改訂新版 世界大百科事典 「稲作文化」の意味・わかりやすい解説
稲作文化 (いなさくぶんか)
稲作文化とは長い歴史を通じて形づくられた稲作民族の伝統的な生活様式であり,稲作をめぐる技術・社会・文化・宗教の体系として組み立てられ,統合された文化の型をいう。地域的にはインド東部から東南アジア,中国南部をへて日本にいたる地域にほぼ共通にみられる文化の特色,とくにそのうちの基層文化を指していうことが多い。また,この文化の地域的なひろがりを稲作文化圏と呼ぶこともある。もちろん,稲作文化という明確な定義があるわけではなく,諸民族の稲作そのものにも技術段階の相違と多様性があり,狩猟・漁労をはじめ他の生業との兼ねあいもあるから,上記の諸地域に生活する民族のすべてを稲作文化の担い手というわけにはいかない。また,稲作以前の農耕様式,たとえばいも類やサゴヤシ栽培などから稲作への移行についても,必ずしもはっきりしているわけではない。したがって,稲作文化と呼ばれる民族文化の様式とその構成要素のすべてが,もっぱら稲作に由来するものであるかどうか,必ずしも明らかではない。したがって当面のところは,現にさかんに稲作を行っている上記の諸地域に特徴的な文化を,稲作文化としてとらえるほかはない。
焼畑陸稲栽培民の文化
稲作文化について考える場合には,山地にひろがっている焼畑陸稲栽培民の文化と平地に展開している水田稲作民の文化を区別し,比較検討をくわえながら,それぞれの文化の本質を明らかにするとともに,両者の関係を分析することが必要である。もちろん,一口に焼畑陸稲栽培民の文化(焼畑陸稲栽培文化)といっても,その分布はインド東部から東南アジア大陸部の山地および島嶼(とうしよ)部におよぶ広範なものであるから,簡単に概括することは困難である。しかし,彼らの文化に共通する特色がみられることも事実であるし,それが後に水田稲作文化として展開し,発達する以前の,より古層の文化を代表していることもほぼ認められるであろう。
彼らは乾季のさなかに山地斜面の森林を伐採し,十分に乾燥したことをたしかめてから火入れをする。その後,跡地を整理し,倒木などを利用して畑地を家族ごとに割りあててから,雨季の到来を待ち,掘棒を用いて畑地に穴をあけながら種もみをまいていく。その後,害鳥を追い,雑草を引くなどの管理をへて,やがて刈入れの時期を迎えることになる。石庖丁あるいは穂刈り鎌を用いて成熟した穂をつみ取り,刈稲を背負籠に入れて村に運ぶ。刈稲はそのまま米倉ないし大籠に収納され,必要に応じて脱穀,精米される。その際,竪杵,竪臼を使うことが多いが,ときには数人の女性が同時に使用するために横臼を用いることもある。
焼畑陸稲栽培民の特色は移動農耕の形式をとることである。2~3年ないし数年ごとに耕地を移動させるだけでなく,やがては集落そのものの移動を余儀なくされることになる。連作による地力の低下と,雨季の激しい降雨にともなう土壌浸食,および雑草の繁茂がその原因であるが,結局は森林の破壊が彼らの定着を困難にしているのである。
焼畑作業には多量の労働力を必要とするから,耕作期間を通じて,親族関係にある人びとを中心にグループをつくって村を離れ,出作り小屋に泊まりこんで共同生活を行うことが多く,やがてこれが核になって新たな村落の形成につながることも少なくない。また,限られた耕地をめぐって部族間に紛争のおこることも多く,これが強固な組織をもった部族社会の成立と内部における階級組織を生みだす原因ともなっている。貴族,戦士,平民,奴隷とでもいうべき階級がそれであるが,階級区分のあり方は民族,部族によって異なる。貴族と呼ばれるものは部族の首長ないし村長クラスをふくむ支配層であり,戦士はその名の通り戦闘に従事するもの,平民はもっぱら農耕に従事するものである。奴隷の多くはかつての戦いの捕虜およびその末裔である。ただし,これらの組織は地域ごとに相違があって一様ではない。また,北部ラオスに住む黒タイ族のように水田稲作民でありながら階級組織をもつものもある。彼らの住居は,上記のような社会状況を反映して,集合住宅に似た長大家屋,すなわちロングハウスをつくって共同生活をする場合もあり,大家屋に多数の家族人口を収容する場合もある。また,若者宿ないし集会所を中心に広場のまわりに住居を配置して環状集落を形づくる場合もあって,集団生活に適した形式をとっていることが多い。個別的な家族中心の生活よりも,集団的・防御的な村中心の生活が優先しているということができる。
