翻訳|Los Angeles
アメリカ合衆国カリフォルニア州南西部,太平洋に面する大都市。ロス・アンジェルスとも表記される。市内人口385万(2004)を数え,ニューヨークに次いで合衆国第2の大都市である。周辺諸都市を含めた大都市域は通例グレーター・ロサンゼルスと呼ばれ,面積1万0567km2で日本の関東平野にも匹敵するほどの広がりをみせ,人口905万(1992)を擁し,1963年以来ニューヨーク・メトロポリタン地域に次ぐ地位を占めている。
ロサンゼルスの生活を特徴づけているものは徹底した自動車文明である。1940年代には飛躍的発展の契機となるフリーウェー(高速道路)の建設が始まり,北のパサデナとダウンタウンを結ぶ最初のルート以後現在までに10以上のルートがメトロポリタン地域を縦横に走っている。500万台以上の車,すなわち1.4人に1台の割合で車が保有されている(1980)。そのため公共輸送機関は未発達で,高架鉄道,地下鉄はなく,バスのサービスもよくない。車の排気ガスのためスモッグもひどく,光化学スモッグも43年ごろから起こっている。
ロサンゼルスの発祥は小さな農村であった。1781年スペイン人ネベFelipe de Neve総督がメキシコから開拓民の一団を率いて,現在のダウンタウンのオルベラ街あたりを中心に小さな村落を建設したのが起りである。これより12年前,モンテレー湾を目ざしていたポルトラGaspar de Portoláがここに立ち寄ったときに,近くを流れていた川を〈聖母マリア(ポルシウンクラの天使たちの女王)の川Río de Nuestra Señora la Reina de Los Ángeles de Porciúncula〉と名づけていたので,ネベはその村を略してロス・アンヘレスと呼び,これがのちに英語風に発音されるようになった。メキシコがスペインから独立した1821年にロサンゼルスはメキシコ統治下に入ったが,米墨戦争(1846-48)の結果,アメリカ合衆国に帰属した。50年市制が施行されたとき人口はわずか1610人だった。しかし19世紀後半になって合衆国全域に鉄道網が発達し,ロサンゼルスは76年にサンフランシスコ,85年にシカゴと結ばれ,かんきつ類などが東部へ輸送されるようになった。このころ,市の北にパサデナ,バーバンク,西にサンタ・モニカ,南にロング・ビーチなどの独立した諸都市が成立し,現在のメトロポリタン地域の基礎が成立した。
20世紀に入り,かんきつ類,穀物,野菜の生産や牧畜などの農業はいっそうの発展を続けたが,同時に種々の産業の勃興,発展がみられた。1920年代に市郊外のハンティントン・ビーチ,シグナル・ヒルなどで油田が発見され,石油採掘,精製に関連する工業が栄えた。ダグラス社とロッキード社が航空機産業に先鞭をつけ,25年にはサン・ディエゴと定期航路が開設された。自動車の組立てのほか,タイヤ,チューブの製造も行われた。ダウンタウンから西へ車で1時間ぐらいのところにあるハリウッドは,戸外撮影に適した気候を生かして,映画産業の中心地となった。平均気温が夏21℃,冬14℃で5月から10月の間はほとんど雨が降らず,《南カリフォルニアにはけっして雨は降らない》という曲があるほどである。こうした恵まれた気候と鉄道,自動車の普及に伴い,観光客を相手にしたビジネスも活況を呈した。またサン・ペドロ港を市に編入し海運業も盛んになった。このような産業の発展に伴って半砂漠地帯にあるロサンゼルスは飲料,工業用水を確保することが緊要な問題であった。そのために1913年にシエラ・ネバダ山脈の東を流れるオーエンズ川と市を結ぶ水路が建設され,36年にはコロラド川から水の供給が始められた。
