アラビア医学(読み)アラビアいがく

改訂新版 世界大百科事典 「アラビア医学」の意味・わかりやすい解説

アラビア医学 (アラビアいがく)

中世のイスラム世界で行われた医学のことで,西アジアから中央アジア,インド,北アフリカ,イベリア半島にまで広がった。アラビア医学という呼称は,その文献がほとんどアラビア語で書かれているためであるが,その担い手は,アラブ人やイスラム教徒に限らない。7世紀にイスラムの興る以前に,アラビア半島で最もはびこった病気はマラリア,結核,トラコーマ,結膜炎,アメーバ赤痢天然痘,癩(ハンセン病),種々の寄生虫による病気,くる病,壊血病その他であり,眼病による失明者の多かったことも,眼疾を意味する言葉の多様さからうかがえる。これらに対する治療法は概して幼稚であった。コーランの中に医術に関する部分も若干あり,また預言者ムハンマドの言行録ハディース)の中に医学に関する部分がかなりあるところから,《預言者の医術》という本も書かれている。これらの中には現代医学の知識から見ても合理的なものもあるし,いわゆる民間療法の域を出ないものもある。

 イスラムが興り,アラブによる大征服が行われた7世紀ころ,カリフ政権下に入った広大な地域で医学の一大中心地となっていたのはエジプトアレクサンドリアと,もとササン朝ペルシア領内にあったフージスターン州のジュンディーシャープールJundīshāpūrとであった。これらはみなヒッポクラテスやアリストテレス,ガレノスその他の流れをひくギリシアの合理的医学の上に立つ学派であったが,イスラム帝国の支配階級たるアラブは,これら先進の医学を尊重し,人種,宗教の差別を問わず,ユダヤ教徒,キリスト教徒ゾロアスター教徒,サービア教徒などの医者を登用し,また若干のインドの医者などをも,その宮廷に招いた。それゆえにウマイヤ朝(661-750)のカリフたちや貴族,大官たちもこれら異教の医者たちを侍医に用いたが,そのことは次のアッバース朝(750-1258)時代に入っても同様であった。ことにジュンディーシャープールの医学校や病院からバグダードの宮廷に迎えられるものが多かった。第2代カリフのマンスールの侍医となったジュンディーシャープールの病院長ジュルジースJurjīsは名門ブフトイーシューBukhtīshū`家の人でネストリウス派のキリスト教徒であり,第5代のハールーン・アッラシードの侍医イブン・マーサワイフも同じくジュンディーシャープール出身のキリスト教徒であった。

 ギリシアの医者たちの古典的医学書の翻訳はウマイヤ朝時代に始まったらしいというが,本格的に行われたのはアッバース朝になってからで,ことに第7代カリフ,マームーン(在位813-833)の時代から活発になった。このカリフはバグダードにバイト・アルヒクマ(〈知恵の家〉の意)を建て,文献や学者たちを集めてギリシア語文献の訳業を推し進めた。そのころシリアの学者たちの中にギリシア語に精通したものが多かったので,ギリシア語からまずシリア語に訳し,つぎにアラビア語に訳した文献も多かった。この事業は少なくも第10代ムタワッキル(在位847-861)の時代までは盛んに行われたが,最も目覚ましい業績をあげたのは,イラクのヒーラ生れのフナイン・ブン・イスハーク(808-873)とその一派であった。一方,インドの医書もサンスクリット語から直接に,または中世ペルシア語(パフラビー語)訳からアラビア語に訳出されたものがあった。たとえば《チャラカ・サンヒター》という医学全書は,ペルシア語訳からアラビア語に重訳されたし,400年ころのスシュルタの《スシュルタ・サンヒター》はインドの医者マンカによって,アッバース朝の初期にアラビア語に訳されたが,同じマンカは《シャーナークShānāqの毒物書》をも訳した。シャーナークはマウリヤ王朝のチャンドラグプタ王の大臣チャーナキヤ(カウティリヤ)のことで,前4世紀の人であったという。

