19世紀末、ドイツとオーストリア各地におこった芸術革新運動。ゼツェッションの訳語。この名称には、過去の歴史様式から「分離」して新しい創造に向かおうとする意味が込められている。絵画の刷新という面では、フリッツ・フォン・ウーデが中心となったミュンヘン分離派(1892)、リーベルマンらのベルリン分離派(1899)があるが、これらはフランス印象派の影響を抜けきることができず、歴史的な意味からは、建築・工芸の領域にわたったウィーン分離派の仕事が特筆される。
[高見堅志郎]
1897年、画家クリムトを会長に、建築家ホフマン、オルブリッヒらによって設立された。ホフマンとオルブリッヒの師は近代建築を提唱したオットー・ワーグナーであるが、この運動はかならずしも近代合理主義の出発として位置づけられるのではなく、むしろアール・ヌーボー(ドイツではユーゲントシュティル)の風土の下での、貴族的ともいえる装飾趣味が根底にあり、こうした斬新(ざんしん)なデザインによって過去から「分離」しようとしたのであった。
設立当初のウィーンは、イギリスのグラスゴーで活躍したマッキントッシュの特異な造形から圧倒的な影響を受けている。運動は機関誌『フェル・ザクルム』Ver Sacrum(聖なる春)を軸に進められ、1900年にはオルブリッヒの設計した分離派館(1898)で展覧会がもたれた。オルブリッヒはこののちヘッセン大公に招かれ、ダルムシュタットの芸術家村設立に参加し、分離派調の建築を残した。一方ホフマンは、分離派運動の展開として1903年にウィーン工房を設立、工芸の分野に繊細・優美な感性を授けた。ホフマンの代表作ストックレー邸(1905~11)にも明らかなように、アール・ヌーボーの曲線様式が直截(ちょくせつ)な形式にとってかわりながらも、優れた趣味性がつねに彼を支配した。ウィーン分離派のこうした芸術至上主義は、同じウィーンの建築家で無装飾主義を提唱したアドルフ・ロースによって攻撃され、いわば過渡的様式としての分離派は終焉(しゅうえん)する。
[高見堅志郎]
日本では1920年(大正9)東京帝国大学工学部建築学科の卒業生、石本喜久治(きくじ)、堀口捨己(すてみ)、瀧沢真弓(まゆみ)、山田守(まもる)、矢田茂、森田慶一が分離派建築学会をつくった。宣言に「我々は起(た)つ、過去建築圏より分離……」とあるように、思想的にはウィーン分離派の影響が強い。分離派建築会は28年(昭和3)まで7回の作品展を開いている。その間、同時にドイツの表現主義建築の影響を受けたこともあり、わが国の建築芸術の創造に果たした役割は非常に大きい。
[高見堅志郎]
ロシア正教会の一派。1650年代にロシア総主教ニコンが行った一連の礼拝儀式の改革に反対し、長司祭アバクームらを指導者として国家教会から分離した信徒たちをさす。当局の厳しい弾圧を受けながらも、辺境の森の中やシベリアに潜んで旧来の信仰の伝統を固守し、18世紀末以後はモスクワなどの都市でも勢力を伸長させた。正確な統計はないが、19世紀の全国の信徒数は1000万を超すともいわれ、資本家を輩出したこともあって、ロシアの社会的、経済的発展に大きな影響を及ぼした。司祭の権威を認める容僧派と、その権威を認めない無僧派に大別される。
[中村喜和]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…20世紀初頭,ウィーンに設立された工房。19世紀末に,全欧を巻き込んだ新しい芸術創造を目ざす気運の一環としてゼツェッシオン(分離派)が組織されたが,その理念の工芸面における実践を図ろうとしてつくられた。1903年ウィーンの建築家J.ホフマンやモーザーKolo(man) Moser(1868‐1918)らによってウィーン分離派所属の工芸品製作所として設立。…
