改訂新版 世界大百科事典 「コウォンタイ」の意味・わかりやすい解説
コウォンタイ
Hugo Kałłątaj
生没年:1750-1812
ポーランド分割の時期に改革運動に活躍した。ボルイン地方(現,ウクライナ共和国領)の農村に下級シュラフタ(貴族)の三男として生まれた。ヤギエウォ大学で学んだあと聖職者を目ざして神学校に学び,さらに兄の援助でウィーン大学,ローマ大学に学んだ。ローマ滞在中に知りあったポーランド国王スタニスワフ・アウグストの甥から大司教(国王の弟)を紹介され,その推挙で1776年国民教育委員会の委員に任命された。主としてヤギエウォ大学の近代化に活躍し,83-86年には自ら学長の地位に就いた。ポーランド分割による危機克服を目ざして体制改革を実現すべく四年セイム(国会)が88年に召集されると,コウォンタイは体制改革派のブレーンとして多くの改革案や法案の起草にあたった。しかし91年に改革派が新憲法(五月三日憲法)を強行採決したため,これに反対する保守派(タルゴビツァ派)がロシア軍の進駐を要請して改革派はザクセンに亡命を余儀なくされた。結果的に93年の第2回ポーランド分割に結びつくことになった保守派のこの行為は裏切り行為とされるようになり,全国的な反ロシア感情の高まりのなかで94年にコシチューシュコの蜂起が勃発した。コウォンタイは直ちに新政府に参加し,農民に地位の改善を約束した〈ポワンツェ宣言〉を起草したり,財源の確保に努力した。しかし半年後に蜂起は敗北し,コウォンタイはオーストリア政府の手で1802年まで投獄された。出獄してきたとき革命の時代はすでに終わっていた。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報