ベンガル分割
べんがるぶんかつ
Bengal Partition
20世紀初頭、インドの反英運動分裂を図るイギリス・インド政庁の民族分断策。総督カーゾンGeorge Nathaniel Curzon(在任1899~1905)のもとで1903年に分割プランの草案ができ、1905年7月に発表、10月に施行された。名目的には広大なベンガル州の能率的行政のため、東ベンガル・アッサム州と、ビハール・オリッサの一部を含むベンガル本州に分割するものとされたが、背後には従来の永久土地設定を廃止して地租を増額するという財政上の目算のほかに、反英運動のもっとも激しいベンガルの地をヒンドゥーおよびムスリム(イスラム教徒)の各多住地域という宗教的尺度で分断し、運動そのものに分裂をもたらさんとする明確な政治的意図があった。
カーゾンに続く総督ミントー(在任1905~1910)も、本国のインド大臣モーリーJohn Morley(1838―1923)とともに分割を既定の事実として認める態度に出た。これに対して、ベンガルのみならずパンジャーブ州、ボンベイ州、南のマドラス州でも分割反対闘争が広がった。ベンガルではムスリム農民も、ある程度この運動に結集された。1905~1908年の間、ティラク、パールBipin Chandra Pal(1858―1932)、ラージパト・ラーイら急進的民族派の指導で、スワデーシー(国産品愛用)、英貨ボイコット運動などが広範に組織され、民族独立を意味するスワラージの目標が掲げられて、インド民族運動史上に大きな画期が記された。こうした運動への一定の譲歩として、1911年に分割令は撤回された。
[内藤雅雄]
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ベンガル分割(ベンガルぶんかつ)
Partition of Bengal
インド総督カーゾンが強行した分割統治政策。カーゾンは秘密裡に準備を進め,1905年7月に分割を正式に決定,同年10月に実施した。この結果,ベンガル管区は東西に分割され,西側はベンガル州,東側はアッサムと併せて東ベンガル・アッサム州とされた。この政策は,ベンガルの西部にヒンドゥー教徒,東部にムスリムが多く住むことを利用して,民族運動が盛んだったベンガルを分断し,宗派対立を煽ろうとするものだった。ただちに反対運動が燃え上がり,11年12月,イギリス新国王ジョージ5世は分割を取り消し,カルカッタからデリーに遷都すると発表した。運動には,バナジー,パール,ティラク,タゴール,ゴーシュなどの指導のもとに,スワデーシーのスローガンを支持する広範な大衆が参加した。のちにガンディーが組織する,大衆的な民族運動の原型がここにみられる。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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「ベンガル分割」の意味・わかりやすい解説
ベンガル分割【ベンガルぶんかつ】
1905年インド総督カーゾンが公表した,ベンガル地方を,ヒンドゥー教徒が多い州と,ムスリムが多い州に分割した政策。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との反目を助長し,植民地支配に利用しようという帝国主義的政策を露骨に示すもの。しかし,かえって国民会議派の急進派からの激しい抵抗運動を誘発し,スワデーシー(国産品愛用),スワラージ(自治)を掲げる民族運動が高揚した。1911年廃止。
→関連項目スワラージ・スワデーシー|ダッカ|ローイ
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世界大百科事典(旧版)内のベンガル分割の言及
【アリーガル運動】より
…初期には学生はおもにムスリム上流出身者で占められていたが,しだいに北インドのムスリム中間層の子弟も入学するようになり,20世紀にはインド人ムスリムを指導する多くの知識人や政治家が輩出している。1905年のベンガル分割令反対運動では,アリーガル大学が中心となって独自の政党結成を試み,また第1次世界大戦後の[ヒラーファト運動]の際にもアリーガル大学は指導的立場をとった。アリーガル運動は初期には英語教育を主とした上層ムスリム中心であったが,他の階層にまで運動が浸透するにつれ,北インドのウルドゥー語地域にも運動が広まり,その中から近代ウルドゥー文学が成長した。…
【カーゾン】より
…政治家としては,ソールズベリー内閣のインド次官,外務次官を経て,念願のインド総督(副王,1899‐1905)に就任。在任中,ベンガル分割(1905)をはじめとする露骨な植民地政策を遂行し激しい反英民族運動を招いた。第1次大戦後は外務大臣(1919‐24)として国際秩序の再編成に努めるが,イギリス帝国の強化・防衛を軸とする頑固な帝国主義者としての姿勢は変わることがなかった。…
【国民会議派】より
… こうした背景から,初期の国民会議派はきわめて限られた階級・階層の利害を代弁する穏健な組織で,しばしばイギリス統治の安全弁といわれた。しかし20世紀初頭〈ラール・バール・パール〉と呼ばれたL.ラージパット・ラーイ,B.G.ティラク,B.C.パールら急進的民族派が主導権を握って展開した1905‐08年の〈ベンガル分割反対闘争〉,第1次大戦後19‐22年および30‐34年のガンディー指導下の〈サティヤーグラハ運動〉を通じて,インド人大衆の反英・反帝国主義運動の中枢的組織へと発展していく。特にこの間ガンディーの独特の主導の下で,P.J.ネルーを先頭とする少数=急進派とV.J.パテールやR.プラサードら多数=保守派が最高指導部として巧みに統合され,州・県・郡・村とつながる確固たる組織網が形成された。…
【コミュナリズム】より
…また初期の民族運動がしばしばその運動のエネルギーを糾合する水路を過去の黄金時代や宗教的伝統に求めようとした点も無視できないが,それ以上に端的に〈分割統治〉の語句で示されるイギリス植民地支配の民族分断政策と,これを補完する形でイギリス人史家や官僚たちが作り上げた,ヒンドゥー期,ムスリム期,イギリス期という支配者の帰属宗教や国籍だけを問題とした,歴史的実体にそぐわない時期区分に立つインド史叙述が,特にイギリス支配下で生み出された中間階層の間への,この思考形式の浸透を助けたことは否めない。 このようなイギリスによる民族分断策の最初の顕著な例が1905年の総督[カーゾン]下でのベンガル分割であり,続いて09年の[モーリー=ミントー改革](インド参事会法)による帝国立法参事会選挙でのムスリム選挙区の設置であった。この宗教別分離選挙は19年のインド統治法において拡大され,またガンディー指導下で転換された第2次サティヤーグラハ闘争の時期に出されたイギリス首相R.マクドナルドのいわゆる〈コミュナル裁定Communal Award〉(1932年8月)は宗教別分離議席のほかに婦人や〈被抑圧階級(不可触カースト)〉の分離選挙をも設定していた。…
【ラージパット・ラーイ】より
…教師,弁護士として活動し,[アーリヤ・サマージ]の宗教・社会運動にも携わる。1888年から国民会議派に参加,1905‐08年のベンガル分割Partition of Bengal反対闘争ではティラク,パールらと共に民族派の主要な指導者となる。13‐20年は海外に滞在。…
※「ベンガル分割」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」