第2次大戦後,旧フランス領インドシナ(ベトナム,ラオス,カンボジア)に起こった対フランス(第1次。1946-54),対アメリカ(第2次。1960-75。ベトナム戦争とも呼ぶ)民族革命戦争の総称。1978年1月以降のベトナム・カンボジア戦争,79年のカンボジア内戦と中越戦争を第3次インドシナ戦争とすることもある。
19世紀末以来,上記3国はフランスの植民地下にあったが,第2次大戦中は日本軍が進駐していた。1945年3月,日本軍はクーデタによってフランス勢力を倒し,かわってベトナムのバオダイ帝,カンボジアのシアヌーク王,ラオスのシー・サワン・ウォン王を擁立して独立させた。同年8月日本軍が降伏するや,ベトナムでは反日抵抗組織ベトナム独立同盟会(ベトミン)が,インドシナ共産党の主導の下に各地でバオダイ政権からの奪権闘争を行い,9月2日ベトナム民主共和国を樹立した。一方,ラオスでは反仏組織ラオ・イッサラ(自由ラオス),カンボジアではソン・ゴク・タンSon Ngoc Tanh首相らが中心となって,3月の独立が再確認された。しかし9月に復帰したフランスは3国の独立を認めず,まずサイゴンの行政権を奪取し,翌46年南部ベトナムを切り離してコーチシナ共和国を成立させた。ベトミン系の南部行政委員会はただちに全面抗戦に入った。北部ベトナムでは,46年3月ベトナム・フランス暫定協定等により,ベトナム民主共和国のフランス連合内独立が認められたが,4月のダラト会議,7月のフォンテンブロー会議では,南部を含む全ベトナムの統一はフランスによって拒否された。11月ハイフォン港がフランス軍に砲撃され,次いで12月ハノイでフランス,ベトナム両軍が交戦した。20日臨時政府主席ホー・チ・ミンはここに対フランス全面抗戦を宣言した。
カンボジアでは45年10月,プノンペンに進駐したフランス軍が独立宣言を取り消したが,ソン・ゴク・タン派は北西部に逃れてクメール・イッサラ(自由クメール)を結成して,対仏抗戦を開始した。またラオスでは同月ペサラート首相らラオ・イッサラがラオス臨時政府を結成して,フランス軍との抗戦に入った。
反仏抗戦の第1段階は,フランス軍による都市占拠と,ベトナム人民軍の山岳部への撤退および長期持久体制の建設を特色とする。47年10月フランス軍の山地作戦が失敗し,第2段階の勢力均衡期が始まる。この間,49年12月人民軍は中越国境において中国解放軍と握手し,一方,フランスはアメリカの支持の下に49年3月エリゼ協定によってバオダイ・ベトナム国を成立させた。50年1月の人民軍のデルタ進攻によって,第3段階の反攻期が始まる。デルタ防衛のため,フランスは急速にアメリカの軍事援助に傾斜しだす。第4段階の総反攻期は53年末,解放区での土地改革の成功をまって開始された。54年5月,ボー・グエン・ザップの率いるベトナム軍は,ラオス連絡線上のディエンビエンフー要塞を陥落させた。フランス側の軍事努力は限界に達し,政治解決が急速に進捗した。7月21日,ジュネーブ会議は,(1)北緯17度線を境界として,南をバオダイ・ベトナム軍,北を民主共和国人民軍の集結地とする,(2)フランス軍は速やかに撤退する,(3)国際監視委員会の下に,56年7月統一選挙を行う,などを骨子とする平和条約を締結した。
カンボジアでは46年1月,フランス連合内での自治が許されたが,以後シアヌークはクメール・イッサラ,クメール抵抗派(ベトミン系)を攻撃するかたわら,フランスから軍事権,外交権を次々に奪還し,54年3月までに完全独立を達成した。
ラオスでは49年7月,フランス連合内での自治が許されたが,これを不満とするパテト・ラオ(ラオス人の国)はゲリラ戦に入ってフランス軍,ラオス王国政府軍と対抗した。54年ジュネーブ会議では,(1)ベトナム人民軍,フランス軍の撤退,(2)パテト・ラオ軍の北部2省集結,(3)総選挙による統一,が合意された。第1次インドシナ戦争の終結である。
