ポンペイ(読み)ぽんぺい(英語表記)Pompei

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ポンペイ」の意味・わかりやすい解説

ポンペイ
ぽんぺい
Pompei

イタリア南部にあった古代都市。現在のカンパニアナポリ県、ナポリの南東23キロメートルに同名の町があり、その西方に古代のポンペイの町全体が古代遺跡として保存されている。1997年にエルコラノ、トッレ・アヌンツィアータの遺跡とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

[松本宣郎]

歴史

ベスビオ火山南東麓(ろく)の肥沃(ひよく)な土地で、ナポリ湾に近く交通要地でもあったために、古くイタリア先住のオスク人が集落をつくっていた。紀元前8世紀にはギリシアの植民者が来住し、前7世紀にはエトルリア人も移住して都市国家に成長し、貴族共和政となったと考えられている。ギリシア神殿ができ、家屋も増えた。ブドウや農産物、魚貝類を多く産し、軽石などをも輸出して栄えた。前5世紀には山地に住むサムニウム人の略奪を受け、ついには占領された。しかしオスク・ギリシア文化がむしろ優勢で、広場や家屋のモザイクにそれが表れ、市域も拡大し城壁がつくられた。のちローマの進出によりその支配下に入るが、第二次ポエニ戦争時にはカルタゴハンニバルに味方した。さらに同盟市戦争(前91~前88)でもローマに抵抗し、ローマ市民権を獲得したものの結局ローマの支配に服し、ローマの有力者スラの派の退役兵が多数植民して、都市の名もスラの家名を付してよばれるようになった。

 以後急速にラテン化、ローマ化が進み、都市参事会制度も整った。ローマの富裕者が好んで別荘をつくり、劇場、神殿、バシリカ、浴場、凱旋(がいせん)門、柱廊、商店が続々と建設された。ギリシアやアレクサンドリアなど東方との通交も続けられ、イシスなどオリエントの神々の崇拝も盛んで、芸術家、職人も集まり、邸宅や公共建築の装飾に活躍した。最盛時の人口は1万5000~2万を数え、カンパニアでも有数の壮麗な都市となった。帝政期に入っても保養地として繁栄を続け、水道や舗装路も整備された。しかし、紀元後63年2月に大地震に襲われ、住民が不安に陥っていたところ、79年8月24日ベスビオ火山が大爆発をおこした。ポンペイには大量の火山灰火山礫(れき)が降り注ぎ、町全体が埋没した。死者は2000人と推定される。その後ポンペイは二度と復興されることなく忘れ去られた。当時のポンペイが都市としての盛期を過ぎていたことが、放棄された理由とされる。

[松本宣郎]

発掘と遺跡

16世紀なかばになって、土に埋もれた古代都市の存在が発見され、1748年に発掘が開始された。発掘に伴って、古代ローマ時代の都市生活の実態が驚くほど明瞭(めいりょう)にされてきた。現在は8割が発掘され、巨大な遺跡公園として、火山灰に埋もれる直前の街のたたずまいがそのまま再現されている。フォルム(広場)を囲むアポロウェヌスユピテルの各神殿、三角広場の大小の劇場、1万5000人収容の大闘技場などの大建築に加え、車道と歩道が区別され横断歩道すらある街路、食料雑貨の小売店酒場などの貴重な建物がある。また裕福な商人ウェッティの家、悲劇詩人の家など富豪の邸宅の豪奢(ごうしゃ)なようすも目だち、ことに郊外の秘儀荘の家からは華やかなディオニソスの密儀の壁画が発見されている。そのほか、逃げ遅れた人間や犬、食事中のテーブル、さまざまな食物、医療器具、遊具、ポスター、その他日常品なども多数発掘され、ポンペイはまさに古代ローマ人の生活を知るための宝庫となっている。遺跡は考古学研究所の管轄下にあって発掘が続けられる一方、多くの見学者を集めている。アレクサンドロス大王のモザイクなど多くの出土品は、ナポリの国立博物館に収められている。現在の町は人口2万5751(2001国勢調査速報値)で、巡礼の聖地をなす教会、鉱泉、火山観測所などがあり、食品工業が行われる。

[松本宣郎]

『呉茂一編『世界の文化史蹟 ローマとポンペイ』(1968・講談社)』『コルティ著、松谷健二訳『ポンペイ』(1964・みすず書房)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポンペイ」の意味・わかりやすい解説

ポンペイ
Pompeii

イタリア中南部カンパーニア地方,ナポリ湾東岸,ベズビオ火山南麓にあった古代都市。発掘が進められ,古代ローマ文化の様相をそのまま再現している。前6世紀オスク人によって建設され,前5世紀にはサムニウム人の町となったが,前 89年にローマの将軍 L.スラによる長期の攻囲ののち陥落。しだいにローマ化され,風光明美なため貴族の別荘地となった。 62,63年に震災を受けたあと,79年8月 24日ベズビオ火山大爆発により壊滅した。降りかかる軽石,火山灰が一瞬のうちに5~20mの高さに積もり,市民2万のうち 2000人が死んだ。以後復興されることもなく,その存在は忘れ去られていたが,16世紀末に遺跡の一部が発見され,1763年から本格的な発掘が始められ,大半が復元された。神殿,議場,広場,大浴場,劇場などが1世紀のままの状態でみられ,多くの観光客を集めている。多数の家屋からは生きながら焼かれた奴隷やイヌ,金貨を取りに戻ったために死んだ主人の遺骸などが見つかった。市域は楕円形で道路はすべて舗装され,車道,人道の別があり,ところどころに踏み石の横断歩道もある。装飾品や生活用具からはギリシア・ヘレニズムの影響を受けた文化のさまが如実にうかがわれる。彫刻,絵画にもみるべきものがあるが,なかでもアレクサンドロス3世 (大王) とペルシアのダレイオス3世のイッソスの戦いを描いたモザイク画 (→アレクサンドロスのモザイク ) は有名である。市民が残した落書きにも秀逸なものが多い。 1997年ヘルクラネウムトレアンヌンツィアータの遺跡とともに世界遺産の文化遺産に登録。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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