改訂新版 世界大百科事典 「イノシシ」の意味・わかりやすい解説
イノシシ (猪)
wild boar
Sus scrofa
偶蹄目イノシシ科の哺乳類。ヨーロッパイノシシ,ユーラシアイノシシともいわれる。ヨーロッパとアジアに広く分布し,北アメリカには狩猟用に移入されたものが定着している。平地から標高4000mまでの森林や低木林にすむ。ブタの祖先ともいわれている。日本のイノシシはふつう本州,四国,九州のニホンイノシシS.s.leucomystax,奄美大島と沖縄のリュウキュウイノシシS.s.riukiuanusの2亜種に区別されている。
太い胴に短い四肢がついている。体長1.1~1.5m,肩高55~110cm,体重45~300kg。ただし,日本産のイノシシはやや小型で最大でも約190kg。体色は灰褐色から黒色または茶色。剛毛に覆われた体は太く,ずんぐりしており,四肢と首は短い。雄の犬歯は上下顎ともよく発達し,終生のび続ける鋭いきばになっている。嗅覚(きゆうかく)に優れ,イモやキノコなど地中の食物をもにおいで探し出す。夕刻から翌早朝にかけて歩き回る。植物質を中心に,動物質をも食べる雑食性で,堅果,根,茎,穀物などのほか腐肉,鳥卵,トカゲ,昆虫なども食べる。しばしば山ろくのイモ畑,トウモロコシ畑などを襲う。胃のつくりは単純でウシ,シカ類などと異なり,反芻(はんすう)はしない。
イノシシの特徴的な行動に泥浴び(ノタ打ち)がある。泥浴びをする場所はノタ場と呼ばれ,谷筋の一定の場所が繰り返し使われる。そこで体中に泥を塗ったイノシシは次に近くの決まった木に体をこすりつけて泥とともに汚れや外部寄生虫を落とす。この木できばも研ぐので,木には特徴的な跡が残される。四肢が短く,首が太いために四肢による毛づくろいが困難なイノシシにとって,泥浴びは体を清潔に保つための重要な手段でもある。
繁殖期以外は,母親と当歳子からなる家族群,あるいは当歳子が生後6~8週間を過ぎると,それに前年や前々年に生まれた性的に未成熟な若い個体も加わった,数頭から十数頭の母系の群れを形成して生活する。またこのような群れが二,三結合して50頭に達する大群をつくることもある。成熟した雄は単独で生活し,秋から冬にかけての繁殖期は群れの若い雄を追い払って群れに入り,雌に近づき,求愛する。求愛中の雄は多量の唾液(だえき)を流す。雌を巡る雄どうしの戦いはしばしば見られる。戦いにはきばが強力な武器として使われる。雌は114~140日の妊娠期間の後5~6子,ときに12子を生む。雌は出産が迫ると群れを離れ,乾燥したブッシュ内の適当な場所に草を集め,内部に室をつくり,そこで出産する。子は生後5ヵ月までは体に縞模様があり,〈瓜坊(うりぼう)〉と呼ばれる。子どもたちは母親のそれぞれに決まった部位の乳頭から乳を飲む。一般に偶蹄類の産子数は1~2で,イノシシはきわめて多産だといえるが,これは天敵などによる高い乳児死亡率への適応と考えられる。
イノシシは有蹄類中巣をつくる唯一の種で,出産用の巣のほか,雌雄とも地面に浅いくぼみを掘り,草や枯枝を敷いて睡眠用の巣もつくる。天敵はオオカミ,トラなど。日本ではこれらの天敵がいないため,現在でもかなりの数が生息し,山野にいのしし道を維持している。食用,あるいは農作物を荒らす害獣として狩猟の対象とされる。近縁種にはアフリカのイボイノシシPhacochoerus aethiopicus,モリイノシシHylochoerus meinertzhageni,カワイノシシPotamochoerus porcus,バビルサBabyroussa babyrussaなどがあり,アメリカには類縁はやや離れるが形のよく似たペッカリーが生息する。
執筆者:今泉 吉晴
文化史
