再建以後ヒトラーの秘書。第三帝国成立後の 33年4月総統代理,同年6月入閣。以後ヒトラーの側近となり,39年8月ヒトラーにより H.ゲーリングに次ぐ総統後継者に任命された。しかし特にすぐれた政治力もなく,ヒトラーに対する個人的忠誠によって党の第3の地位を占めたにすぎず,その後党内での影響力は衰退した。このため 41年5月 10日対ソ戦開始の直前,単身飛行機でスコットランドに飛び,イギリスとの妥協的交渉により対英戦争終結をはかる挙に及んだが失敗,捕虜となった。第2次世界大戦後ニュルンベルク裁判で終身刑を宣告され,ベルリンのシュパンダウ刑務所で服役中に死亡。

ヘス
Hess, Moses

[生]1812.6.21. ボン
[没]1875.4.6. パリ
ユダヤ系ドイツ人の社会主義者。『ライン新聞』 Rheinische Zeitung (1841) の創設者,執筆者の一人。 1845年秋から翌年3月にかけてブリュッセルで K.マルクスと『ドイツ・イデオロギー』の共同作業に従事したが,やがてマルクスらと決裂。三月革命後パリにおもむき,49~52年スイスに亡命。 63年 F.ラサールと知合い,「全ドイツ労働者協会」のケルン代表となったが,ラサール派の妥協的態度に不満で,69年社会民主労働者党に移った。なおシオニストとしても知られ,彼がイタリア統一に影響されて著わした『ローマとエルサレム』 Rome and Jerusalem (62) は,シオニズム運動の理論的な教科書となっている。

ヘス
Hess Corporation

アメリカ合衆国の石油会社。1969年にアメラダ・オイルとヘス・オイル・アンド・ケミカルが合併しアメラダ・ヘスとして設立。アメラダは 1920年に設立され,1941年アメラダ・オイルと改称。ヘス・オイル・アンド・ケミカルは 1930年代に暖房油販売会社として事業を始め,1966年にイギリス政府からアメラダ・オイルの 10%株式を取得した。アメリカ国内や北海で原油生産を拡大してきたが,2001年には西アフリカや南アメリカ,東南アジアに権益をもつトリトン・エネルギーを買収して生産地域を拡大した。2006年現社名に変更。アメリカ領バージン諸島にベネズエラ国営石油 PDVSAとの合弁で精製基地をもち,アメリカ東海岸を中心に石油製品を販売。

ヘス
Hess, Victor Francis

[生]1883.6.24. ワルトシュタイン
[没]1964.12.17. マウントバーノン
オーストリア系のアメリカの物理学者。グラーツ大学で学び,1906年学位取得。ウィーン大学のラジウム研究所の助手などを経て,いったん渡米し,その後グラーツ大学教授 (1925) となる。 31年にインスブルック近郊の山の上に宇宙線観測所を設立したが,38年ナチスに追われてニューヨークのフォーダム大学教授となった。 11年頃から,箔検電器を積んだ気球を用いて,宇宙線の存在を確かめた。 36年 C.アンダーソンとともに宇宙線研究によりノーベル物理学賞を受賞した。

ヘス
Hess, Walter Rudolf

[生]1881.3.17. フラウエンフェルト
[没]1973.8.12. チューリヒ
スイスの生理学者。スイス,ドイツ各地の大学で学び,1906年チューリヒで学位を得たのち眼科医となったが,12年から生理学の研究に転じ,17~51年,チューリヒ大学教授兼生理学研究所所長。自律神経系の中枢が延髄と視床下部にあることを発見,ネコの視床下部の特定の部位を刺激すると,怒らせたり,食欲を増進させたりできることを証明した。脳の特定の部位が内臓の機能に果す役割を発見したことで,49年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

お手玉

世界各地で古くから行われている遊戯の一つ。日本では,小豆,米,じゅず玉などを小袋に詰め,5~7個の袋を組として,これらを連続して空中に投げ上げ,落さないように両手または片手で取りさばき,投げ玉の数や継...

お手玉の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android