アルキペンコ(読み)あるきぺんこ(英語表記)Alexander Porfirowiz Archipenko

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アルキペンコ」の意味・わかりやすい解説

アルキペンコ
あるきぺんこ
Alexander Porfirowiz Archipenko
(1887―1964)

ロシアキエフ(現、ウクライナ領キーウ)に生まれアメリカに帰化した彫刻家アーキペンコとも表記される。キエフとモスクワ美術学校で学んだのち、1908年パリに出て、古代エジプトやアフリカの彫刻を学ぶ。キュビスムの画家たちとの親交契機に、いち早くその理念を彫刻に導入し、キュビスム彫刻の創始者の一人となった。『メドラノ・サーカス』(1912)をはじめ、ガラス、木、布など多様な素材と大胆な色彩を駆使した「絵画―彫刻」を制作し、また凹面や虚の空間部分を彫刻のなかに取り入れて、それにマッス(量塊)の部分と同等の意味を与えるなど、空間の扱い方に関して興味深い探求をみせた。1921年ベルリン移り、1923年渡米。以後ワシントン大学シカゴのニュー・バウハウスをはじめ各地の大学で教鞭(きょうべん)をとるとともに、シカゴやニューヨークに学校を開き、「アーキペンチューラ」とよぶ動く絵画を制作した。また1946年ごろからはアクリル電光を使う新しい彫刻を手がけた。1964年2月26日ニューヨークで没。

[千葉成夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「アルキペンコ」の意味・わかりやすい解説

アルキペンコ
Alexander Archipenko
生没年:1887-1964

フランス,アメリカで活躍したロシア出身のキュビスムの彫刻家。生地キエフで絵画と彫刻を学び,1908年にパリに出る。12年に〈セクシヨン・ドールsection d'or〉展に参加し,キュビスムの造形手法の彫刻への応用を開始する。《メドラノⅡ》(1914)のような作品では絵画と彫刻の融合を試みたが,その後の作品では,人体の凸部を故意にへこませるなど,有と無の概念の逆転によって,従来の彫刻における空間のとらえ方を打破している。23年にアメリカに渡り,のち帰化。35-36年にシアトルのワシントン大学で教鞭を執った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アルキペンコ」の意味・わかりやすい解説

アルキペンコ
Archipenko, Alexander

[生]1887.5.30. キエフ
[没]1964.2.25. ニューヨーク
ロシア生れのアメリカの彫刻家。 1902~05年キエフの美術学校に学ぶ。 08年パリに出てピカソやブラックのキュビスムの影響を受け,それを彫刻で実践した。 1910年代,原始彫刻への関心から形態の単純化を進め,空洞のある人体像,彩色彫刻,異質な素材を組合せた作品を次々に発表し,20世紀彫刻の先駆となる。 12年セクシオン・ドールに出品,13年アーモリー・ショーに展示。短期間ベルリンに滞在,23年渡米し,28年アメリカに帰化。パリ,ベルリン,ニューヨーク,ロサンゼルスなどに学校を開き,美術教育家としても功績を残す。代表作『メドラノ II』 (グッゲンハイム美術館) 。

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百科事典マイペディア 「アルキペンコ」の意味・わかりやすい解説

アルキペンコ

米国の彫刻家。英語読みで〈アーキペンコ〉とも。ロシアのキエフ生れ。キエフの美術学校で学んだのち,1911年パリに出,キュビストたちと交わる。空虚・空間をマッスと対等に扱い,凹面の造形による有と無の逆転を試みた。1913年ベルリンに移り,さらに米国に帰化,シカゴの新バウハウスその他で教えた。
→関連項目ガボ

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