焼畑農耕民の場合にも陸稲栽培の折り目ごとに農耕儀礼(稲作儀礼)が行われている。例えばボルネオのクニャー(ケンヤー)族の場合には,(1)焼畑地選定の際に卜占を行い,(2)開墾の日を決定するときにも卜占により,(3)もみまき直前に稲魂(いなだま)を招く儀礼があり,(4)稲の生長を祈って豚と鶏を供犠し,(5)そして最後に収穫儀礼を行うが,このときまず稲魂を宿した稲から刈り取ることが定められている。これらの儀礼を通じて見られる特色は,水田稲作民のそれに比べてより呪術的な色彩がつよく,儀礼のなかにさまざまな卜占が組みこまれていることである。
同じボルネオのイバン族の場合にもほぼ同様な儀礼が行われるが,その際稲魂の去来が人間の魂の輪廻と重ねあわされている点に特色がある。つまり,死者の魂は雲になって山にただよい,そこで稲のなかに入って稲魂になり,やがてそれが人間の魂として再生するというのである。稲作儀礼が同時に民族の霊魂観ととけあって,そこに独特の世界観が形づくられているのである。
水田稲作民の文化
水田稲作民の場合は,焼畑陸稲栽培民と比べて稲作の技術が高度化しているだけでなく,稲作をめぐる宗教儀礼とそのなかにひそむ霊魂観念が彼らの文化・社会のなかにより深く浸透しているように思われる。平野を占拠してそこに定住生活をいとなむにつれ,社会的・経済的な安定度が著しく増大したこと,広い地域におよぶ社会的・政治的な組織化が実現したことに伴う現象であろう。地方社会の形成とそのある程度の成熟を土台にして,民族ごとの国家形成への歩みがすすんだのである。この過程とともに,稲作文化もまた成熟,多様化していった。
もちろん,水田稲作民の社会もその初期の段階では焼畑陸稲栽培民とのあいだに顕著な相違はみられなかった。例えばボルネオ北部やマレー半島中部に住む民族のなかには,陸苗代をつくって苗を育て,掘棒そっくりの田植棒を用いて乱雑に苗をさし,手製の穂刈り鎌によって稲刈りをしているような水田稲作民もいる。彼らは谷間の湿地を利用して沼田をひらき,畦はつくらず,雑草をぬいた跡地を水田に転用している。そういう地域では刈稲をそのまま高倉に収め,その柱に鼠返しをつけ,刻み目をつけた丸太の梯子を利用している場合もあって,これらの点をみる限りでは焼畑陸稲栽培民の場合とほとんど見わけがつかない。
このような原初的な技術段階を出発点として,その後どのようにして稲作文化が成熟していったかを跡づけるためには,古代以降の日本の文献記録を分析することができるし,今日の生活様式としては東南アジアの平地諸民族の生活とその文化が参考になる。ここでは主としてタイ族,クメール族の事例にしたがって稲作文化の骨組みをさぐってみよう。
その場合にまず考えられることは,稲作のリズムと生活暦との相似である。クメール族についていえば,年の初め,つまり正月は今日のカレンダーの4月にあたる。4月を中にはさんで,その前後に,旧年を送り新年を迎えるさまざまな行事が配列されているのである。農事暦のうえからみても4月は農閑期にあたり,5月から始めて翌年の1,2月に終了する稲作作業の中休みの時期にあたっている。つまり,2月にはすべての稲刈り,脱穀作業を終え,収穫したもみを米倉に運んだあとで,村祠の祭りがあり,つづいて米倉の祭りがある。収穫感謝祭にあたるであろう。次に,新年になって間もなく5月には,吉日をえらんで再び村祠の祭りが行われる。前者が日本の秋祭にあたるならば後者は春祭に対応し,このとき稲の豊作を祈願するとともに村人の健康が祝われる。この祭りがすぎると,そろそろ水田の耕起,苗代づくり,田植といった作業の連鎖が始まる。
