フランスの農民画家。ノルマンディー地方,シェルブール近くのグリュシーGruchyに生まれる。信心深く格式ある農家の,豊かではないが祖母,両親と8人の弟妹の愛情深い大世帯に育った。幼い頃から読書を好み,画才に優れていたため,長男で農家の主要な労働力であったにもかかわらず,結局シェルブールで絵を学ぶ許しを得,次いで1837年パリに出てドラローシュのアトリエにはいる。39年師のすすめでローマ賞に応募するが落選。40年に肖像画1点がサロン(官展)に初入選する。やがてシェルブール市の奨学金が切れて貧窮し,ロココ風の裸体画などを描いて暮らす。この時期の作品は,主題はブーシェやフラゴナール風の閨房画や牧歌的なものが多く,その手法はディアズDiaz de la Peña(1807-76)に直接影響を受けた柔らかな筆触と明暗のコントラストを用いたもので,〈華やかな手法manière fleurie〉と呼ばれる。この作品群は金のため自分のプライドを捨てて描いたと言われていたが,主題が農民画に移ったあとも,技法としてはかなり後まで引き続き用いている。46年ころから労働する人々を主題に描くようになり,やがて49年コレラの流行で一家を連れてバルビゾンに移ってからは,ほとんど農民の働く姿のみを題材に選ぶようになる。同じ村に住んでいたT.ルソーとは親しい間柄となるが,ルソーが自然風景のみを描いたのに対し,ミレーは風景的要素を人間に従属させ,労働する人々のポーズを通じてその苦痛と,それに打ち勝つ人間の尊厳を描こうとした(バルビゾン派)。50年代後半から,人物たちは,より広いシャイイ・アン・ビエールChailly-en-Bièreの荒涼たる平原を背景に多くシルエットで描かれるようになり,そこには《晩鐘(アンジェラス)》(1859)のように宗教的雰囲気さえもうかがわれるようになる。また子だくさんであった彼は,家庭内における母と子の主題も描き,晩年にはしだいに風景画に関心を抱くようになり,戸外の光も研究した。ミレーの与えた影響はほとんどがその農民画という主題に限られている。クールベほど戦闘的に主題の革新性と,理想化しない写実性を追求したわけではなかったが,やはり彼も結果として農民生活の現実を包み隠さずに,積極的価値をこめて描いた点で,この時代の写実主義の流れの中で重要な位置を占める。労働を美化する態度と真摯な宗教心の表れである作品は,やがてその道徳面ばかりをたたえられ,欧米のみならず日本にまで大きな影響を与えた。そのセンチメンタルな面での模倣者は多かったが,造形的側面をも含めてゴッホが彼をたたえ,深い影響を受けた。
執筆者:馬渕 明子
アメリカの女性詩人。メーン州に生まれ,バッサー・カレッジ在学中に詩〈再生〉がアンソロジー《抒情詩選》(1912)に収録された。彼女の詩はソネットのような伝統的な形式によるものが多いが,新しい女性の自由で情熱的な感じがあふれている。詩集《再生》(1917)以降,《竪琴を作る人》(1923)でピュリッツァー詩賞を受けた。選詩集《抒情詩集》(1943)は,華やかな1920年代の記録といえよう。
執筆者:新倉 俊一
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フランスの画家。10月4日、ノルマンディーの小村グリュシーに生まれる。農民の子でありながら、ウェルギリウスやテオクリトスなどのラテン文学に親しみ、1833年シェルブールに出て絵を学んだ。37年には市の奨学金を得てパリに出、しばらくはポール・ドラローシュに師事。40年のサロンに肖像画が1点入選、以後、数多くの肖像画を手がけるとともに牧歌的情景を描いた。やがてプサンやミケランジェロに対する崇敬の念を強め、46年ごろからより力強い手法で、宗教的・神話的主題や裸婦像、そして農村の風俗を描くようになった。48年、二月革命後の無審査のサロンに出品した『箕(み)をふるう人』(焼失。現ルーブル美術館のものはレプリカ)は、ヒロイックな農民の姿を描く画家としてのミレーを決定づけることになり、以後、農民の主題があらゆる主題にとってかわる。翌49年、政府から作品制作の依頼を受け、その報酬でバルビゾンに移住し、残りの生涯をこの地で過ごすことになる。生存のための苦しい労働を描こうとするミレーの姿勢は、農村の人口が都市に大量に流出し、農村が荒廃する時代を反映するものであった。しかし彼は、ブルジョア批評家が考えたような急進的な社会主義者などではなく、いわば宿命論者であった。60年代以降しだいに風景画に専念するようになる。67年レジオン・ドヌールを叙勲さる。75年1月20日、バルビゾンに没。代表作に『落穂拾い』『晩鐘』『羊飼いの少女』『春』(以上ルーブル美術館)、『種をまく人』(ボストン美術館)などがある。なお、甲府市の山梨県立美術館には『種をまく人』(別作)をはじめ油彩、版画など30点が収蔵されている。
[大森達次]
『ロマン・ロラン著、蛯原徳夫訳『ミレー』(1939・岩波書店)』▽『飯田祐三解説『ミレー画集』(1979・講談社)』▽『高階秀爾編著『25人の画家4 ミレー』(1981・講談社)』
アメリカの女流詩人。メーン州ロックランド生まれ。1912年に『ルネサンス』を発表して有名になる。第一次世界大戦後は初期の叙情的、ロマンチック傾向から転じ、倦怠(けんたい)、冷笑の感情を盛りながらも明るさを失わない詩風で人気があった。劇作も数編ある。とくに短詩やソネット(14行詩)に優れ、『あざみの果』(1920)、ピュリッツァー賞受賞作『ハープを作る人』(1923)、『ソネット集』(1941)などがある。
[松山信直]
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1814~75
フランスの画家。パリ近郊のバルビゾンに住み,農民画家として農村の質素な日常生活を情感豊かに描いた作品を残した。「晩鐘」や「落穂拾い」が有名。そうした自然主義的な風景画を描いた画家たちは,のちにバルビゾン派と呼ばれた。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…名称は,パリの南東郊,フォンテンブローの森のはずれの村バルビゾンに由来する。T.ルソーは1847年より,ミレーは1849年よりこの村に定住し,ほかにジャックCharles Jacque(1813‐94),ドービニー,ディアズNarcisse Diaz de la Peña(1807‐76)らが長期ないし短期間住んで,ともに風景画の制作に励んだ。バルビゾン派の起源は,フランス国内ではG.ミシェル,バランシエンヌP.H.de Valenciennes,コローらの風景画が,構成された理想風景からしだいに離れて,自然観察をもとに現実の風景美をたたえるようになったこと,さらにはこのような流れをさかのぼると17世紀オランダの風景画があり,自国のありのままの自然をうたいあげるロイスダール,ホッベマ,ファン・オスターデらの作品が彼らを魅了したことが考えられる。…
※「ミレー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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