ロバチェフスキー(読み)ろばちぇふすきー(英語表記)Николай Иванович Лобачевский/Nikolay Ivanovich Lobachevskiy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ロバチェフスキー」の意味・わかりやすい解説

ロバチェフスキー
ろばちぇふすきー
Николай Иванович Лобачевский/Nikolay Ivanovich Lobachevskiy
(1792―1856)

ロシアの数学者。双曲的非ユークリッド幾何学(「ボヤイロバチェフスキー幾何学」ともいわれる)の創始者で、一生を非ユークリッド幾何学研究と大学の行政とに捧(ささ)げた。下級官吏次男として、ニジニー・ノブゴロド(現、ゴーリキー)に生まれる。父はニコライが7歳のときに死亡、兄と弟とともに母の手で育てられた。一家貧困のなかにあったが、母は3人の子供の教育にすべてをかけ、子供たちをカザンギムナジウムに入学させた。当時、ここはもっとも能力のある生徒が集められ、貴族階級以外の一般の階級の子弟には、とくに厳しい試験が課せられていた。ニコライが入学を許されたのは1802年であるが、入学試験のときすでに数学に天賦の才能があることを示し、14歳でカザン大学に進学したころには、すでにニュートンの『プリンキピア』をはじめ、多くの数学の専門書や論文を勉強してしまっていた。入学後、一時、医学を志したが、やがて数学と天文学に異常な興味をもち、その方面での才能を発揮し始めた。18歳のとき、学校当局との間にいざこざを起こして不興を買ったりしたが、その年修士学位をとり、1814年には物理・数学科助手、1816年には員外教授となった。1820年に数学・物理学部長、1822年に建設委員会委員(1825年から委員長)、1826年に正教授となり、1827年カザン大学学長として承認され、1846年まで連続して学長の任にあった。その間、1826年2月には、物理・数学部会において非ユークリッド幾何学の原理を含む研究報告を行い、1829~1830年の『カザン通報』に「幾何学の原理について」を発表した。これが印刷の形で発表された非ユークリッド幾何学の最初の論文である。その後さらに「想像の幾何学」「完全な平行線公理をもった幾何学」などを発表し、10年ほどかかって新しい幾何学、すなわち非ユークリッド幾何学の基礎をつくりあげた。『想像の幾何学』が1837年フランスで公表され、『平行線の理論に関する幾何学的研究』という小冊子が1840年ベルリンにおいてドイツ語で出版された。ガウスがロバチェフスキーの業績を知ったのもこの著作によってである。最後の研究は1855年『汎幾何学(はんきかがく)』に公表されたが、同年学長を解任され、翌1856年病のため63歳で世を去った。

[茂木 勇]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロバチェフスキー」の意味・わかりやすい解説

ロバチェフスキー
Lobachevskii, Nikolai Ivanovich

[生]1792.12.1. ニジニーノブゴロド
[没]1856.2.24. カザン
ロシアの数学者。14歳でカザン大学に入学し,1811年に修士となる。引き続き同大学で教え始め,1822年教授となる。大学行政に優れた手腕を発揮し,1820年数学・物理学部長,1827~46年学長。アレクサンドル1世のもとで荒廃した大学教育を立て直すことに成功し,同時に科学の大衆化にも大いに貢献した。数学研究は,これらの責務の合間を縫って行なわれたといっても過言ではない。無限級数論,積分論,確率論,代数方程式などに優れた業績を残したが,最も有名な研究は非ユークリッド幾何学の構築である。1826年に初めて公表し,1829年に論文をまとめ,その後数度,ドイツ語,フランス語で新しい幾何学に関する論文を発表したが,その意義を認めた者はほとんどいなかった。もう一人の非ユークリッド幾何学の創始者ヤーノシュ・ボーヤイ同様,名声を得るのは死後のことである。主著『平行線理論に関する幾何学的研究』(1840)。

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