ミントー
4th Earl of Minto, Gilbert John Elliot-Murray-Kynynmond
生没年:1845-1914
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ミントー(1st Earl of Minto, Gilbert Elliot)
みんとー
1st Earl of Minto, Gilbert Elliot
(1751―1814)
イギリスの貴族、政治家。東インド会社のベンガル総督(在任1807~1813)。インドでは不拡大方針をとり、シク王国とは1809年にサトラジ川を国境とする条約を結び、マラータ諸侯の武装集団であるピンダーリーのベラールへの介入を阻止し、シンドの諸侯とも協定を結んだ。フランスとロシアとのインド進出に備えて、1808年マルカムをイランに、1809年エルフィンストーンをアフガニスタンに派遣した。1810年にはフランス領モーリシャス、ブルボン諸島を占領、フランスの影響下にあったオランダからアンボイナとモルッカ諸島を奪い、1811年にはジャワをも征服したが、総督辞任後の1814年オランダ領はすべて返還された。
[高畠 稔]
ミントー(4th Earl of Minto, Gilbert John Murray Kynymond Elliot)
みんとー
4th Earl of Minto, Gilbert John Murray Kynymond Elliot
(1845―1914)
イギリスの貴族、軍人、植民地行政官。カナダ総督(在任1898~1904)、インド総督(在任1905~1910)。インドではベンガル分割を契機とする民族主義の急激な台頭を抑圧するため、インド大臣参事会と総督府行政参事会へのインド人の登用、ヒンドゥー過激派への弾圧、アリーガル派ムスリム代表団の接見と彼らの分離主義的傾向の助成などの対策を講じた。1909年にインド統治法を改正して、中央、地方の立法参事会の被選挙議員を増加し、制限された直接選挙を導入し、ムスリムには指定議席と分離選挙権とを与えた。これは当時のインド大臣の名をもとって、モーリー‐ミントー改革とよばれる。
[高畠 稔]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ミントー
英国の植民地行政官。陸軍に入り,露土戦争,アフガニスタン,エジプト,カナダなどの戦乱に参加。カナダ総督(1898年−1904年)を務めたあとインド総督となる(1905年−1910年)。前任者カーゾンのベンガル州分割政策をついだためにインドで大規模な反英運動を展開させたが,新聞,武器の規制による弾圧を加える一方で,親英的な穏健グループを支持し,ムスリム連盟の結成に力を貸し,インド担当相モーリーと手を組んで,1909年立法参事会の拡大,選挙制の採用などを内容とする〈モーリー=ミントーの改革案〉を実施した。曾祖父の初代ミントー伯もベンガル総督を務めた(1807年−1813年)。
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ミントー(伯)
ミントー[はく]
Minto, Gilbert John Elliot-Murray-Kynynmound, 4th Earl of
[生]1845.7.9. ロンドン
[没]1914.3.1. ロックスバラ,ミントー
イギリスの軍人,植民地行政官。ケンブリッジ大学を卒業,1867年陸軍に入り,70~82年スペイン,トルコ,アフガニスタン,南アフリカ,エジプトなど各地の戦闘に従軍。 83~85年カナダ総督を補佐。 91年伯爵を相続。 98~1904年カナダの総督。 05~10年インド総督。 09年には本国のインド相 J.モーリーと協力して「モーリー=ミントー改革」を推進した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ミントー
生年月日:1751年4月23日
イギリスの外交官,政治家
1814年没
ミントー
生年月日:1845年7月9日
イギリスの植民地行政官
1914年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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