…1890年代にドイツ圏の各地で起こった美術家の運動およびその組織のこと。セセッションともいい,〈分離派〉と訳される。アカデミーを中心とする既存の展覧会に受け入れられない若い世代の美術家たちが,古い体制からの分離,新しい展覧会組織の設立を目指したもので,ミュンヘン,ウィーン,ベルリンをはじめ,ライプチヒ,ダルムシュタットなど各地に次々と組織がつくられた。…
…イギリス,ピューリタン革命において議会派の中核となった宗教・政治党派。宗教的には,エリザベス1世治世に出現した英国国教会からの分離派(ブラウン派)に由来し,地域の教会会衆組織(コングリゲーション)の個々の自律性を主張して,全国的な教会統治機構をとる国教会と長老派のいずれにも反対した。内乱中の1643年,スコットランドとの軍事同盟締結の際に開かれたウェストミンスター宗教会議において,その立場を明らかにし,議会ことに議会軍内部に勢力を伸ばした。…
…本来の用語法としては,エリザベス1世によって確立された英国国教会の内部にとどまりながら,その礼拝式や教会統治方式などに賛同できず,国教会への遵奉を拒んだ新教徒を〈非遵奉派nonconformist〉と呼ぶ。また国教会から離脱して別個に信徒集団を組織し,国家と教会の分離を主張した新教徒を〈分離派separatist〉,さらに,名誉革命後の寛容法の制定(1689)によって国教会の外部での宗教結社の合法性を認められた新教徒を〈国教反対者dissenter〉と呼ぶ。しかし以上のうち,とくに第1と第3の用語の区別は厳密ではなく,日本では3者の総称として,非国教徒の語が一般に用いられる。…
…17世紀後半にロシア正教会で行われた典礼改革,いわゆる〈ニコンの改革〉の受入れを拒否して正教会から分離した分派の総称。ラスコーリニキとは分離派の意味だが,分離の理由として旧来の典礼に固執したため古儀式派とも呼ばれる。モスクワ総主教ニコン(在位1652‐66)がツァーリ・アレクセイの信を得て懸案の典礼改革に乗りだしたとき,それが典礼書の改訂と典礼慣行の修正といった信仰の本質とはかかわりのない問題であったにもかかわらず,その背後に集権主義的国家教会の圧力を見てとった聖職者と信者はその改革に従わず,分派を形成した。…
…
[旧教徒ラスコーリニキ]
前述の国勢調査では旧教徒と諸分派に属する者は220万人と発表されたが,実際の数はこれをはるかに上回っていたと考えられている。旧教徒あるいは旧儀派とは,17世紀半ばの総主教ニコンによる典礼改革を認めず,国家教会から分かれた正教徒で,ラスコーリニキ(分離派)とも呼ばれる。モスクワ・ロシア時代以来の宗教儀式と家父長制をかたく守り,政府や国教会によるたび重なる弾圧や迫害にも節を曲げなかった。…
…濃尾の大地震(1891)に刺激されて耐震構造が重視され,鉄骨造,鉄筋コンクリート造が20世紀の初めから建てられるようになり,関東大地震後,大建築はまったく鉄筋コンクリート造によることとなった。一方,様式の面では,1897年のウィーン・ゼツェッシオンが分離派として1920年に日本にも伝わり,ヨーロッパの近代建築様式が日本でもはじめられ,朝日新聞旧東京本社(石本喜久治),中央電信局(山田守)などが建てられた。それらは芸術至上主義的な傾向が強く,また第1次世界大戦後の表現主義の影響もみられるが,しだいに合理主義,機能主義の面が強くなり,第2次世界大戦前には東京中央郵便局(吉田鉄郎),逓信病院(山田),若狭邸(堀口捨己)などを生んだ。…
…日本における建築文化運動の先駆。略して分離派とも呼ぶ。内容はアカデミズム内の若手建築家によるロマン主義的な造反運動であるが,ジャーナリズム,商業資本の好意的支援が論争を誘発し,西欧近代建築が日本に流入する思想的土壌を準備させた。…
※「分離派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加