第2次大戦はロサンゼルスの発展に決定的影響を与えた。戦争を境に政府の発注する戦時物資の需要に応ずるため各種製造業が近代化され,生産が飛躍的に増大した。とくに航空機の生産では全国的中心地としての地位を確立した。戦後も繁栄は継続し,1900年に約10万人だった人口が,50年には197万人を超し,60年には248万人を記録した。ウィルシャー大通りに沿って繁華街は西の方へ拡散し,華麗なショッピングセンターで有名なセンチュリー・シティCentury Cityが生まれた。1957年に地震対策のための建築物の高度制限が撤廃されたのち,ダウンタウンを中心に再開発が進められ,ミシシッピ川以西の商工業,金融の中心地としての威容を整えた。57年のスプートニク・ショック後は宇宙産業が政府との契約で活況を呈し,電子機器,機械などの製造のほか,海運業も太平洋岸第1の貨物取扱高を示している。1940年代から50年代にかけては,サン・フェルナンド・バレー(現在,市内人口の約3分の1にあたる100万人が居住する)などで,庭つき一戸建て住宅が建ち並ぶ大規模な宅地開発が進められたが,60年代からは地価高騰によって住宅不足が生じ,集合住宅の建設が多くなった。94年,市北部を襲ったロサンゼルス地震(マグニチュード6.8)は甚大な被害をもたらし,現代の巨大都市のもろさがあらわにされた。
文化面では,ハリウッドを抱え,またテレビ,音楽産業の中心として文化施設も発達しており,近年はニューヨークと並ぶ芸術家の拠点として注目されている。また,ロサンゼルス最大の州立学校であるカリフォルニア大学ロサンゼルス校(略称UCLA。1919設置)をはじめ,多くの大学がある。
ロサンゼルスは多人種社会で,白人,黒人のほか英語を母国語としないメキシコ系,アジア系アメリカ人などが居住している。白人はユダヤ系がメトロポリタン地域で60万にも達し,ニューヨークに次いで多い。彼らは映画,服飾産業で影響力をもち,近年は商業,建築業にも進出している。黒人は第2次大戦前は約6万5000人であったが,戦時中に職を求めて流入し,1980年代初めには黒人の人口比率は市全体の18%を占めるまでに増加した(その後,スペイン語系のヒスパニックの増加などにより1990年代には13.2%)。ニューヨークなどと比べると比率は低いが,彼らが直面している貧困,人種差別,失業,犯罪などの問題はいずれも深刻である。1965年夏,市南部のワッツ地区で勃発した暴動は彼らの絶望感の裏返しであり,6日間に34人が殺され(うち31人が黒人),放火・略奪などの被害額は4億ドルにも達した。69年に黒人が市長に選出されたが,生活条件の改善の歩みは鈍く,失業率は白人の1.5~2倍で年収は約60%にすぎない。スペイン語を話すマイノリティ・グループは80年代初めにメトロポリタン地域に170万ぐらいおり,そのうち約80%がメキシコ系だという。彼らは母国以外で最大のメキシコ人社会を市東部のボイル・ハイツやイースト・ロサンゼルスに形成している。カトリックを信じ,教育程度は概して低く,英語を学ぶのが遅いといわれている。肉体労働者や工場労働者が多く,白人の年収の約3分の2である。60年代に黒人の自己主張に刺激されてみずからを〈チカノ〉と称しているが,その後,チカノも含むスペイン語系の〈ヒスパニック〉は激増し,1990年には市人口の4割近くを占めるに至った。日系アメリカ人は現在では最も成功した少数派人種といえる。第2次大戦中は敵性外国人のレッテルをはられマンザナーManzanar収容所などに抑留されたが,戦後,日系社会は目覚ましく復興した。約12万人がメトロポリタン全域に分散して生活しているが,一世が築いた〈リトル・トーキョー〉をしのぐショッピングセンターなどがガーディナGardenaに建設され,日本文化を教える教養講座も開かれていて,日系アメリカ人の社会活動の一つの中心となっている。一,二世は農業労働者,庭師が多いが,三世らは高等教育を受け,弁護士,技師などの専門職にも進出している。このような成功した日系人社会を,ニューヨークのユダヤ人社会のミニチュア版だと評する人もいる。そのほかのアジア系アメリカ人には,チャイナタウンを中心に生活している中国人,近年ロサンゼルスへの移住が目だつ韓国人,医師・看護婦の資格をもって移住してくるフィリピン人などがおり,90年にはアジア・太平洋諸島系の市民は市人口の1割弱を占めている。92年4月にサウス・セントラル地区(ヒスパニックや黒人が集住)で韓国系住民の商店などが襲われたロサンゼルス暴動が,1965年のワッツ暴動とは異なる様相を呈したのは,このような状況を反映している。
