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アフガニスタン史 アフガニスタンし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アフガニスタン史
アフガニスタンし

アフガニスタンは古代よりその地理的条件のため,東西文化交流の中継地として発展したが,他民族の支配を受けることが多かった。前5世紀頃アケメネス朝の支配下に入り,前4世紀,アレクサンドロス3世 (大王) 遠征後,ギリシア人によるバクトリア王国が成立,ギリシア文化が伝播した。1世紀に土着イラン系のクシャン朝が成立し,仏教の影響を受けたガンダーラ美術が発展した。その後ササン朝に従属し,またエフタルの侵入があった。 642年ササン朝が滅亡し,アラブの支配下に入り,イスラム化が進行した。9世紀,サッファール朝,サーマン朝のもとに,イランの政治的復興がこの地において展開されたが,やがてトルコ系のガズニー朝,セルジューク朝,ホラズム・シャー朝の勢力下におかれた。しかし,この時期,土着アフガン系諸部族はゴール朝を樹立,北部インドにまで進出した。 1212年にはチンギス・ハンの侵入を受け,モンゴルの支配下に入ったが,アフガニスタンは,アフガン系のカルト朝のもとに実質上独立した政権を維持した。 1383/4年以降,チムール朝,次いでサファビー朝の支配下に入ったが,1747年ナーディル・シャーが暗殺されると,アフマッド・シャー・ドゥラーニーがアフガニスタン全土を平定して王位につき,初めてアフガン人の政治的独立を達成した。アフマッド・シャーのあとその子チムール・シャーが王位を継いだが,死後,王位継承の争いの末,バーラクザーイー朝のドースト・ムハンマドが王位についた。 19世紀に入るとロシアとインドにおけるイギリス勢力にはさまれて,第1次アフガン戦争が起き,ドースト・ムハンマドは一時退位したがやがて復位し,親英的態度をとった。しかし彼の子シェール・アリーはロシアと結んだため,第2次アフガン戦争となった。その後シェール・アリーの子ムハンマド・ヤークーブは退位し,アブドゥル・ラフマーンが王位についたのち没すると,ハビーブッラーは年金の代りに外交権をイギリスに委譲し,イギリスの保護国となった。 1919年ハビーブッラーが暗殺されるとアマーヌッラーはイギリスに対して第3次アフガン戦争を起したが,ラワルピンディー条約により休戦し,正式に独立が認められた。そしてザーヒル・シャー (在位 1933~73) の長期にわたる統治下,パクトニスタン問題やパキスタンとの国境紛争が起ったが,立憲君主制の確立や近代化が推進された。しかし,ザーヒル・シャーの独裁体制には不満も多く,73年7月一族のダーウド・カーンのクーデターによって王制が廃止され,共和制となった。さらに 78年4月 27日,親ソ派軍部のクーデターが成功。 30日,国名をアフガニスタン民主共和国とし,ヌール・ムハンマド・タラキーを議長とする革命評議会が実権を掌握するにいたった。 79年 12月にはソ連の軍事介入によりバブラク・カールマルが革命評議会議長に就任。ソ連の進駐とともに政府とソ連軍に対するゲリラ戦が全土に拡大。 87年9月カールマルは失脚し,後任にムハンマド・ナジブラが就任した。 89年 12月国際的な非難を受けたソ連は軍を撤退させ,92年反政府ゲリラが政権を掌握。しかし,ゲリラ同士の権力闘争は絶えず,イスラム原理主義組織タリバンの台頭を許し,96年のタリバンのカブール制圧以降,国土の大半が支配下におかれた。 2001年9月アメリカ同時テロが起り,アメリカ,イギリス軍の報復攻撃を受けたため,12月にタリバン政権は崩壊。その後,国際社会の協力のもとアフガニスタン暫定行政機構が発足した。

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