 以上のような翻訳時代を基礎として,9世紀に入ると早くもイスラム教徒の中から傑出した医学者たちが現れるようになった。それらのうちの若干の例を挙げると,アリー・ブン・ラッバン・アッタバリー`Alī b.Rabban al-Ṭabarī(810ころ-?)は中央アジアのメルブで生まれ《知恵の楽園Kitāb firdaws al-ḥikma》というアラビア語による最初の医学概論を著した。主としてヒッポクラテス,アリストテレス,ガレノスなどギリシア医人の説をシリア語訳から取捨しているが,付録にインドの医学者たちの説を紹介し,二つの医学体系の総合を試みている。ユーハンナー・ブン・マーサワイフYūḥannā b.Māsawayh(777ころ-857)はマームーンからムタワッキルまで歴代カリフの侍医として盛名があり,かつてフナイン・ブン・イスハークの師でもあった。病理学についての大著ほか,いくつかの論文,および132項の医者に対する格言を残した。ラージー(ラテン名はラーゼス)はイランのレイで生まれ,同地およびバグダードの病院長となり,一代の名医とたたえられた。サーマーン朝のマンスールにささげた《マンスールの書Kitāb al-Manṣūrī》はアラビア語医書の古典として,そのラテン語訳はヨーロッパにも広がった。該博な知識を傾け,ギリシア,インド,アラブの諸家の説に自己の臨床経験をも加えた病理,治療に関する大著《包含の書》は彼の没後,編集され23巻の大著となった。イブン・シーナー(ラテン名アビセンナ)は中央アジアのブハラ近郊で生まれ,流離の生活を送ったのち,1038年にイランのハマダーンで没。希世の大学者として業績が多く,ことにその《医学典範》は12世紀にラテン語に訳され,ヨーロッパ各大学でも数世紀にわたり,医学の典範として尊重された。イベリア半島南部(アンダルス)を中心とする西方イスラム世界にも,とくに11~12世紀にかけて,ザフラーウィー,イブン・ズフルイブン・ルシュドその他の大家を輩出した。これらの人々の著書はシチリア,イタリアのサレルノ,スペインのトレドなどをはじめとし,ヨーロッパ各地で教材として取り上げられ,またはラテン語その他の言語に訳されたりして,近代医学の発達を促すとともに,16~17世紀ころまではヨーロッパでもほぼ最高の権威を保った。
アラビア科学 →医学 →インド医学
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アラビア医学」の意味・わかりやすい解説

アラビア医学
アラビアいがく

7世紀にイスラム教が興って広大なイスラム文化圏を形成した時代にそこで行われた医学。その源は古代ギリシアおよびローマ医学で,これにインドおよび中国の医学知識が加わり,錬金術など新しい方法も独自に開発されて,薬物知識の豊富なアラビア医学が形成された。 11世紀末にサレルノ医学校が興隆したことは,アラビア医学と西欧キリスト教医学との結合の道を開き,アラビア語に訳されていた古代ギリシア医学の文献がここで再びラテン語に訳され,その後のヨーロッパの医学の発達に多大な影響を与えるにいたった。今日アラビア医学は,その独創性は認められているものの,古代ギリシア医学を文化遺産として後世に伝えたことのほうで,より評価されている。

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世界大百科事典(旧版)内のアラビア医学の言及

【医学】より

… ここでは主として,ヨーロッパと日本の医学の歴史について述べる。インド,アラビア,中国の医学の歴史については,それぞれ〈インド医学〉〈アラビア医学〉〈中国医学〉の各項目を参照されたい。
【古代の医学】
 文明の発祥地とされているティグリス川,ユーフラテス川,ナイル川など,いずれの地域における古代国家においても,医療は,かなり重要な技術とされ,国家によって制度化され,国家宗教や支配階層の信ずる呪術と結びついていた。…

※「アラビア医学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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