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フランス写実主義の画家。6月10日スイス国境に近いフランシュ・コンテ地方の小村オルナンの富裕な農家に生まれる。ブザンソンの素描学校に学び、1839年パリに出る。アカデミー・シュイス、他方でルーブル美術館のスペイン、オランダの絵画に学び、とくに1847年のオランダ旅行でフランス・ハルスやレンブラントの影響を受けた。1844年、自画像『犬を連れた男』(パリ、プチ・パレ美術館)をサロンに初出品。初期には風景、寓意(ぐうい)画、あるいはロマン派風の主題を現実風俗に移した主題を描くが、しだいにオランダ絵画と当時の社会主義思潮の高まりの影響下に、写実主義者としての彼の主題・技法が確立してゆく。1850年のサロン出品の『石割り人夫』(第二次世界大戦中失われる)、『オルナンの埋葬』(パリ、オルセー美術館)などである。1855年のパリ万国博覧会の際、そのために構想された大作『画家のアトリエ』(オルセー美術館)が『オルナンの埋葬』などとともに出品拒否されたことから、彼の理想と絵画を表明するため、モンテーニュ街に自らバラックを建て40点の作品を展示、そのカタログに「写実主義宣言」を書いた。1857年のサロンの『セーヌのほとりの娘たち』(パリ、プチ・パレ美術館)もスキャンダルとなる。こうした同時代風俗の描写、風景、狩猟のさまざまな情景のほか、1850年代なかばからは繰り返し滞在した英仏海峡沿岸の海景、あるいは花や果実の静物、1860年代後半には官能的な裸婦などさまざまな現実的主題が、それにふさわしい的確な技法で描かれる。1867年、アルマ広場で行われた個展は、その成果を人々に認識させた。しかし、1871年パリ・コミューンの際、バンドーム広場の円柱引き倒し事件に連座し、スイスへの亡命を余儀なくされ、1877年12月31日ラ・トゥール・ド・ペイに客死した。ロマン主義、アカデミズムに対する闘いであった彼の写実主義は、ある部分で印象主義の先駆となったし、ドイツ、ベルギー、ロシアなどに広範な影響力をもった。
[中山公男]
『B・ニコルソン著、阿部良雄訳『クールベ 画家のアトリエ』(1978・みすず書房)』▽『阿部良雄編著『25人の画家5 クールベ』(1981/新装版・1996・講談社)』
フランスの画家。19世紀フランスの写実主義の創始者。また社会主義リアリズムの先駆者ともされる。オルナンの富農の家に生まれる。ブザンソンでデッサンを学んだ後,1839年にパリに出て,アカデミー・シュイスやルーブル美術館に通い独学する。初期は肖像画,とくに自画像が多い。これはクールベの晩年まで一貫してみられるナルシシスムの証しであると同時に,自己をさまざまな側面でとらえようとする認識方法でもあり,この頃のロマン派的傾向を示している。46年にオランダに旅行し,レンブラントの作品に衝撃を受け,写実主義への方向決定の契機となる。彼の写実主義は,現実の労働者や農民の姿を,美化せずありのままに,何の物語的背景もなく描き出そうとするもので,〈天使は見えないから描かない〉というのが口癖であったという。《石割り人夫》と《オルナンの埋葬》が,50年のサロン(官展)で〈美しくないものを描いている〉という理由でスキャンダルをひきおこすなど,この時代の彼に対する批判は激しいものだったが,擁護する人々も現れ(ボードレール,シャンフルーリ,カスタニャリなど)盛んな論陣が張られた。相続くサロンでも彼は一向にその挑発的態度を控える風はなく,とくに55年の万国博覧会の際には審査員と意見が合わず,一部出品作を撤回,〈レアリスム館〉とみずから名付けた建物で個展を開き,《アトリエ,現実のアレゴリー》など40点を展示して気勢をあげた。しかし全作品の中では風景画や狩猟に題材をとったものも多く,故郷のフランシュ・コンテ地方の深い森や,ノルマンディー地方の海や波などを力強い厚塗のタッチで描いている。また60年代に描かれた一連の裸婦は,豊かなエロティシズムを発散する生命力あふれる表現である。71年バンドーム広場の円柱がコミューン側に引き倒される事件があり,かねてから社会主義的言動のあったクールベがその責任者と目され,裁判の結果収監された。釈放後,75年スイスに亡命を余儀なくされ,レマン湖の風景などを描きながら孤独な晩年を送る。亡命先のラ・トゥール・ド・ペルスで没。
執筆者:馬渕 明子
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1819~77
フランスの画家。「オルナンの葬式」「石割り」など市民生活を多く描き,批難を浴びながら画壇に写実主義を確立した。パリ・コミューンに参加,敗北後スイスで没した。
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…独立した自然をさまざまな様相でとらえたバルビゾン派は,自然観察の側面で印象派に影響を与えた。しかしなんといっても直接に若き彼らを励まし導いたのは,クールベ,ドービニー,ヨンキント,ブーダンらである。クールベはアカデミーと世論に対する戦いぶりで範を示し,また歴史画,神話画,宗教画といった伝統的ジャンルを離れた現代的主題を印象派に教えた。…
…このような時代環境にあって,1850年ごろから,前代の芸術を支配していたロマン主義に異議をとなえ,芸術の〈写実主義〉を主張する動きが表面化することになる。スタンダールやメリメらの小説,ことにバルザックの作品にみられる写実的手法,さらにはモニエHenri MonnierやミュルジェHenri Murgerといった小作家たちの作品に目だつ卑近な風俗の描写などは,ロマン主義のあとに来るべき文学の性格をすでに予告しているが,クールベを中心として画家たちのあいだに写実主義絵画の運動がおこると,ほぼ同時期に文学界でも,クールベの盟友シャンフルーリが写実主義を第一要件とする文学を提唱し,この挑発的な主張をめぐってさかんな論争が展開された。現実観察のみならず証言や調査資料等によって,文学は日常的現実を細部にわたり忠実に再現するものでなくてはならない。…
…パリで書店に勤め,1844年より文芸雑誌《ラルティストL’artiste》に批評を書く。46年ころからボードレール,クールベ,ドーミエらと次々に知り合い,互いの影響の下に写実主義の思想を形成し,57年に宣言ともいうべき序文をつけた《写実主義》と題する論文集を発表。彼の主張は,芸術においては〈美〉よりも〈真実〉が優先し,それは理想化されてはならず,また現実社会に密着しなければならないというものだった。…
…クチュールThomas Coutureのアトリエに6年間と,並行してアカデミー・シュイスに通う。クチュールは彼の才能を評価せず,マネは1855年の万国博覧会で,とくにクールベの強烈な個性に驚嘆する。次いでドイツ,オランダ,イタリアなどに旅行し,レンブラントやティツィアーノを研究。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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