ジュネーブ会議後17度線以南にはゴ・ディン・ジェム大統領の下にベトナム共和国(南ベトナム)が生まれ,以北にはホー・チ・ミン大統領の下にベトナム民主共和国(北ベトナム)が成立した。民主共和国ではインドシナ共産党の指導の下に,土地改革から合作社化へと急速な社会主義体制づくりが進められた。一方,ジェム大統領は民主共和国を中国,ソ連の衛星国とみなし,統一選挙を拒否してアメリカの軍事・経済援助に傾斜したため,両国は完全な対立関係に入った。しかし,南部メコン・デルタにおける土地改革の失敗や大統領一族の独裁体制は,農民,都市知識人の反発を買い,60年12月20日,アメリカ・ジェム権力打倒,民主主義の確立,農地改革などを綱領とする南ベトナム解放民族戦線が成立,政府軍との抗戦状態に入った。
またラオスでは57年11月,パテト・ラオを含めたプーマ連合政権が成立したが,58年8月,アメリカの支援の下に右派内閣が生まれ,内戦が再開した。60年8月にはコン・レ大尉のクーデタによってプーマ中立内閣が復活したが,右派軍の反撃を受け,ラオスは3派分裂の内戦状況にいたった。
ベトナムに代表される第2次インドシナ戦争は4期に分けられる。第1段階は特殊戦争といわれ,大量のアメリカの軍事援助を得た南ベトナム政府軍と北ベトナムの支援を得た解放戦線が交戦した時期であり,同時に民衆と解放戦線を切り離すために無数の戦略村がつくられた。しかし63年1月のアプバクの敗北により,政府軍,戦略村の無力が露呈され,米軍の直接介入による第2段階が始まる。この年,ジェム政権の仏教徒弾圧策により,諸都市に反政府運動が起こり,11月にはアメリカの支持を得た軍部がクーデタでジェム政府を倒した。以後米軍の介入は本格化し,67年末までには派遣兵力50万,韓国ほかの参戦国兵力5万に及んだ。また64年7~8月のトンキン湾事件を機に,米議会よりベトナム問題解決の特別権限を得たジョンソン大統領は,65年2月以降北ベトナム爆撃(北爆)を続行した。しかし3次にわたる大攻勢はいずれも失敗し,かえってベトナム人民の反米抵抗を強化した。このためアメリカ・政府軍の攻撃は残虐化し,いわゆる皆殺し戦争(ジェノサイド)の様相を呈した。これに対して65年段階から反米・反戦運動がアメリカを中心に世界的規模で広がった。北ベトナム軍の直接介入を特色とする第3段階は,68年1月の米軍ケサン基地への攻撃と,各主要都市一斉攻勢(テト攻勢)によって始まった。ジョンソン大統領はこれら敗勢と反戦運動に押されて,10月,北爆の全面停止を宣言した。こうして69年1月以降,アメリカ,南・北両政府,解放戦線の4者会議がパリで開催される一方,7月にはニクソン新大統領が米軍撤退,南ベトナム軍の強化を骨子とするグアム・ドクトリンを発表し,翌70年より本格撤兵を開始した。しかし米軍は同時に南ベトナム政府軍の後方安定のために,70年3月18日カンボジアのロン・ノルLon Nol首相に反シアヌーク・クーデタを起こさせ,親米的なクメール共和国を成立させた。ただちにアメリカ・南ベトナム軍はカンボジア領に入って解放軍の掃討作戦を展開し,一方,追われたシアヌークは左派勢力クメール・ルージュと連合してカンプチア統一戦線を結成し,各地でゲリラ活動に入った。また71年2月アメリカ・南ベトナム軍はラオス南部に出兵し,北ベトナムと解放戦線の連絡ルートを断とうとした。こうして戦線は一挙に全インドシナに拡大し,第4段階に入った。しかし3国でのアメリカ・政府軍の攻勢はいずれも失敗し,ラオス,カンボジアではかえって解放区の大拡張をみた。72年12月最後の軍事的圧力として米空軍によるハノイ,ハイフォン地区盲爆が試みられたが,これも国際世論の猛反発をかった。こうして73年1月米軍撤退を主内容とするパリ協定が調印された。以後米軍の火力援助を失った南ベトナム軍の劣勢は免れず,75年3月の西部要衝バンメトートの陥落を機に,南ベトナム軍内部の大崩壊が始まった。4月30日,ズオン・バン・ミン新大統領はサイゴンを包囲する解放勢力に無条件降伏し,南ベトナム臨時政府の主権が確定した。76年7月2日,南・北両国家は平和統一され,ベトナム社会主義共和国が生まれた。
