インドシナ問題(読み)いんどしなもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

インドシナ問題といった特定の問題はないが、戦略的・地政学的・文化的な視点からインドシナ地域を包括的にとらえることはできる。戦略的地位とは、インドシナがアジアの扇の要(かなめ)にあたる位置にあること、地政学的地位とは、中国大陸の南縁にあること、文化的地位とは、インド文明と中国文明との接点にあることをいう。[丸山静雄]

インドシナの範囲

インドシナというと、旧フランス領インドシナ(第二次世界大戦前ないし戦時中、日本では仏印とよばれた)のベトナム、ラオス、カンボジア3国の領域をさす場合と、これにタイ、ミャンマー(ビルマ)を含める場合とがある。ここでは、地政学的には一つの地域として、タイ、ミャンマーを含めて大きくとらえ、政治的、経済的には旧仏印3国を中心に考える。
 インドシナは雲南台地から南東と南に放射状に延びる山系を骨格として形成され、河川も山系の間を南東と南に流れる。山系は高く、濃い密林に覆われ、河川は長い間の侵食作用で深く谷を刻み、河谷は互いに隔絶されて横の連絡を欠く地形となっている。かつて、この地域は「インドの向こう側」「ガンジスを越えたインド」とよばれた。現在のインドシナという呼称は、インドと中国の間に位置するという地理的な意味と、アジアの二大文明であるインド文明と中国文明が初めて互いに接し、交わり、したがって二つの文明ないし文化が共存する地域だという文化的な意味とに由来している。
 インドシナの民族は中国大陸の内奧部から南下してきたもので、泰緬(たいめん)山系(タイ・ビルマ山系)によってタイ、ビルマ(ミャンマー)に分けられ、長山(ちょうざん)山系(安南(あんなん)山系)によってラオス、カンボジアとベトナムに分けられた。長山山系の西側ではインド文化、東側では中国文化の影響が強く、西側では仏教(小乗仏教・上座部(じょうざぶ)仏教)への信仰があつく、東側では儒教、道教、大乗仏教、ヒンドゥー教などが信仰されている。タイには王朝政治、ミャンマーには軍部独裁政治が敷かれ、王朝政治はほぼ安定し、軍部政治は絶えず動揺した。周辺国ではインドネシアとの関係が深い。インドネシアでは、20年にわたる大統領スカルノのパンチャ・シラ政治(神への信仰、民族主義、民主主義、社会正義、人道主義からなる建国五原則の実践を目ざし、民族政党、宗教政党(イスラム)、共産党の合意にたつ政治)、30年に及ぶ大統領スハルトの開発政治(国軍中心、反共、経済開発重視)のあと、1998年から大統領ハビビ、次いで大統領ワヒドによってスハルト政治の軌道修正が試みられ、その過程で1987年、強引に統合した東チモールにも住民投票によって分離独立を認めた。ここでも新体制模索の動きが慌ただしい。
 インドシナ地域には五つの独立国(ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー)があり、総面積は194万平方キロメートル(日本のほぼ5倍)、総人口は1億9900万である(1997)。[丸山静雄]

インドシナの特性

インドシナは三つの特性をもっている。第一は熱帯モンスーンである。モンスーンとは、夏季(ほぼ5月から10月)には海洋から大陸に向かう南西風となり、冬季(ほぼ11月から翌年4月)には大陸から海洋に向かう北東風となる季節風を意味する。季節風のもたらす雨は太陽の恵みが加わってこの地域に稲作を発達させ、稲作を基盤とする文化(稲作文化)を形成させた。モンスーンが生産と文化の形態を決めたともいえる。
 第二の特性は民族と文化の多様性である。ここは「民族の宝庫」「生きた民族博物館」といわれるほどにさまざまの民族が混在し、ミャンマーには30から50、タイには20から30、カンボジアには20余、ラオスには20から30、ベトナムには約50の種族が分布している。文化は土着的な稲作文化(基層文化)のうえに中国文化、インド文化、イスラム文化、キリスト教文化が次々に伝えられ、それらの集積によって重層文化が形づくられた。さまざまの文化が重なってできた複合文化だという意味である。要するに混淆(こんこう)であり、非統一であり、それがインドシナのもつ多様性である。
 第三の特性は国際的地位である。国際的地位とは、太平洋とインド洋、中国大陸とオセアニアとの間の東西交通、南北交通の十字路にあったこと、アジアのほぼ中心にあったこと、中国への出入口にあったことをいう。中国は古来、アジアの歴史のなかで重要な役割を果たしてきたし、第二次世界大戦後も国際政治の一つの大きな焦点となっている。中国の歴史的重みであろう。中国の南端に接していたことは、インドシナの国際的地位を特異なものにした。この地域のもつ豊かな資源はインドシナの戦略的価値をさらに高めた。大国はインドシナに目を向け、絶えず侵略し、あるいは内政に干渉した。それはナショナリズムに火をつけ、激しく燃え上がらせた。ここは東西問題と南北問題の接点にあり、日本との関係も深い。こうした諸条件は、インドシナにおいて紛争、戦争をいかにして終わらせ、平和を回復し、経済建設を行い、地域協力を進めるかについて真剣に考えさせることになった。インドシナほど一つの地域として中立化、非武装化、地域協力などについて、さまざまの提案が相次いでなされている所もあるまい。インドシナのもつ国際的地位が注目されるからであろう。[丸山静雄]