ロサンゼルスは最近仕事を求めて人口の流入が続いているいわゆるサン・ベルト地帯の西端の拠点として今後も発展を続けるであろう。しかし同時に21世紀には黒人,ヒスパニックなどが多数派を占めるという予測もあり,多人種社会のもつ困難な問題とメトロポリタン地域が広大であるという特殊性に今後どのように対応していくかが重要な課題となろう。
執筆者:林 義勝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
アメリカ合衆国、カリフォルニア州南部の商工業都市。太平洋岸に位置し、ニューヨークに次いで同国の商工業を代表する都市の一つである。人口369万4820(2000)。ロング・ビーチ、アナハイムなどを含む大都市圏人口は1637万3645(2000)に達し、ともにニューヨークに次いで全米第2位である。西は太平洋、北はサンタ・モニカ山脈、東はサン・ガブリエル山脈、南はサン・ペドロ湾にそれぞれ面し、標高は0~850メートルまでの適度な起伏をもち、小盆地の連続する平坦(へいたん)地に街が展開する。気候は、1年の晴天日数が325日にも達する典型的な地中海式で、この恵まれた風土が同市の今日の繁栄を招いたといえる。
[伊藤達雄]
同市は全米一の工業地帯の中心である。その主柱は航空機、通信機、コンピュータ、自動車などで、とくに航空宇宙産業はロッキード・マーチン、マクダネル・ダグラス、ノースロップ・グラマン、ヒューズ、ノース・アメリカンなどの各社の主力工場・研究所が立地しており、防衛用軍事の支出でも全米一である。シンク・タンクとして名高いランド・コーポレーションなどの頭脳産業も多く、電子系の先端産業は北カリフォルニアのシリコンバレーには及ばないが、ニュー・イングランドと肩を並べている。ほかにも繊維、金属、石油関連、化学、食品、印刷など多様である。これら製品の流通の窓口となっているのが、サン・ペドロ湾に面するロング・ビーチ港とロサンゼルス港で、両港を合計すると全米第5位の取扱量になり、太平洋岸では最大である。ともに太平洋経済圏と密接な関係をもち、漁港、軍港としても重要である。
一方、1908年からハリウッドを中心に始まった映画産業もわずかの間に急成長した。晴天の多い乾燥した気候と変化に富んだ風景がフィルム産業と映画撮影に適しており、最盛期の1930~1940年代にはメトロ・ゴールドウィンメーヤー、ワーナー・ブラザーズ、20世紀フォックス、パラマウント、コロンビア、ユニバーサルなどの巨大映画会社が年間400本もの映画を制作して、ロサンゼルスの名を世界に広めた。テレビの出現後は映画の観客数が激減したが、ハリウッドはテレビ用映画の制作に転向し、現在もこの分野で世界の中心にある。また、同市は降雨の少ない半砂漠の気候のため、水資源が深刻な問題であったが、1936年にコロラド水系総合開発計画の一環としてフーバー・ダムが完成し、コロラド水道が敷かれてからはいちおうの解決をみた。こうしてロサンゼルスのイメージは一変し、大量の人口が流入し、1950年には早くも200万に達し、全米第4位の大都市となった。
[伊藤達雄]
航空交通でも重要な地位にあり、ロサンゼルス国際空港とロング・ビーチ空港の離着陸回数の合計では、世界でもっとも多忙な空港といわれるシカゴのオヘア国際空港を上回る。
また、同市は自動車なしには生活できない、自動車時代のアメリカを代表する都市として有名である。1940年にはアメリカで最初の都市高速道路パサディナ・フリーウェーが開通し、以来、高速道路システムによる新しいタイプの都市をつくってきた。緑の芝生をもつ広大な郊外住宅地の生活様式は、アメリカ人にとっても「カリフォルニアの夢」といわれた。しかし、一方では市街の中心が駐車場と道路に占拠され、それでも朝夕の交通渋滞は解決せず、盆地性の地形は排気ガスによる大気汚染をひどくさせるばかりで、自動車公害の都市としても先駆となった。近年、地下鉄など公共大量輸送機関の必要性が市民の間にも認識されてきているが、あまりにも広大で低密度のため実現をみていない。軌道による市内交通機関のまったくない、希有の大都市である。
