ホラズムシャー朝(読み)ホラズムシャーちょう(英語表記)Khwārazm Shāh

改訂新版 世界大百科事典 「ホラズムシャー朝」の意味・わかりやすい解説

ホラズム・シャー朝 (ホラズムシャーちょう)
Khwārazm Shāh

アム・ダリヤ下流域のホラズム地方を中心とした王朝。1077-1231年。フワーリズム・シャー朝とも呼ばれる。この地方では,アラブの侵入以前から,ホラズム・シャーと称するイラン系の支配者があり,その後のサーマーン朝ガズナ朝系の地方政権も,ホラズム・シャー朝の名で呼ばれた。しかし,狭義のホラズム・シャー朝とは,セルジューク朝のトルコ人マムルーク,アヌーシュティギーンが1077年にホラズムの軍政府総督シャフナ)に任命されたことに始まる。その子クトゥブ・アッディーンはホラズム・シャーを名のり,3代目のアトスズにいたって完全に独立した。第7代のアラー・アッディーンムハンマド在位1200-20)時代が最盛期で,ゴール朝を滅ぼしカラ・キタイを破って,版図はフェルガナからマクラーンにまで達した。交通路の要衝を占め,交易によって繁栄し,ホラズム商人の活動も南ロシア,ドナウ河口にまで及んだ。しかし,その末期にはモンゴルの侵入を受け,その子ジャラール・アッディーンの奮戦も空しく,1231年に滅亡した。

 この王朝のもとではホラズム地方の住民のトルコ化がいっそう進行し,その一方では,ペルシア文学や,アラビア語によるイスラム諸学の研究中心地でもあった。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ホラズムシャー朝」の解説

ホラズム・シャー朝(ホラズム・シャーちょう)
Khwārazm Shāh

1077~1231

セルジューク朝のトルコ人マムルークのアヌシュ・テギンが,アム川下流のホラズム地方の総督に任命されたときに始まる。その後セルジューク朝から独立,イラン,アフガニスタンに進出した。第7代アラー・ウッディーンの晩年にモンゴルの侵攻を受け,その子ジャラールッディーンの王朝再興の企ても空しく,その死により滅亡した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ホラズムシャー朝」の意味・わかりやすい解説

ホラズム・シャー朝
ホラズム・シャーちょう
Khorezm-Shāh; Khwārezm- Shāh

セルジューク朝のホラズムの太守アヌシュ・テギン (在位 1077~97) の子孫が樹立した中央アジアの王朝 (1077~1231) 。ホラズム・シャーとは「ホラズム王」の意。フワーリズム・シャー朝ともいう。ジャラール・ウッディーンのとき,チンギス・ハン (成吉思汗) に滅ぼされた。

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世界大百科事典(旧版)内のホラズムシャー朝の言及

【アヌーシュティギーン】より

…ホラズム・シャー朝の創設者。アフガニスタンの北部の出身。…

【ウルゲンチ】より

…中央アジア,ウズベキスタン共和国の都市で,アム・ダリヤ下流左岸に位置し,中世ホラズム地方の中心地であった。紀元前から存在したオアシスであるが,12世紀末ホラズム・シャー朝の首都となって最盛期を迎えた。イランと北方草原地帯との交易の中継地であったため,繁栄と同時にモンゴルをはじめ周辺諸勢力の侵攻を受けることも多く,数度の破壊と場所を移動した再建がくりかえされた。…

【ゴール朝】より

…彼は,北インドにアイバクほか有力な部将を置き支配を固めようとしたが,1206年,ラホールからガズナに帰る途中で暗殺された。以降王朝は急激に衰退し,ホラズム・シャー朝に征服された。【小名 康之】。…

※「ホラズムシャー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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