一方,カンボジアでは75年初頭以来,プノンペンはクメール・ルージュを主体とする統一戦線軍に完全包囲されていたが,4月1日ロン・ノル大統領が亡命し,同17日解放勢力がプノンペンに入城して内戦が終了した。76年4月には民主カンボジアが成立した。またラオスではパテト・ラオ優位の状況のうちに,74年4月第3次連合政府が生まれ,以後右派の政治的敗北が明確になる。75年5月以降,各地の左派系民衆デモの高まりのうちに,右派幹部の多くはタイに亡命し,8月には行政の実権がパテト・ラオに移行した。12月ラオス人民民主共和国が成立し,一部の少数民族の反乱を除いて内戦が終了した。
第1次インドシナ戦争は,基本的には戦前の植民地体制に対する民族主義の勝利とすることができる。しかしそれは同時に伝統的支配者,植民地官吏,大地主などを中心とするブルジョア民族主義派と,共産党に主導され,労農階級を中心とする民族社会主義革命派との分裂をもたらした。ジュネーブ会議は独立闘争の勝利であるが,同時にこの民族の階級的対立を地理的に固定したものである。第2次インドシナ戦争は,この分裂が米中ソ対決によって増幅され,米軍の直接介入によってブルジョア民族主義派がその民族主義的正統性を失って壊滅したものといえよう。したがって,75年の解放は国内的には政治的・軍事的闘争の終焉,国外的にはアメリカの東南アジア政策の完全な失敗を意味するが,国内の経済的・社会的闘争は戦後にいたってはじめて顕在化する。76-79年には大量のベトナム人が難民として流出したり,放逐されたりし,カンボジアではポル・ポト政権によって民衆の大量虐殺が行われた。また植民地分割統治期の民族差別に基礎をおく国家間対立は,78年以来のベトナム・カンボジア戦争,79年以降のカンボジア内戦にいたった。さらに中ソ対決構造はこれを増幅させて,ついに79年の中国軍によるベトナム侵攻を呼んだ。
執筆者:桜井 由躬雄
ベトナム戦争を全面的に〈アメリカ化Americanization of the war in Vietnam〉した1965年当時,アメリカは世界史上最強と自負する軍事力を有していた。強大なドルの力と合わせて,アメリカ人の大多数は自国を万能と考えていた。しかしそのアメリカが,最高時年間200億ドル以上の戦費,56万の派遣軍,核兵器以外のあらゆる兵器を投じても勝利できず,撤退を強いられたのである。史上最強の国家と軍隊が敗北した。対外戦争における最初の敗北を経験したアメリカ人は,自信過剰から自信喪失の状態に陥り,70年代後半から模索の時代に入った。
アメリカが敗北した理由は,大別すれば二つあり,これらは同時に,ベトナム戦争の意義の一部でもある。一つは民族主義の力が実証されたことである。〈独立ほど貴いものはない〉とするホー・チ・ミン大統領に率いられ,ベトナムの人びとは侵略に粘り強く抵抗し続け勝利したのである。これに対してアメリカ側の大義は著しくあいまいだった。〈自由のため〉というアメリカ政府の介入目的は,戦争の実態によって裏切られ,アメリカ将兵が守るはずの〈自由ベトナム〉政府の統治は,自由とほど遠かった。戦争目的は最後には〈名誉ある撤退〉の実現へと,縮小低下したのだった。戦争の段階的拡大escalationにつれて,アメリカ人の多くは何のために戦うのかという疑問を強め,アメリカ政府はベトナム民族だけでなく,多くの自国民をも敵にまわさざるを得なかったのである。
