リーバーマン(読み)りーばーまん(英語表記)Max Liebermann

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リーバーマン」の意味・わかりやすい解説

リーバーマン
りーばーまん
Max Liebermann
(1847―1935)

ドイツの画家。ベルリンの裕福な工場主の家庭に生まれる。ワイマール美術学校に学び、1873~78年パリに滞在。この間74年にバルビゾンを訪ね、コロートロワイヨンミレーらの影響を受ける。78~84年ミュンヘンに住み、以後ベルリンに定住。90年以降印象主義を受け入れ、代表作『女と山羊(やぎ)たち』(1890、ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク)をはじめ、風景、風俗、肖像などの分野でドイツ印象派の代表的な画家となった。98年ベルリン分離派を創設し、1911年までその議長を務めた。彼はとくにオランダ風物を愛して毎年定期的に滞在し、『アムステルダムのユダヤ街』(1905、ケルン、ワルラフ‐リヒャルツ美術館)をはじめ多数の作品を制作した。20~33年プロイセン芸術アカデミー総裁を務めたが、ナチスにより退廃芸術家として排斥され、ベルリンで没した。

[野村太郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「リーバーマン」の意味・わかりやすい解説

リーバーマン
Karl Theodor Liebermann
生没年:1842-1914

ドイツの有機化学者。ベルリン生れ。R.W.ブンゼンのもとで化学を学んだのち,ベルリンの工業学校にあったJ.F.W.A.vonバイヤーの研究室に加わる。1869年K.グレーベと協力して,アリザリンの合成に成功する。この製法は工業化され,合成品が天然物に代わって使われるようになる。72年バイヤーの後任となり,73年教授。工業学校がシャルロッテンブルク工科大学に昇格したのちも教授をつとめ,かたわらベルリン大学,カイザー・ウィルヘルム研究所の教授を兼任。主として芳香族化合物の研究にあたり,リーバーマン反応と呼ばれているフェノールの検出反応を見いだすなどの業績もある。
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リーバーマン
Rolf Liebermann
生没年:1910-99

スイスの作曲家。チューリヒ大学で法律を学ぶかたわら,同地の音楽院で作曲法も修めた。十二音技法の習得から出発した彼は種々の新しい試みにより第2次大戦後に注目を集めた。また,作曲家としての活躍と並行して音楽監督としての辣腕ぶりも発揮し,北ドイツ放送音楽部長(1957-59),ハンブルク国立歌劇場監督(1959-73),パリ・オペラ座総監督(1973-80)などを歴任した。代表作には《ジャズバンドと管弦楽のための協奏曲》(1954)や,165種の工業機器の音をテープ録音・編集した《交換》(1964)などがある。また十二音技法によるオペラ《レオノーレ40/45》(1952)も重要作。
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リーバーマン
Max Liebermann
生没年:1847-1935

ドイツの画家。生地ベルリン,ワイマールで学ぶ。1873年パリに出て,クールベやバルビゾン派の影響を受け,自然主義的作風を確立。以後,ミュンヘン,ベルリンで活動。90年代にはフランスの印象派の作品に接して,しだいに明るい色彩を用いるようになり,ドイツ印象主義を導く。99年,L.コリントらとともに〈ベルリン・ゼツェッシオン(分離派)〉を創立して新世代のリーダーとなり,20世紀に入ってからはドイツ美術界に君臨した。その作風は,自然主義の伝統に印象派風の色合いを混ぜ合わせた穏やかなもので,光と影が快い対比を見せる戸外での市民生活の描写に,その本領が発揮される。
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百科事典マイペディア 「リーバーマン」の意味・わかりやすい解説

リーバーマン

ドイツの画家。ベルリン生れ。ワイマールで学ぶ。1873年パリに出て,クールベバルビゾン派の影響を受け,1890年代には印象主義に移行。1899年〈ベルリン・ゼツェッシオン〉を創立。ドイツに近代フランス絵画を導入し自然主義と印象主義を融合させた穏やかな作風の風景画や静物画を展開した。
→関連項目ベックマン

リーバーマン

ドイツの有機化学者。ブンゼン,バイヤーに学ぶ。1873年シャルロッテンブルク工科大学教授。1879年ベルリン大学教授。1868年グレーベとともにアリザリンを合成,ドイツ染料工業の基礎を築いた。研究は天然物色素,糖類,アルカロイドなど多方面にわたる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リーバーマン」の意味・わかりやすい解説

リーバーマン
Liebermann, Max

[生]1847.7.20. ベルリン
[没]1935.2.8. ベルリン
ドイツの画家,銅版画家。 1869年ワイマール美術学校に入学。その後フランス,オランダに滞在。ミレーやコローなどのバルビゾン派や J.イスラエルスの影響を受け,84年以降ベルリンに定住,99年にはベルリン分離派を創設した。初期の作品は農民の生活や漁村風景を主題にした写実的なものが多いが,90年頃から印象派に接近しドイツ印象派の代表的画家となった。主要作品『鵞鳥の毛をむしる女たち』 (1872,ベルリン国立美術館) など。

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世界大百科事典(旧版)内のリーバーマンの言及

【ゼツェッシオン】より

…次いで97年にウィーン・ゼツェッシオンがG.クリムトを中心として創設されたが,これはJ.M.オルブリヒJ.ホフマンら建築家,工芸家をも多く含み,オーストリアにおけるユーゲントシュティール(アール・ヌーボー)の中心となった。ベルリン・ゼツェッシオンは99年に,ドイツ印象派の代表者M.リーバーマンを中心として設立され,ドイツ最大の美術組織へと育っていった。ゼツェッシオンの運動は,19世紀末のドイツ美術界における新傾向,すなわち印象主義,象徴主義,ユーゲントシュティールなどが突破口を求めて一つの組織の形をとったものであり,その展覧会には,それらドイツ圏内の新傾向とともに,ゴッホ,ゴーギャン,ホドラー,ムンクといった近隣諸国の革新的芸術も次々と紹介された。…

※「リーバーマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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