(まきば)」">アジア冷戦の「牧場(まきば)

インドシナ問題という場合、さまざまの見方ができるだろうが、ここでは三つの局面に集約して考えてみることにする。[丸山静雄]
国内問題
第一は、インドシナ地域にある国々の国内問題である。国内問題とは、多種多様の民族からなる多民族国家をどのようにして統合し、民族平等の統一国家をつくりあげるか、健全・公正な経済開発を通して、後れて貧しい人々の生活水準をいかにして引き上げ、格差をなくし、生活と社会を民主化し、近代化するか、歴史、風俗、習慣を異にし、それぞれが独自の価値観をもつような世界にあって、どのようにして民族文化ともいうべき、個性豊かで、かつ包容性のある文化をつくりあげるか、という問題であろう。ナショナリズムと民主主義と社会主義の問題であろう。
 民族統合・国家統一の事業は、ホー・チ・ミン主導の民主共和国(北ベトナム)では1975年4月30日ベトナム南部を解放し、翌76年6月24日から7月2日まで南北統一国会をハノイに開き、一つのベトナム社会主義共和国を樹立することによって達成された。カンボジアでは、1993年5月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視下に総選挙を行って暫定国民政府をつくり、シアヌーク殿下を国王とする統一「カンボジア王国」が樹立された。ラオスでは左派の愛国戦線(パテト・ラオ)が支配権を握って1975年12月、人民民主共和国を樹立した。こうしてベトナム、ラオスは1970年代、カンボジアは1990年代に、いちおう民族統一を成し遂げ、民族政権が成立した。
 経済建設については、ベトナム、カンボジア、ラオスとも当初、社会主義的経済を志向したが、ベトナムは1980年代、「ドイモイ」(刷新)の名において、ラオスは1980年代、「チンタナカーン・マイ」(新思考)の名においてそれぞれ改革路線をとり、市場経済化に乗り出した。カンボジアは内政が混乱し(ポル・ポト派の暴政)、2000年に入っても、なお本格的な経済開発の段階に至っていない。また民族文化の形成についてはどこでもなお遠い将来の課題とされている。[丸山静雄]
地域問題
第二は、インドシナという一つの地域全般にわたる、いわゆる地域問題である。地域問題とは、いかにして相互協力を通して域内の経済開発を進め、地域の平和と安定を図るかということで、要するにリージョナリズム(地域協力)の問題である。さいわい、ここにはメコン開発計画とASEAN(アセアン)(東南アジア諸国連合)がある。メコン川は中国のチベット自治区に源を発し、中国、ミャンマー、ラオス、タイ、カンボジア、ベトナム6か国の領域を流れて東海(南シナ海)に注ぐ世界第10位の大河で、年間、海に吐き出す水量(流出量)は日本の全河川のそれを上回る(メコンの流出量は約4750億立方メートル、日本の全河川の流出総量は約4500億立方メートル)。メコン川は多くの可能性を秘めた「眠れる巨人」で、国連は「メコン下流域総合開発計画」を作成して流域の総合開発に乗り出している。しかし長い戦乱で開発計画は停滞しがちである。