二つめは,1965年以降,アメリカに広範な反戦運動が起こったことであり,多くの青年たちが徴兵拒否の行動をとった。米軍兵士の間にも反戦・厭戦の気運が強まり,脱走が相次ぎ,前線でも抗命・サボタージュが頻発した。政府への不信と批判が拡大する一方,社会的解体ともいうべき事態が進行した。黒人解放・女性解放の運動を代表として,〈アメリカ的生活様式American way of life〉を差別の体系として批判する人びとが増えていった。黒人たちはアメリカの歴史と現状を根底から批判し,他の少数民族や女性などの被差別者の運動を促す役目も果たした。女性たちもまた男性優位の社会に批判を強め,その批判は夫婦の役割にも及んだ。白人中産階級の若者たちからは,〈3寝室・芝生・2台の車〉が象徴する〈アメリカ的生活水準〉を戦争の根とみなす動きが生まれ,大人たちへの不信感が強まった。物質的な豊かさや快適さを拒む者は家庭や大学を離れ,心の豊かさ,〈愛と平和love and peace〉を求めて,街頭,田園,外国に移り住んだ。こうした若者たちは〈ヒッピーhippie〉とよばれた。以上の動きと連動して,伝統的な性道徳も弱まり,〈性革命〉ともいわれる性行動の自由化が急速に進んだ。長い間差別の対象だった同性愛者さえ,差別撤廃を叫んで街頭を行進し始めた。大義なき戦争,残酷な戦争の実態への批判は,日常の生活そのものにも向けられたのだった。こうした過程全体の終着点が,74年8月のニクソン大統領の事実上の解任,75年4月のベトナムにおける最終的な敗北,そして70年代後半に進行した家庭の解体現象である。
ベトナム民族の抵抗とアメリカ人の反戦運動を包み支えたのが,世界各地における世論の高まりだった。一戦争をめぐってこれほど国際世論が明白に示され,力を発揮した例は現代史に見いだせない。いうまでもなく国際世論は各国内での反戦運動とベトナム民族への支援に表現されたが,先進国の多くで社会的変革の動きをも誘発した。日本ではアメリカへの協力荷担の基盤である日米安保条約反対や大学批判の運動が高揚した。〈ベトナムに平和を!市民連合〉(略称〈ベ平連〉)を典型とする反戦市民運動が各地に生まれた。既成の政党や組織から独立した市民の運動は,戦争以外の問題でも無視できない発言権をもつようになった。フランスにおける1968年の〈五月革命〉は結局は敗北に終わったが,ベトナム戦争への反対を通じて自国社会の矛盾に気づいた学生や労働者の行動だった。いわゆる第三世界の諸国・諸民族の多くは,1966年1月の三大陸人民連帯会議,67年8月の中南米人民連帯会議が示したように,ベトナム民族の抵抗の成否に自らの運命がかかっているという認識を強め,〈第2,第3のベトナムを〉と,連帯の意思を表明した。以上にあげた動きのすべては,多様性をもちながら,ベトナム民族の抵抗に促されて,国内外の既成秩序に挑戦したという共通点をもっている。
社会主義指導国のソ連と中国もまた,ベトナムという鏡に照らされた。69年9月に死去したホー・チ・ミンはベトナム労働党に〈兄弟党の団結回復に貢献せよ〉と遺言した。中ソの対立はすでに論争の域をこえ,69年2月には国境で武力衝突を起こしていた。両国の援助がベトナム民族のたたかいに不可欠だったことは明らかである。しかし両国はベトナム援助をめぐっても非難の応酬を繰り返した。さらに両国は72年の2月と5月,ニクソン大統領を迎えいれた。ベトナムをめぐってはアメリカを敵としながらも,中ソ両国ともアメリカと大国としての利益を共有していることが明らかとなった。
ベトナム戦争はアメリカが各種の新兵器を大量に用いた点でも重要である。電子戦争,生化学戦争であり,皆殺しgenocideに加えて生態系破壊ecocideが企てられた。枯葉剤は自然環境だけでなく,人体にも長期にわたる害を及ぼした。二重体児はその代表であろう。被害は米軍兵士とその子どもにも及んだ。