[伊藤達雄]
同市はかつてスペイン、メキシコ領であったことから、スペイン系人種や黒人が多く、また、太平洋地域に対する玄関でもあるため東洋系人種も多く、人種問題に原因する事件が後を絶たない。1965年に中心部の南にある黒人地区のワッツ地区で4日間続いた黒人暴動は死者34人、負傷者1034人、逮捕者4000人を出し、全米の耳目を集めた。高級アパートや豪華な店舗、美術館が並び、南カリフォルニアでもっとも優雅な街路といわれるウィルシャー大通りや、ちり一つなくアメリカでもっとも格式の高い街といわれ、観光の対象にもなるビバリー・ヒルズなどとは対照的な世界がそこに現存する。そうした都市問題解決のための努力が、都心地区の再開発などによって徐々にではあるが進んでいる。同市は南カリフォルニアの文化・芸術の中心都市でもある。カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校をはじめとする十余りの主要大学、歴史博物館、美術館などの水準は高い。1974年に完成したミュージック・センターを本拠とするロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団も、アメリカ最高のオーケストラの一つとされている。
[伊藤達雄]
1769年、スペイン軍人ガスパー・デ・ポルトラGaspar de Portolà(1723ころ―1784ころ)の一行は、今日のロサンゼルス付近のインディアン集落地に到着し、ロス・アンヘルス(天使の村)と名づけた。1781年、スペイン帝国カリフォルニア総督フェリペ・デ・ネーベは入植者を送り込み、公式の領土とした。1822年メキシコ領となり、1835年メキシコ議会はロサンゼルスをカリフォルニアの首都と宣言した。1846年、提督チャールズ・フリーモントに率いられたアメリカ合衆国軍隊により占領された。その後、住民の蜂起(ほうき)により奪回されるが、ふたたび将軍ケアリーにより占領された。1885年にサザン・パシフィック鉄道とサンタ・フェ鉄道が接続され、東部との交流が発展し、人口も急増した。1903年にはサン・ペドロ港が完成し、南カリフォルニアの主要な貿易港となり、石油の開発は経済発展を促進することとなった。
[庄司啓一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…オリンピック大会では,20年の第7回アントワープ大会の会場に初めて掲揚され,そのときベルギー・オリンピック委員会が作製してIOCに寄贈した旗は,オリンピック大会のシンボルとして開催都市に順次引き継がれている。36年ロサンゼルスからベルリンへ渡された旗は,戦後ベルリンのドイツ国立銀行焼け跡の地下室で発見され,48年ロンドンで開催の第14回大会に無事な姿を現した。また冬季大会の旗は,52年にオスロ市が寄贈したものである。…
…アメリカ映画製作の中心地。ロサンゼルスの一地区で中心から北西約13kmに位置する。
[名称の由来と前史]
1870年代に自作農場入植者たちが定住しはじめたころはまだハリウッドという名称はなく,86年にこの地の大きな農場へ隠退したカンザス・シティの不動産業者ホレス・H.ウィルコックス夫妻が,カリフォルニアではholly(セイヨウヒイラギ)が育たないにもかかわらず,シカゴにいる友人の別荘の名まえをかりて農場を〈ひいらぎ(holly)の森(wood)〉,すなわち〈ハリウッド〉と名づけたという伝説的な命名の由来がある(ハリウッドを日本語で〈聖林〉と書いたのはhollyとholyを混同した誤訳だったらしいが,おもしろいことに,フランスでもマルセル・レルビエがHollywoodをBois Sacré(聖林)と訳して紹介している)。…
※「ロサンゼルス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新