翻訳|Pompeii
イタリアの古代都市。カンパニア州北西部,ナポリの南東約23kmのナポリ湾沿岸,ベスビオ山の南麓に位置する。交通の要衝,肥沃な後背地などの条件によりオスキ人がまず集落をつくった。やがて前8世紀以降ギリシア人植民者,エトルリア人が移り住み,町は拡大した。交易が栄え,農産物,ブドウ酒,魚介類,軽石を産し,輸出した。ギリシア神殿もできたがオスキ・イタリア文化も発展した。前5世紀にはサムニウム人の進出で略奪をうけ,ついにはその支配下に入り,ヌケリアNuceriaを盟主とする都市同盟の一員となり,貴族共和政の体制を保った。この間,市域は拡大し城壁も強化された。前3世紀ローマの進出でポンペイは一時独立し,ヘレニズム・ローマ文化を急速に取り入れた。ポエニ戦争ではハンニバルについたが,のちローマ支配下に入り,同盟市戦争で再びローマに敵対した。結局ローマ市民権を得てローマの軍門に降り,多数のローマ人植民者を迎え入れた。以来都市制度を整え,ラテン語を受容し,劇場,ウェヌス神殿,イシス神殿,浴場,バシリカなどを建てて大都市に発展していった。ローマ人富裕者の保養地として豪華な別荘もでき,華麗な壁画・彫刻・モザイクで飾られ,水道,舗装路,商店も整えられた。元首政期の人口は2万人近くに達した。しかし63年に大地震による災害をうけたのち,79年8月24日ベスビオ山の大爆発により火山礫(れき),火山灰に埋もれた。死者は約2000,都市としての機能を失い,ついに二度と復興されなかった。
執筆者:松本 宣郎
1748年,偶然の契機で発見されたポンペイは,現在,その約8割が発掘されている。サムニウム時代に建造された城壁に囲まれた市街地は,公共広場を中心とする旧街区とそれ以外の新街区から成り,後者はほぼ碁盤目状の街割りを呈している。ポンペイ発掘の意義は,この城壁内に残る数多くの住宅址とその室内を装飾する壁画にあり,それらによって,約2世紀間にわたる当時の日常生活と絵画の様式変遷が解明された。〈外科医の家〉など最古の住宅址は前4世紀にさかのぼり,アトリウムをもつ古イタリア的形式であるが,前2世紀からは〈ファウノの家〉などのようにギリシア・ヘレニズム的要素であるペリステュリウムperistylium(建物あるいは中庭を囲む列柱廊)が取り入れられている。また,壁面装飾においても四つの様式が認められ,数色のしっくい装飾のみによる第1様式,おもに建築モティーフを描いた第2様式,エジプト的な装飾モティーフを優雅に配した第3様式,それに幻想的装飾である第4様式に分類されている。これらは,他の古代遺跡では見ることのできない出土例の豊富さと,2世紀間以上にわたって連続した様相を示していることから,〈古代絵画館〉と通称されるほどである。また彫刻においては前4世紀のプラクシテレスらの模刻が好まれ,教養主義的で装飾的な彫刻に対する好尚があったことを明らかにした。
日常生活のうえでは,食生活,装身具,貸借関係,クリエンテラ制(クリエンテス)に基づく選挙,家庭内における信仰などが明らかとなった。このほか,アポロン神殿,ウェヌス神殿,ユピテル神殿,ドリス式神殿,選挙投票場(コミティウム),市参事会会議場,マケルム(市場),五つの浴場,大小の劇場,パラエストラ(体育場),円形闘技場,度量衡管理所など都市として必要であった施設のすべてが残っており,公共生活がどのようなものであったのかを理解するためにも重要な資料を提供している。
執筆者:青柳 正規
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア南部にあった古代都市。現在のカンパニア州ナポリ県、ナポリの南東23キロメートルに同名の町があり、その西方に古代のポンペイの町全体が古代遺跡として保存されている。1997年にエルコラノ、トッレ・アヌンツィアータの遺跡とともに世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[松本宣郎]
ベスビオ火山南東麓(ろく)の肥沃(ひよく)な土地で、ナポリ湾に近く交通要地でもあったために、古くイタリア先住のオスク人が集落をつくっていた。紀元前8世紀にはギリシアの植民者が来住し、前7世紀にはエトルリア人も移住して都市国家に成長し、貴族共和政となったと考えられている。ギリシア神殿ができ、家屋も増えた。ブドウや農産物、魚貝類を多く産し、軽石などをも輸出して栄えた。前5世紀には山地に住むサムニウム人の略奪を受け、ついには占領された。しかしオスク・ギリシア文化がむしろ優勢で、広場や家屋のモザイクにそれが表れ、市域も拡大し城壁がつくられた。のちローマの進出によりその支配下に入るが、第二次ポエニ戦争時にはカルタゴのハンニバルに味方した。さらに同盟市戦争(前91~前88)でもローマに抵抗し、ローマ市民権を獲得したものの結局ローマの支配に服し、ローマの有力者スラの派の退役兵が多数植民して、都市の名もスラの家名を付してよばれるようになった。
