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イコノクラスム イコノクラスムIconoclasm

翻訳|Iconoclasm

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イコノクラスム
Iconoclasm

聖像破壊運動。ギリシア語のエイコン (聖像) とクラオー (破壊する) に由来する。宗教のうちのあるものは,たとえば「神」のような信仰の対象が,あらゆる人間的認識能力を超えた絶対的超越であることを強調する。そのため,神が感覚的認識の対象となるような画像によって表現されることはありえず,またあえてこれを行うことは涜神的行為であるとする。このような考えから自他の宗教,宗派における聖像の破壊,禁止に出ることがしばしばある。ユダヤ教ではこの傾向が強く (旧約聖書『出エジプト記』におけるモーセの十戒の第二戒,あるいは「金の犢」の破壊の物語など) ,イスラムにおいても同様である。仏教,キリスト教は聖像を用いるが,初期仏教芸術のなかには明らかに釈迦を人間像として表わすことを拒否する伝統があった。キリスト教のなかにも聖像忌避の伝統は強く,726~864年のビザンチン帝国におけるイコノクラスムは政治,文化両面に重大な結果をもたらした (→聖画像論争 ) 。 1566年のオランダにおけるカルバン派信徒のカトリック聖像破壊と同様であるが,フランス革命の際のイコノクラスムは啓蒙主義に基づいて迷信打破を唱えた急進的合理主義によって行われた。

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百科事典マイペディアの解説

イコノクラスム

聖画像(イコン)の破壊を意味し,イコンの礼拝を認めないという思想。726年ビザンティン皇帝レオ3世が教会・修道院のキリスト像を撤去,730年勅令(偶像破壊令)を発した。
→関連項目偶像崇拝ビザンティン帝国

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世界大百科事典 第2版の解説

イコノクラスム【iconoclasme[フランス]】

字義的に,イコンすなわち聖画像の破壊を意味し,イコンの礼拝のみならず,その制作をも許されないとみなす思想。726‐787年,815‐843年,ビザンティン皇帝たちによって国家の宗教政策とされ,この帝国における国家と教会との独特の関係を背景に(皇帝教皇主義),その経過で宗教以外の領域をも巻き込んで,歴史的大事件となったばかりでなく,その余波は遠くカロリング朝フランク王国にまで及んだ。 レオ3世が726年,当時特別尊崇をあつめていたコンスタンティノープルのハルコプラテイア地区のキリスト像を撤去させ,730年勅令(偶像破壊令)をもってイコンは偶像だとしてその礼拝を禁止した背景には,ウマイヤ朝カリフ,ヤジード2世(在位720‐724)の同趣旨の法令発布や,ユダヤ教,キリスト教異端パウルス派における,キリスト教徒を偶像崇拝主義者だとする批判の声のほか,キリスト教内部における長い論議があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イコノクラスム
いこのくらすむ
Iconoclasm

聖像破壊運動。イコン崇敬の是非をめぐって、8~9世紀のビザンティン帝国で繰り広げられた社会運動。イサウリア朝の皇帝レオン3世は、かねてイコン崇敬の行き過ぎを憂えていたが、一部の教会関係者の進言もあって、726年、宮殿の門から大イコンの撤去を命じた。これがイコノクラスムの発端で、その底流には、画像表現に対しヘレニズム的寛容さを持ち合わせない小アジア、アルメニア地方の反ヘレニズム感情があった。そして小アジア出身者の多かった軍隊が、この運動の推進者となった。それまで聖像とされていたものを一転して偶像扱いすることには抵抗も強く、ギリシア、シチリア、南イタリアなどでは反乱も起こった。レオン3世は730年の勅令でイコノクラスムを徹底させ、コンスタンティノープル総主教をイコン破壊派に切り換えた。それを批判したローマ教会に対しては、帝国西部におけるローマ教皇の管轄権を取り上げた。これは東西両教会分離の遠因となった。
 レオン3世を継いだ息子のコンスタンティノス5世は、754年のヒエリア主教会議でイコノクラスムに神学的根拠を与え、762年よりイコン擁護派、とくに修道士に対する迫害を始めた。その意味でイコノクラスムは、肥大化した修道院勢力に対する闘争の様相をみせた。ただ、イコン破壊が徹底して行われたのは、首都コンスタンティノープルと小アジアを中心とする帝国の東部で、ギリシア、シチリア、エーゲ海諸島、南イタリアなどでは徹底せず、とくに南イタリアはイコン擁護派の避難所となった。イスラム・カリフ王朝支配下のエジプトとシリアでは、イコノクラスムは行われなかった。
 皇帝レオン4世の没後、皇妃イレーネが787年ニカイアで第7回公会議を開催し、イコン崇敬を公式に宣言し、第1期のイコノクラスムは終結した。しかし、帝国の政治情勢は混乱を続け、813年に登位したレオン5世は、軍隊の意向を無視できず、ふたたびイコノクラスムが始まった。しかし第2期は長続きせず、首都のストゥディオス修道院を中心とする修道院側の抵抗も強かった。そして皇帝テオフィロスの没後、皇妃テオドラが843年に開いた主教会議で、イコン崇敬の復活が公式に宣言された。イコノクラスムは、信仰の問題が皇帝主導の社会運動になった点が特徴で、政治的には皇帝権と教権の関係が問題となり、教義のうえではイコン崇敬が確立された。[森安達也]