ASEANは1967年8月、タイ、フィリピン、マレーシア、シンガポール、インドネシアの5か国によって設立され、その後、ブルネイ(1984年)、ベトナム(95年)、ラオス(97年)、ミャンマー(97年)、カンボジア(99年)が加盟し、さらに日本、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、EU(ヨーロッパ連合)が「拡大外相会議」のメンバーとして参加した。その後、さらに経済体質の強化を図るとともに、東南アジアの平和・自由・中立地帯化、ASEAN自由貿易地域(AFTA(アフタ))の創設、ASEAN地域フォーラムの設立を模索し、1995年12月の第5回首脳会議では東南アジア非核地帯条約に各国首脳が調印した。かくてASEANは小地域の経済協力の枠を越えて地域全体にわたる経済の拡大、安全保障、政治安定を目ざす「地域協議体」のような大きく、幅広い機構に発展した。[丸山静雄]
国際問題
第三は、こうした国内問題、地域問題と外部の大国勢力とのかかわりあい方の問題である。いってみれば国際関係をどう規定するかという問題であろう。
 第二次世界大戦後のインドシナの歴史をみると、軍部のクーデター、少数民族の反乱、少数派や地方勢力の抵抗、種族間の抗争、学生グループの反政府デモ、共産主義勢力のゲリラ活動、社会主義革命(ベトナム、ラオス、カンボジア)、国境紛争(ベトナム・カンボジア間、カンボジア・タイ間、ラオス・タイ間、ビルマ・タイ間、ビルマ・中国間、中国・ベトナム間。ビルマは現在のミャンマー)、大国の直接的介入(インドシナ戦争、ベトナム戦争)、難民の流出と、騒乱のやむときがなかった。しかも、それらは互いに絡み合って複雑だった。アジア冷戦の「牧場(まきば)」だったからである。
 冷戦はインドシナをその渦中に置いた。アメリカはドルと爆弾をもって、さらに二国間、多国間の軍事同盟(SEATO=東南アジア条約機構)をもってここをアメリカ的秩序のなかに組み込もうとした。冷戦戦略である。ラオスを一例にとると、アメリカは1950年代末期、年間4500万ドルの援助を与えた。当時、ラオス政府の予算は3700万ドルだった。国家予算よりアメリカの援助資金が多かった。それで2万5000のラオス軍、1万の警察、3万の役人の給与、被服代、装備費がまかなわれた。ドル援助で輸入資金がだぶつく。そこで舗装道路も鉄道も冷蔵庫もないところに、キャデラック、ベンツ、フランスのワイン、香水、日本のナシ(二十世紀)、オーストラリアのブドウ、リンゴが次々に輸入される。ドル援助が保障されるので働く必要がない。だれも働かない。人口7万の首都ビエンチャンには貿易業者やヤミ業者が群れ、汚職、悪徳がはびこる。ドル援助は穏やかで敬虔(けいけん)、素朴な人たちの住む山里を足もとから揺さぶり、小なりといえども一つの国を「めちゃめちゃ」にしてしまった。
 アメリカの「共産主義封じ込め政策」が始動すると、まず道路がつくられる。道路はいずれも北行、北は北ベトナム、中国に向く。馬車の行く道がたちまち近代的舗装路に変わる。飛行場の滑走路をつないだようで、表面はさながら鏡、周囲のゴム林を映して路面は青く輝く。道路ができ上がると、アメリカの物資、資材、火砲、戦車、兵士が北に向かって送られてゆく。やがて冷戦戦略はベトナム戦争となって爆発した。[丸山静雄]