猪は古代バビロニアやその他のセム文化圏では神聖な獣とされていた。しかし神聖なものとしての不可触性が,汚れたものとしての不可触性に移行し,しかもそれが猪のみならず豚にまで及んだ。そしてそれがユダヤ教およびイスラム教における豚の食用のタブーを生み出した原因である。ゲルマン神話では猪は天国で勇士たちが賞味する食物だということになっている。それはゲルマンの戦士たちが地上で勇壮な猪狩りを常としていたことを反映したものであろう。このゲルマンの遺風がキリスト教時代にももちこされて,イギリスでは比較的最近までクリスマスに猪の肉を食べたという。日本では猪突猛進の武者が猪にたとえられるが,ヨーロッパでもイギリス王リチャード3世が猪にたとえられ,15世紀,フランスの猛将ラマルク伯ギヨームは〈アルデンヌの猪〉というあだ名をもらった。なお,ゲルマンの女神フレイヤは猪にまたがり,さらに摩利支天も猪にうちまたがるとされている。
執筆者:山下 正男
日本民俗
日本では通常猪と書くが,これは中国では家猪,すなわち豚を指すので,漢字を用いる場合には注意を要する。本来の日本語ではその鳴声からヰといったらしく,その痕跡は方言からうかがうことができる。《和名抄》では猪を久佐為奈岐(くさいなぎ)とし,《今昔物語集》などもこの語を用いているが,それは京都の上流社会人が野猪と形態の類似したマミ(アナグマ)との区別を知らなかったからである。《本草綱目訳義》によればマミは京にいなかったとある。それでマミの方言クサイを野猪の名としてしまったのであろう。クサイは東北地方で現在もマミの方言として生きている。
野猪は原始時代から日本列島で狩猟の対象であり,骨やきばが各地の遺跡から出土しているが,その捕獲法は多く落し穴やわなが利用され,または犬を使用して追い出しそのウジ(通路)に待ち伏せ,古くはやり,後には銃を用いてたおした。皮が硬くやぶをくぐり走るので弓矢で射るには適さなかったことは,各地の狩猟形態から推定される。しかし,実際には野猪の行動半径が大きく,においに敏感で警戒心が強いので捕獲は簡単ではなく,銃を持たぬ農民にとっては農作物の大敵としてきらわれた。その方法は,これを追い払うため臭気の強い油や古着,または腐肉などを耕地の周囲におくカガシ,耕地を木柵や土堤,石垣などで囲み野猪の侵入を防ぐシシドテ,シシガキ(鹿垣)が利用された。その築造は比較的新しく,近世に入ってからと考えられるが,大きいものは数十kmに及ぶ長さをもつ。中部地方以西の山ろく部では現在も一部で電気柵などとなって行われている。
猪は肉が美味で獣害防除にもなるため古くから狩猟対象となり,その伝承も庶民の間には広く存在するが,とくにこれを山の神の賜物として感謝する儀礼が各地に存在し,また,この捕獲をもって成年男子としての資格とみなした祝賀の儀礼も存在する。前者に属するものとしては,野猪をたおしたあと,その耳の先端,背筋の怒り毛などを切り取って木の枝にはさみ山の神に供えるケマツリや,内臓の一部(主として肝臓,または心臓),あるいは血を紙に浸したものを山の神にささげるチマツリがある。後者の場合にはきばや下顎骨を射止めた者に与え,また肉や内臓を煮たり焼いたりして酒を買い狩仲間にふるまうのが一般的であった。これを100頭または1000頭とった者は千匹塚を立てることや,白色の猪を山の神の使者として撃つことを忌む伝承も西日本には残っており,解体,分配についての慣行も多い。
執筆者:千葉 徳爾
料理
料理東京付近ならば丹沢,伊豆,秩父,関西ならば京都周辺などをはじめとして,冬になると牡丹(ぼたん)なべの看板をかかげて猪料理を売物にするところは多い。牡丹と呼ぶのは,鹿を紅葉(もみじ)というのと同様,それが〈獅子(しし)〉の縁語であるところからの転用である。縄文時代の遺跡から出土した獣骨のうち,鹿に次いで多いのが猪であることは,捕獲の機会が多かったことと同時に,その肉が日本の野獣の中では鹿とともにもっとも美味であったことも,理由として考えられる。江戸時代後期には山鯨と称して獣肉を売り,また,料理して食べさせる店が多く出現した。山鯨というのは,魚とされていた鯨に擬した獣肉の総称であるが,そうした店の主力商品は猪だった。ネギをいれてなべ煮するのが一般的な食べ方だったが,羽倉外記(簡堂)はその著《饌書(せんしよ)》(1844)の中で,東坡煮(とうばに)にするのがもっともよいと述べている。東坡煮は東坡肉(トンポーロー)ともいい,蘇東坡が好んだという角煮である。
執筆者:鈴木 晋一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報