改訂新版 世界大百科事典 「一月蜂起」の意味・わかりやすい解説
一月蜂起 (いちがつほうき)
Powstanie styczniowe
1863年1月22日,ポーランド王国で起こった蜂起。1855年のロシア皇帝ニコライ2世の死とセバストポリの陥落でロシア帝国内部に変革の動きが始まるが,ロシア領ポーランドでもワルシャワを中心に十一月蜂起以前の体制復活を要求する声が強まってきた。60年後半から過激派(学生,職人)によって街頭デモが組織され始め,61年4月のデモでは多数の犠牲者が出るにいたった。それまでロシア当局に協力的であった穏健派(地主貴族,ブルジョアジー)は,過激派から非愛国的と非難されるのを恐れて当局との協力を拒否するようになった。過激派の動きを抑えるため10月に戒厳令が施行されたが,かえってこれが過激派を勢いづかせることになった。ただちに闘争委員会が過激派によって結成された。もっとも,蜂起実現のための全国組織が作られるのは,これが国民中央委員会に再編されてからである(1862年6月)。62年10月,1856年以来中止されていた徴兵の再開が公表された。当局側が過激派をまず徴兵し始めたため,十分に準備が整わないまま63年1月22日に蜂起が開始された。蜂起が始まった以上,穏健派もこれを無視するわけにはいかなかった。3月には穏健派も中央委員会に協力するようになり,5月には国民政府の成立が宣言された。蜂起開始と同時に農地解放令が発表された。農民を味方につけるためである。しかし63年夏の最盛期ですら2万人ほどしか集まらず,しかも火器をもっていたのはその半分だけといった状態の蜂起軍では,せいぜい小人数で場あたり的にパルチザン戦を戦うしかなかった。期待された西欧列強の介入がない以上,ロシア軍占領下のワルシャワに作られた〈地下〉国民政府の懸命の努力だけでは蜂起の成功は望むべくもなかった。63-64年冬に計画された攻勢は実現せず,64年3月にロシア政府が発表した農地解放令が,蜂起側の行った農地解放を追認するにおよんで,ついに農民の動員すら不可能になった。ここに事実上,蜂起は終わったのである。
→ポーランド[歴史]
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報