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アダム・シャール あだむしゃーる

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アダム・シャール
あだむしゃーる
Johann Adam Schall von Bell
(1591―1666)

中国の明(みん)朝末期から清(しん)朝初めに布教と天文暦算に活躍したイエズス会士。漢名は湯若望(とうじゃくぼう)、字(あざな)は道未(どうみ)。ドイツ(当時神聖ローマ帝国)のケルンの名門の出で、その地のキリスト教学校で諸科を学び、ローマに留学。1611年イエズス会士となり、1622年トリゴーNicolas Trigault(1577―1628。漢名金尼閣(きんにかく))とともに中国に赴き、北京(ペキン)で中国語を修得。ここでの月食の予報計算が三たび的中して名声を博した。西安で布教にあたったが、1630年テレンツJohann Terrentius(1576―1630。玉函(とうぎょくかん))の死に伴い、山西地方にいたローGiacomo Rho(1593―1638。羅雅谷(らがこく))とともに北京に召還され、徐光啓(じょこうけい)らを助けて西洋天文学に準拠した『崇禎暦書(すうていれきしょ)』を完成した(1634)。これによる改暦は明朝末期の混乱で実現しなかったが、1645年、清朝のもとで欽天監監正(きんてんかんかんせい)(天文台長)に任じられ、『崇禎暦書』に基づく『時憲暦(じけんれき)』を完成(のち、乾隆帝(けんりゅうてい)の諱(いみな)である「弘暦(こうれき)」の暦の字を避け、『時憲書』と改められた)。この暦は1645年から1911年の清滅亡まで施行された。
 清の世祖順治帝(じゅんちてい)(在位1643~1661)の厚遇を受けた彼は、1650年には北京最初の西洋建築である天主堂(南堂。改築されたものが現存)を建て、また、他の宣教師の便宜も図り、北京にきた朝鮮皇子にも宗教書や天文器械を贈るなど、布教に努めた。しかし1664年、楊光先(ようこうせん)(生没年不詳)の誣告(ぶこく)により逮捕され、フェルビースト(南懐仁(なんかいじん))の弁護も効なく死刑を宣せられ、欽天監役人や他の宣教師多数も連座した。ところが天変災害が相次いだため、他の神父は釈放、シャールも太皇太后(たいこうたいごう)の命で釈放され、南堂に戻ったが、楊光先らの迫害はやまず、東堂に移され、1666年8月15日に没した。その後1669年、再審の結果、シャールの名誉が回復された。渾天儀(こんてんぎ)、日時計、望遠鏡など科学器械や地図、星図の製作のほか、明末には多数の大砲も鋳造し、漢文著書も清代に『崇禎暦書』を再編した『西洋新法暦書』100巻など、天文書を中心に30余編ある。[宮島一彦]
『藪内清著『中国の天文暦法』(1969/増補改訂版・1990・平凡社) ▽榎一雄編『東西文明の交流5 西欧文明と東アジア』(1971・平凡社) ▽陳舜臣編『人物中国の歴史8 落日の大帝国』(1982・集英社/集英社文庫) ▽アドリアン・グレロン著、矢沢利彦訳『東西暦法の対立――清朝初期中国史』(1986・平河出版社) ▽矢沢利彦著『北京四天主堂物語――もう一つの北京案内記』(1987・平河出版社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内のアダム・シャールの言及

【シャール】より

…ドイツのケルン生れのイエズス会宣教師。天文学を学び,1622年(天啓2)に中国に渡った。漢名は湯若望。はじめ西安で布教活動に従事していたが,明末の1629年(崇禎2)に礼部左侍郎の職にあった徐光啓が宣教師の助力を得て,西洋天文学を基礎として改暦を行うため,西洋天文学書の漢訳を計画した。この翌年,シャールは北京に招かれこの事業に参加し,やがてその中心となった。1633年に徐光啓は亡くなったが,その翌年にこの事業は完了し,135巻にのぼる西洋天文学の叢書《崇禎暦書》となった。…

※「アダム・シャール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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