一月蜂起(読み)いちがつほうき(英語表記)Powstanie Styczniowe

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一月蜂起
いちがつほうき
Powstanie Styczniowe

ロシアの支配からの解放を求めてポーランドの士族階級 (シュラフタ ) が起した最後かつ最大の反乱 (1863~64) 。クリミア戦争後のロシア帝国の政治情勢の流動化を背景として,1862年5月ロシア領ポーランドに急進的な士族階級出身の知識人 (「赤党」) を中心とした蜂起のための地下組織「国民中央委員会」が結成された。会議王国 (ポーランド王国) の民政長官 A.ウィエロポルスキは臨時徴兵令を発してこの動きを封じようとしたが失敗,63年1月 22日ワルシャワに蜂起が勃発し,臨時国民政府が宣された。反乱はたちまち会議王国全土,リトアニア (リトワ) ,白ロシア,ウクライナの一部に波及し,同年夏に最高潮に達した。しかし蜂起は都市下層民,一部農民を巻込んだものの,大多数の農民は運動の圏外にとどまった。1月の布告は農民の耕地所有権を認め,蜂起に参加する貧農に土地を約束したが,63年4月臨時政府の指導権を握った穏健派 (「白党」) が布告の実施を遅らせたため効果を発揮せず,10月に R.トラウグートが独裁官となり,布告の完全実施を約束したときには,運動はすでに退潮期にあり,64年3月ロシア皇帝がより有利な条件の農民解放令を布告したため,まったく意味を失った。こうして蜂起は革命というよりも戦争の性格を帯びることになったが,軍事的には装備の劣るゲリラ部隊の散発的な行動以上のものを展開することができなかった。外交的にはイギリス,フランスの介入を期待して画策したが,ロシア側の断固たる拒否にあい,見通しを失った。 63年後半に T.ベルク,M.ムラビヨフ麾下の 30万のロシア正規軍が投入され,警察の追及がきびしくなるに及び,蜂起運動は下火となり,64年4月事実上消滅した。一月蜂起の経験は,国内では一揆主義から有機的労働へと独立運動の転換を促し,国外では第1インターナショナルのような国際連帯運動にきっかけを与え,また日本の攘夷運動 (→攘夷論 ) の方針転換にも少なからず影響を及ぼした。

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世界大百科事典 第2版の解説

いちがつほうき【一月蜂起 Powstanie styczniowe】

1863年1月22日,ポーランド王国で起こった蜂起。1855年のロシア皇帝ニコライ2世の死とセバストポリの陥落でロシア帝国内部に変革の動きが始まるが,ロシア領ポーランドでもワルシャワを中心に十一月蜂起以前の体制復活を要求する声が強まってきた。60年後半から過激派(学生,職人)によって街頭デモが組織され始め,61年4月のデモでは多数の犠牲者が出るにいたった。それまでロシア当局に協力的であった穏健派(地主貴族,ブルジョアジー)は,過激派から非愛国的と非難されるのを恐れて当局との協力を拒否するようになった。

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世界大百科事典内の一月蜂起の言及

【ポーランド】より

ニコライ世にいたっては,デカブリストとの接触ゆえに反逆罪に問われていた愛国者協会Towarzystwo patriotyczneのリーダーが憲法の規定に従ってセイムで裁かれたとき,判決が軽すぎるとしてこれを無視し,彼らを勝手にシベリアに送ってしまった(1828)。(2)十一月蜂起 1830年,ワルシャワ歩兵士官学校のビソツキPiotr Wisocki(1797‐1874)を中心としたグループによる十一月蜂起は基本的に,こうしたロシア皇帝の専制的なやり方に対して特権擁護のためにシュラフタが起こした蜂起であった。蜂起はコンスタンタン大公をワルシャワから追い,チャルトリスキを首班とする臨時政府を樹立,さらに保守派の軍司令官を解任,ニコライ1世の廃位を決議するが,ロシアの大軍を前に屈伏,31年9月に終結した。…

※「一月蜂起」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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