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世界大百科事典内のイコノクラスムの言及

【イコン】より

…一方,6世紀エジプトのコプト教会に属する,より非現実的な抽象性の濃いイコンの存在も知られ,イコン成立の経緯の複雑さがうかがえる。8世紀から9世紀にかけてビザンティン帝国を揺るがせたイコノクラスム(聖像破壊)の渦中に,既存の作例の多くが失われたが,危機を克服した聖像擁護派はイコンに明確な神学的論拠を与えることになった。イコンはそれを拝する者の心を不可視の原像,神の本質へ導くものと規定されたのである。…

【オランダ共和国】より

…66年,数百名の中小貴族がブリュッセルに集まって盟約を結び,執政パルマ公妃マルガレータに面会して新教禁止の緩和を訴え,乞食団を結成した。また,カルバン派の市民や農民は貴族の援護のもとに野外説教集会を開き,ついに教会や修道院を襲う聖像破壊運動(イコノクラスム)を引き起こした。翌年約1万の軍隊を率いてブリュッセルに到着したスペインの勇将アルバ公は,乞食団やカルバン派を徹底的に弾圧し,騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を行った。…

【オランダ美術】より

… オランダ美術に特有の第2の性格は,彫刻に対する絵画の明白な優位である。この国における彫刻芸術の全般的な不振については,良質の石材の欠如,16世紀後半のカルバン派の聖像破壊運動(イコノクラスム)による甚大な痛手,17世紀以降の共和国体制下における大規模な公共注文の不足など,さまざまな原因が挙げうる。しかし,絵画性の強い浮彫に比して独立彫像の作例が乏しいこと,絵画においても本来すぐれて絵画的,すなわち非彫刻的な性質をもつ風景表現が早くから発達を見せたのに対し,人体表現が目覚ましい成果をあげなかったことを考えると,オランダの国民性そのもののうちに,彫刻よりも絵画の方にはるかに適した特性を認めることも十分可能であろう。…

【キリスト教】より

…しかしそれ以前に,アラビア半島に勃興したイスラム勢力の席巻によってシリア,パレスティナ,エジプトは帝国から失われていた。 単性論派を切り捨てたビザンティン教会は平和を取り戻す間もなく,8~9世紀にイコノクラスム(聖像破壊運動)の試練を受けることになる。これは教会内部からおこり,皇帝レオ3世,その子コンスタンティノス5世などが推進した社会運動である。…

【キリスト教美術】より

…その堕落の根本はやはりキリストを人の形で表現することにある。そのような考えが聖像否定論であり,さらに進んで聖像破壊論となる(イコノクラスム)。とくに東方キリスト教社会(ビザンティン社会)では,8~9世紀に激しい聖像論争が行われ流血の惨をさえ見,多くの図像芸術が破壊された。…

【偶像崇拝】より

…キリスト教でも初期には神像の崇拝の可否についての論議がたたかわされ,8世紀から9世紀にかけてビザンティン帝国において大きな闘争がまきおこり,また宗教改革時代にもこの論議がおこったが,神像の意義を正しく評価することによってこれを認めるのがカトリック教会の立場となっている。 偶像崇拝とか,偶像破壊(イコノクラスム)という神像に対する蔑視的用語は,宗教的対象は何によって最もよく表現されるかという宗教思想を背景に持っている。キリスト教会も他宗教制圧に偶像破壊をうたい,偶像崇拝は異教・邪教の同義語とされ,仏教などをも偶像崇拝と断定している。…

【コンスタンティノス[5世]】より

…在位741‐775年。父レオ3世のイコノクラスム(聖画崇拝禁止策)を本格化する目的で,教皇も他の東方教会の総主教たちも欠席したいわゆる〈頭のない教会会議〉をヒエリアで開催(754),ローマとの関係の悪化をも招いた。対外的にはウマイヤ朝からアッバース朝への転換期にあったイスラム勢力と内紛に揺れるブルガリアを巧みに抑えたが,イタリアのランゴバルド進出は防げず,西欧の橋頭堡ラベンナ総督府を失った。…

【図像】より

…現代ではシュルレアリスムの作家やR.マグリットなどの作品がその好例である。一部の宗教(正統的ユダヤ教,イスラム教,キリスト教ではイコノクラスム時代のビザンティンや急進的プロテスタント諸派など)は,超越的存在に具象的イメージを対応させることを拒否したため,それらの神学的観念や思想体系は,言語あるいは少数の象徴的図式によってしか表現されえない。近年盛んに論じられるようになった建築図像あるいは都市図像は,建築や都市の形態とその機能・観念との対応を問題とするものである。…

【ビザンティン美術】より

… もちろんビザンティン社会においても美術の発展には波があった。初期キリスト教時代からすでに存在した聖像否定論はアリウス派などの神学論などともからんで6世紀ごろから再び力を得,それが8~9世紀にはいわゆる〈イコノクラスム〉となり,そのためにビザンティン美術は一時衰えた。その後マケドニア朝およびコムネノス朝(11~12世紀)に再興する。…

※「イコノクラスム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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