ラウエ(読み)らうえ(英語表記)Max Theodor Felix von Laue

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラウエ」の意味・わかりやすい解説

ラウエ
らうえ
Max Theodor Felix von Laue
(1879―1960)

ドイツの理論物理学者コブレンツの近郊に生まれる。ストラスブール大学およびゲッティンゲン大学で学び、ベルリン大学でルンマーの講義を聞いて光学に興味をもつとともに、プランクに師事して1903年に学位を得た。1905年プランクの助手となり、輻射(ふくしゃ)場のエントロピーに関する理論や、相対性理論の研究を行った。1909年にゾンマーフェルトが指導するミュンヘン大学の理論物理学研究所の私講師となった。

 ここで、X線が波動であることを証明するために、結晶分子がつくる空間格子でX線を回折させることを思い付き、フリードリヒWalter Friedrich(1883―1968)とクニッピングPaul K. M. Knipping(1883―1935)が実験を行い、そこで生じる回折像をラウエが解析するという研究を1912年に成功させた。この研究がブラッグやモーズリーらを刺激し、X線分光学による原子構造の解析に道を開いた。「結晶によるX線回折の発見」により1914年ノーベル物理学賞を受賞した。1912年チューリヒ大学の員外教授、1914年フランクフルト大学教授を経て、1919年ベルリン大学教授となり、1943年まで在職した。この間、X線や電子線の結晶による回折、超伝導、光学、相対性理論、熱力学などの古典的研究を数多く行った。また、この時期、マイスナーWalther Meissner(1882―1974)が超伝導の実験を行っていた国立理工学研究所の顧問も務めた。

 ナチス政権下では、その政策に批判的で、ナチスの迫害を受けた科学者の救済や、亡命の援助に努力し、自らはドイツにとどまって、ナチス政権崩壊後の科学界の再興に備えた。

 ドイツ敗戦後、他の著名な科学者とともに、しばらくイギリスに連行されたが、帰国後、ハーンらとともに旧西ドイツのドイツ物理学会や国立理工学研究所の再建カイザー・ウィルヘルム協会を改称したマックス・プランク協会の再興に努めた。1951年ベルリンのマックス・プランク協会フリッツ・ハーバー研究所長に就任、交通事故により80歳で死去するまでその任にあった。

[川合葉子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラウエ」の意味・わかりやすい解説

ラウエ
Laue, Max Theodor Felix von

[生]1879.10.9. コブレンツ,プファッフェンドルフ
[没]1960.4.23. ベルリン
ドイツの物理学者。シュトラスブルク,ゲッティンゲン,ミュンヘン各大学に学び,チューリヒ大学教授 (1912) ,フランクフルト大学教授 (14) ,ベルリン大学教授 (19) ,ベルリンのマックス・プランク物理化学研究所所長 (51) 。理論物理に秀で,相対性理論,量子論などを研究。特に結晶がX線回折に適していることを理論的に示し,W.フリートリヒと P.クニッピングの協力を得てこれを実証し (12) ,結晶物理学の基礎を築いた。 1914年ノーベル物理学賞を受賞した。

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