民族の実験地域

「インドシナ問題」としてとくに注目されるのは、インドシナ戦争(1946~54)、ラオスの内乱(1950年代末期からの左右両派の対立と抗争)、ベトナム戦争であった。ベトナムの解放と統一後はインドシナ難民(ベトナムからの華僑(かきょう)脱出を含む)、ベトナム・カンボジア戦争、中国・ベトナム戦争、カンボジア問題であろう。カンボジア問題とは、ポル・ポト派の悪政(住民の大量移住、強制労働、虐殺)をどのようにして正し、いかにしてカンボジアを統一し、そこに民主的な政府を樹立し、公正で豊かな社会を組み立て、平和で安定した社会環境をつくりあげるかに帰着する。
 新しく、大きな課題として登場したのは市場原理の導入による工業化・近代化の試みである。これはベトナム、ラオスでは当初、ある程度の成果をあげた。周辺環境も幸いした。ベトナム戦争が終わって四半世紀、時が敵対、憎悪、不信の感情をやわらげ、孤立から開放へと窓を開け、協力の道を互いにみいだすようになったからである。たとえば米越(アメリカ・ベトナム)関係は1995年7月、中越関係は1991年11月、韓越関係は92年、日越関係は1973年、それぞれ国交を修復、ASEANは1995年7月、AFTAは96年1月、APEC(アジア太平洋経済協力)は98年11月、それぞれベトナムを迎え入れた。ラオスは、こうした大勢にほぼならったが、カンボジアは取り残されている。
 中国とベトナムを結ぶ中越鉄道(ドンダン―凭祥(ピンシャン)間、ラオカイ―山腰(シャンヤオ)間の2線)は1996年2月、17年ぶりに再開、ラオスとタイをつなぐ「ミタバブ橋」(友好橋。ビエンチャン―ノンカイ間)は1994年4月完成した。ASEANはベトナム戦争におけるベトナムの勝利をみて、「大ベトナム」への防壁として構想された反共ブロックであったが、当のベトナム、ラオスは社会主義経済から市場型経済に転進し、ASEANはイデオロギーを越えて、平和・自由・中立・非核地帯を目ざすほどに変貌(へんぼう)した。
 こうした地域環境の改善を受けて経済開発は推進され、ベトナムは「ベトナム型社会主義的市場経済」、ラオスは「ラオス型社会主義的市場経済」の建設を志向した。元来、市場経済化とは十分な資本(外資、外国援助)によって資本主義的経済成長を図ろうとするものであった。経済成長を急げば急ぐほど外国資本への依存度は高まる。それは経済や社会の資本主義化を招き、権力の腐敗、富の偏在、社会の格差を生みやすい。「ドイモイ」においてベトナムは、ベトナム的手法によって経済成長と社会的公正との調和を図ろうとし、ラオスは「チンタナカーン・マイ」というラオス的手法によって開発と公正とのバランスを得ようとした。「ベトナム的手法」「ラオス的手法」とは、共産党の指導性を生かしつつ民間部門(私企業)を支援し、公共部門と民間部門の共存を図ろうとするもののようであった。しかし経済は非情である。開発が進むにつれて、外資の影響力が強まり、資本主義的経営が色濃く表に出てくる。
 かつてインドシナの戦争、紛争(ベトナム戦争、ラオス内戦)では、現地民族は大国援助と大国介入を極度に嫌い、自主・独立を願い、それを貫いた。それが戦争の勝利であり、民族の独立であった。しかし、これらの戦争後の経済開発にあたっては当初から外資を求め、外資の援助を借りようとする。地域協力計画(メコン開発、ASEAN)でも外資の参加、協力はむしろ前提条件となっている。
 外資依存へのとうとうたる流れのなかで、民族の個性をどこまで主張しうるのか、その余地があるのか、開発と公正をいかにして調和させるかは、1950年代、経済開発が国家計画の主題とされて以来の古い課題であったが、新しい緊急の課題でもあった。いま、この課題はインドシナで実験されているのである。これはナショナリズムと民主主義と社会主義の問題であった。
 インドシナ地域の民族に解放と独立と統一をもたらし、ある程度の経済開発を可能にしたものはナショナリズムであった。それら諸国で、ともかく人間的生活と、格差の少ない社会をつくりあげた原動力は民主主義と社会主義であった。その意味でナショナリズムと民主主義と社会主義はこれまでこの地域を動かしてきた最大のエネルギーであったといえる。しかしこれらは、将来も変革のエネルギーとなりうるのか、いま、それが試されている。[丸山静雄]
『真保潤一郎著『ベトナム現代史』(1968・春秋社) ▽ジョルジュ・セデス著、辛島昇・内田晶子・桜井由躬雄訳『インドシナ文明史』(1969・みすず書房) ▽石井米雄著『世界の歴史14 インドシナ文明の世界』(1977・講談社) ▽丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社) ▽丸山静雄著『アジアが燃えた日々――「民族独立」50年のドラマ』(1992・ダイヤモンド社) ▽青山利勝著『ラオス――インドシナ緩衝国の肖像』(1995・中央公論社) ▽ナヤン・チャンダ著、友田錫ほか訳『ブラザー・エネミー――サイゴン陥落後のインドシナ』(1999・めこん)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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