正月前後の行事はこれだけではない。2月の吉日を選んで行われる行事に鎮魂祭がある。この場合の鎮魂は,〈魂しずめ〉というより〈魂振り〉にあたり,1年間の稲作労働で疲労した村人の魂をよみがえらせるためのものである。村のなかに仮小屋をつくり,村の女性がこもごも神がかりとなって親族の魂を招きよせ,その上で酒を飲み踊りを踊って魂の蘇生を願う行事である。3月になると,すでに農作業はすべて終了しているので,村人の結婚式,成人式,新築儀礼などが行われ,しばしば葬式が行われる。彼らの習俗として複葬が普及しているので,その第2回目の葬式をこの時期に行うわけである。このように農閑期に各種の儀礼が集中しているのである。
このようにして4月,つまり正月を迎えると,月初めの1~3日が小休止の休日となっていて,このとき山登り行事がある。おそらくは日本の初山入りにあたる行事で,村々の男女が着飾って登山する。峰が二つにわかれ,雄山,雌山の形をした平野のなかの孤立峰に登り,若水をかけて新年を祝福する。次いで12,13,14日のうちの1日に仮装踊があるが,これは日本の歳神(としがみ)来訪の行事と似ている。7人1組となって男性は女装,女性は男装して村の家々を訪問する行事である。この行事が古来の元日(16日)の直前に行われ,その後16日から22日にいたる大休止の休日を迎えることになる。この時期には正月を祝う数々の行事が行われる。たとえば球投げ,立杵踊,綱引きなどが行われ,日本の歌垣に似た行事もあるという。
以上が正月行事の数々であり,この時期をすごしたあとで5月の村祠の祭りを行い,つづいて新たな稲作作業がくりひろげられることについてはすでに述べた。
以上の各種行事を通じて注目されることがいくつかある。第1はそこに表現される神々の性格についてである。クメール族のあいだでは稲魂をめぐる折り目ごとの稲作儀礼と村の祖先神を祀る村祠の祭りが合体していることが注目されるが,彼らの意識では稲の神(稲魂),祖先の神,土地の神が同時に,同じ神格であるかのごとく祀られているのである。第2には農耕儀礼,とくに年ごとの稲作の始めに行われる鋤入れ式がその年の豊凶の卜占と予祝に結びつくだけでなく,同時に,国土と国民の安泰,繁栄の祀願と結びついて宮廷儀礼,国家儀礼に転化する傾向があることである。民俗行事が国家行事になっている。第3には,稲作という植物生命のリズムが農民における人生のリズムと類比されることによって,鎮魂ないし魂振りの呪術が村の文化に組みこまれていることである。この呪術的儀礼が宮廷儀礼のなかに取りこまれて,国王の即位式に転化している場合がある。日本の大嘗祭をこのように位置づけても誤りではないであろう。魂の再生についての稲作民族の伝統的な生命観,霊魂観に由来するものである。
神話についても同様である。稲作民族の習俗と伝承がそのなかに取りこまれているのである。例えばクメール族のあいだに伝えられている稲魂の逃走譚と日本の天の岩屋戸神話のあいだには驚くべき類似がみられるのである。この事実は,神話要素の伝播によって説明するにしろ,しないにしろ,そこに稲作民族の世界観の反映をみないわけにはいかないし,その底に稲作民族の生活の実感がよこたわっていることを否定することはできない。
山地から平地に展開した稲作民族が,まずは川ぞいの小盆地,小河谷平野を占拠して村をつくり,水田稲作を始める。最初は10戸,20戸の小集落をつくっていたものが,人口増加とともに数十,数百戸の大集落をつくり,朝市をはじめ,常設の店舗と市場をひらき,親族の連帯と地域社会の連合を手がかりとして村々をふくむ地方社会を形づくっていく。それが稲作にもとづく自律的な社会発展の型であり,国家形成の道すじであったとすれば,このような社会の進化過程の上に,上記のごとき稲作文化の諸要素が結びつくことによって,やがてそこに成熟した稲作文化の姿を見いだすことになるのである。
→イネ →照葉樹林文化 →農耕文化 →焼畑
執筆者:岩田 慶治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報