以後急速にラテン化、ローマ化が進み、都市参事会制度も整った。ローマの富裕者が好んで別荘をつくり、劇場、神殿、バシリカ、浴場、凱旋(がいせん)門、柱廊、商店が続々と建設された。ギリシアやアレクサンドリアなど東方との通交も続けられ、イシスなどオリエントの神々の崇拝も盛んで、芸術家、職人も集まり、邸宅や公共建築の装飾に活躍した。最盛時の人口は1万5000~2万を数え、カンパニアでも有数の壮麗な都市となった。帝政期に入っても保養地として繁栄を続け、水道や舗装路も整備された。しかし、紀元後63年2月に大地震に襲われ、住民が不安に陥っていたところ、79年8月24日ベスビオ火山が大爆発をおこした。ポンペイには大量の火山灰、火山礫(れき)が降り注ぎ、町全体が埋没した。死者は2000人と推定される。その後ポンペイは二度と復興されることなく忘れ去られた。当時のポンペイが都市としての盛期を過ぎていたことが、放棄された理由とされる。
[松本宣郎]
16世紀なかばになって、土に埋もれた古代都市の存在が発見され、1748年に発掘が開始された。発掘に伴って、古代ローマ時代の都市生活の実態が驚くほど明瞭(めいりょう)にされてきた。現在は8割が発掘され、巨大な遺跡公園として、火山灰に埋もれる直前の街のたたずまいがそのまま再現されている。フォルム(広場)を囲むアポロ、ウェヌス、ユピテルの各神殿、三角広場の大小の劇場、1万5000人収容の大闘技場などの大建築に加え、車道と歩道が区別され横断歩道すらある街路、食料雑貨の小売店、酒場などの貴重な建物がある。また裕福な商人ウェッティの家、悲劇詩人の家など富豪の邸宅の豪奢(ごうしゃ)なようすも目だち、ことに郊外の秘儀荘の家からは華やかなディオニソスの密儀の壁画が発見されている。そのほか、逃げ遅れた人間や犬、食事中のテーブル、さまざまな食物、医療器具、遊具、ポスター、その他日常品なども多数発掘され、ポンペイはまさに古代ローマ人の生活を知るための宝庫となっている。遺跡は考古学研究所の管轄下にあって発掘が続けられる一方、多くの見学者を集めている。アレクサンドロス大王のモザイクなど多くの出土品は、ナポリの国立博物館に収められている。現在の町は人口2万5751(2001国勢調査速報値)で、巡礼の聖地をなす教会、鉱泉、火山観測所などがあり、食品工業が行われる。
[松本宣郎]
『呉茂一編『世界の文化史蹟 ローマとポンペイ』(1968・講談社)』▽『コルティ著、松谷健二訳『ポンペイ』(1964・みすず書房)』
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古代ローマの都市。ナポリの東南,ウェスウィウス火山の麓にあった町。79年の同火山の大爆発で埋没した。発掘は1748年以来,特に1860年以後組織的に行われ,現在も進行中。ヘレニズム化したローマの小都市の姿を今に伝える。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ラテン語とは異なる言語的特徴を示す。オスク(オスキ)語は南イタリアのカンパニア地方を中心とし,ウンブリア語はウンブリア地方に話され,ともに紀元前の碑文資料をもつが,前者は地震で埋没したポンペイ遺跡の落書にもみられる。ローマ帝国の興隆とともに,これら小部族の言語はラテン語に吸収されてしまった。…
…また室内構成あるいは室内設計という言葉も用いられる。
[歴史]
住宅の主要室に限定して概観すると,この分野でのもっとも古い遺構はポンペイに見いだされる。ここでは室内の装飾計画の対象となるおもな部分は,壁,天井および床であったが,窓はまだ重要ではなかった。…
… ローマの住居も,中庭型住居を中心に発展した。もっとも有名な例がポンペイの住居址群(前2世紀ころ~後1世紀)であり,類似の形式は地中海沿岸の各地に見いだされる。ドムスdomusと呼ばれる大型の中庭型住居では,街路に面した入口が二重扉になっていて安全を確保し,そこからアトリウムと呼ばれる第1の中庭にいたる。…
…マケドニア北方のペラ出土の舗床モザイク(前4世紀末)では,白・黒・茶色など数色の小石により,狩猟場面や神話主題などが表されている。イタリアのポンペイからは多くのモザイク画が発見されているが,なかでも有名な《イッソスの戦》のモザイク壁画(前2世紀後半)は,ヘレニズム時代のフレスコのコピーといわれ,細緻でイリュージョニスティックな表現が見られる。古代末期には,宮殿や邸宅の大きな床面を飾る舗床モザイクが,北アフリカを含め地中海岸全域で流行した。…
…このような住宅の平面はエトルリアの墓の平面にもみられることから,もとはエトルリアの住宅形式であったと考えられている。ポンペイの住宅では,アトリウムの屋根は四方からふきおろされ,中央に雨水を落とす天窓があり,その下に雨水を受ける水盤(インプルウィウムimpluvium)がある。大邸宅ではアトリウムを中心とする一郭の後ろに列柱中庭(ペリステュルムperistylum)を取り巻く一郭が造られる。…
※「ポンペイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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