アメリカは軍事,政治,道義で敗北しただけではなかった。71年8月の〈新経済政策〉は,ドルの価値の低落を認め,以後,アメリカ経済の混迷と資本主義経済の不安定が続いた。他方,〈ベトナム戦争の唯一の勝利者〉といわれたように,日本は米軍特需の増大をいわば跳躍台として高度成長をとげ,アメリカやアジアの市場に進出し,世界経済における地位を高めていった。
執筆者:清水 知久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インドシナ戦争は三つの顔をもっていた。第一はフランス側が旧植民地を回復しようとする植民地主義戦争である。第二はベトナム側からみてのもので、すでに独立を宣言し(1945年9月2日)新しい国家体制の整備を急ぎつつあった民族国家の主権と独立を守るための戦いであった。ベトナムがホー・チ・ミンの下にベトミン(ベトナム独立同盟)という民族連合戦線組織をつくり、社会主義国家を建設しつつ戦ったことである。第三は第二次世界大戦後の国際政治からみてのもので、インドシナ戦争は、米ソ対立がようやく冷戦の形を整えてくる時代の局地戦争であったことである。この局地戦争を、西側を代表して戦うのはフランスだったが、その背後にはアメリカがあり、アメリカは共産主義封じ込め政策の一環としてフランスに大量の兵器を送って支援した。しかし、それは共産主義勢力を硬化させ、冷戦を激化させることになった。
インドシナ戦争は三つの段階に分かれる。第1段階(1946年12月~47年12月)はフランス側の攻勢期、ベトナム側の守勢期(防御期)である。インドシナは太平洋戦争中、日本軍の支配下に置かれたが、日本の無条件降伏後、ポツダム会談の決定(45年8月2日)に基づいて、北緯16度線以北のベトナムの北半分を国民政府軍、同線以南のベトナムの南半分をイギリス連邦軍が占領したあと、フランスの管理に移された。フランスは兵力を増派して、植民地たるインドシナの早急な武力回復を図った。これは当然にベトナム側の反発を生んだ。ベトナムはすでにベトナム民主共和国の成立を主張していたからである。かくて両軍の武力衝突が始まり、フランス側は46年11月20日ハイフォンを砲撃、12月19日首都ハノイを攻撃した。力の足りないベトナム側はトンキン・デルタの主要地区から後退し、ベトバク地区の山岳地帯に拠(よ)り、もっぱらゲリラ戦によってフランス軍に対抗した。
ついで第2段階(1948年1月~50年9月)に移る。ベトナム側は徐々に力を蓄えて、ベトナム、フランスの戦力にバランスがとれる。均衡の段階である。やがて最後の第3段階(50年9月~54年7月)がくる。総反攻の段階である。ベトナム側は積極的攻勢に出てフランス側の陣地を次々に奪回し、ついにディエン・ビエン・フーにフランス軍を追い込み、降伏させた。54年5月7日である。かくて同年7月21日、ジュネーブでベトナム、ラオス、カンボジアにおける敵対行為の終止に関する協定(ジュネーブ協定)が締結され、フランス軍はインドシナからことごとく撤退し、フランスの植民地支配に終止符が打たれた。
1946年から54年に至る8年間の戦争で、フランスは最高時55万6000人の兵力を動員し、81億2000万ドルの戦費を使い、17万2000人の死傷者を出してインドシナから総退場した。アメリカはフランスに対し26億3500万ドルの援助を与えた。これはフランスの全戦費の30%余にあたる。これに対しベトナム(ベトナム民主共和国)は最高時29万1000人の兵力を第一線に配置し、総力をあげて戦い、勝利した。これによって、ベトナムはインドシナの大半を事実上コントロール下に入れた。ところがジュネーブ協定では、ベトナムは北緯17度線をもって二分され、ベトナム側(ベトナム民主共和国)は同線以北の支配権を得たにとどまり、同線以南はサイゴン政権(大統領はゴ・ジン・ジエム)の管轄下に入れられた。インドシナ戦争がフランスの植民地主義戦争、ベトナムの民族独立戦争だけであったならば、フランスの敗北、ベトナムの勝利によってベトナムの統一と独立は実現したであろう。そうならなかったのは、インドシナ戦争が冷戦下の局地戦争だったからであろう。アメリカがフランスの戦いにてこ入れし、ベトナムの支配力を北緯17度線以北に限定しようとし、さらに1954年9月SEATO(シアトー)(東南アジア条約機構)をつくって、その防衛範囲にインドシナを入れたのは、共産主義勢力のそれ以上の進出と膨張をあくまでも阻止するためであった。まさに共産主義封じ込め政策の展開である。それだけに、共産主義封じ込め政策を完成させるためには、アメリカは自らの力でこの政策を追求しなければならなかったし、ベトナムの統一を達成するためにはベトナムはもう一つの戦いが必要であった。それが次のベトナム戦争であった。
[丸山静雄]
『ボー・グェン・ザップ著、真保潤一郎訳『人民の戦争・人民の軍隊』(1965・弘文堂)』▽『エレン・ハマー著、河合伸訳『インドシナ現代史』(1970・みすず書房)』▽『ベルナール・B・ファル編、内山 敏訳『ホー・チミン語録』(1968・河出書房新社)』▽『丸山静雄著『インドシナ物語』(1981・講談社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
第二次世界大戦後,インドシナ3国(ベトナム,カンボジア,ラオス)の独立を求める勢力と,旧宗主国のフランスとの間に戦われた戦争。インドシナでは,1945年9月のベトナム民主共和国の独立宣言など,大戦終結直後から独立を求める動きが活発化したが,フランスはこれを容認せず,46年12月にはベトナム民主共和国との間で全面的な戦争となり,戦火はインドシナ全域に及んだ。フランスは,旧皇帝のバオダイを擁立してベトナム国を樹立し,民主共和国と対抗した。49年中華人民共和国が生まれると,この戦争は冷戦の東西対立に巻き込まれて長期化。冷戦に緊張緩和の動きが出た54年に,ディエンビエンフーでのフランス軍の敗北もあって,ジュネーヴ協定で停戦が実現しフランスの支配は終結した。この45~54年の戦争を第1次インドシナ戦争とし,ベトナム戦争がカンボジアにも波及した70~75年を第2次インドシナ戦争,78~79年のベトナム,カンボジア,中国の抗争を第3次インドシナ戦争という言い方もある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…東南アジア唯一の中国文化圏であり,その意味では東アジアの東南端ともいえる。第2次大戦前はフランスの植民地,戦時中は日本軍の進駐を経て,戦後対仏独立戦争(第1次インドシナ戦争)ののちも,国土はベトナム民主共和国とベトナム共和国に分断され,アメリカ軍の干渉によって15年にわたる第2次インドシナ戦争を戦わされたが,1976年統一され,単一の社会主義共和国を形成した。かつては越南と呼ばれた。…
…ベトナム戦争(1960‐75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。それまでの反戦運動に比し,ベトナム反戦運動は,質的にも量的にも,はるかに際だったものであった。…
…44年パリ解放後,臨時政府の国民経済相となり,また国際連合経済社会理事会などでも活動するが,戦後のインフレーション対策を巡ってド・ゴール首相と対立し,45年閣僚を辞任。第四共和政成立後は,とくにインドシナ戦争を批判して独自の潮流を形成,54年6月議会の圧倒的多数の信任を得て首相となり,ジュネーブ協定(7月21日調印)によりインドシナ戦争を終結させた。55年首相を辞任,56年モレ内閣の国務相となる。…
※「インドシナ戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新