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稲作文化 いなさくぶんか

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

稲作文化
いなさくぶんか

イネを栽培する技術および形態と,イネに対する観念や儀礼,および人々の世界観全体をいう。現在,稲作は北ヨーロッパを除く世界各地で行なわれているが,歴史的には西アジアを除くアジア全域,および西太平洋島嶼部で,伝統的に稲作を生業の中心として文化が営まれてきた。稲作の起源についてはまだ定説はないが,中国やインドの遺跡から,約 7000年前頃にはすでに稲作の行なわれたとみられる痕跡が発見されており,栽培起源地と推定されている。栽培形態は大別して,焼畑農耕によるものと灌漑農耕によるものがある。焼畑は最も原始的な農法で,技術段階も低く,徐々に少なくなりつつあるが,主としてインドシナ,インドネシア,フィリピンなどで多く行なわれ,稲作のかたわら根茎作物も栽培している。灌漑による稲作は技術的にも生産量でも焼畑よりすぐれ,歴史的にも新しい。鋤耕によるもの (おもに東南アジア) と犂耕 (りこう) によるもの (おもにインド,中国,日本) に分けられる。労働形態は,機械化の進んだ日本などの地域を除いて,今日でも古来からの人間の労働が中心となっており,そのため合力組織が存在している。また社会組織は主として村落共同体を中心とし,特に灌漑耕作の場合,水利問題は特に村全体として組織されることが多いなど,共同のあり方は民族によって異なる。また稲作を通じて培われた観念や世界観も,稲魂信仰,播種儀礼,田植え儀礼,収穫儀礼 (→収穫祭 ) など一連の稲作儀礼のなかにさまざまな形で表わされ,各地に輪廻思想やアニミズム的な信仰を定着させてきた。

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世界大百科事典 第2版の解説

いなさくぶんか【稲作文化】

稲作文化とは長い歴史を通じて形づくられた稲作民族の伝統的な生活様式であり,稲作をめぐる技術・社会・文化・宗教の体系として組み立てられ,統合された文化の型をいう。地域的にはインド東部から東南アジア,中国南部をへて日本にいたる地域にほぼ共通にみられる文化の特色,とくにそのうちの基層文化を指していうことが多い。また,この文化の地域的なひろがりを稲作文化圏と呼ぶこともある。もちろん,稲作文化という明確な定義があるわけではなく,諸民族の稲作そのものにも技術段階の相違と多様性があり,狩猟・漁労をはじめ他の生業との兼ねあいもあるから,上記の諸地域に生活する民族のすべてを稲作文化の担い手というわけにはいかない。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

稲作文化
いなさくぶんか

稲作をめぐって展開される経済活動や社会様式、信仰や儀礼、生活態度などを意味する。稲の栽培は小麦とともに全世界の農業の中心になっている。全世界における米食民の比率は50%である。これはパンも食べている日本人も米食民とした計算の仕方である。小麦食の人口比率は約35%で、残りの15%は雑穀、いも類主食民である。全世界では小麦のほうが米より生産額は大きいが、小麦は飼料に使われているので、これらを主食とした人口比はこのようになった。
 栽培稲は植物学的に2種ある。その一つは東アジア原産の通常の稲であり、他の一つは西アフリカで栽培化されたグラベリマ稲である。グラベリマ稲は、栽培上では少しの浮稲(うきいね)型品種があるが、大部分は陸稲としてアフリカで案外広い地域でみられる。しかし農業上は他の主作である雑穀類より重要度は低い。したがってアフリカの在来農業、在来文化として、グラベリマ稲による稲作文化というものはほとんど認められず、グラベリマ稲はアフリカの雑穀文化のなかに位置している。
 東アジアで栽培化された普通の稲Oryza sativaは古くから、日本、朝鮮半島、中国(とくに華南)、東南アジア、インドおよびマダガスカルなどで農業上の主力となってきた。近世になってから、稲はそれより外部のエジプト、イタリア、アメリカ大陸などでも大規模に栽培されるようになって、稲は東アジアの極地的作物から全世界的な作物へとなりつつある。しかしこのように全世界的に稲作がおこっても、そこがつねに稲作文化地域とはならない。これを例えてみれば、日本では小麦の栽培とその加工食用は古くから普及し、そうめんのような他国に類のない細長い乾麺(かんめん)や、インスタントラーメンのような発明もしているが、日本は小麦文化の国とみることはできず、依然として稲作文化の国である。
 稲作文化の概念構成としては、特定地域の民族が古くから水稲作、米食をしており、神話のなかから登場し、多年の累積として農耕文化が水稲農業を中軸として展開し、他の文化要素とよく複合した場合に適用すべきであろう。この場合、農耕文化としては、稲の品種群の構成、栽培技術上の慣行、収穫、加工、貯蔵、さらに料理法などがまず基本的に指摘できる。さらに高次複合文化要素としては、民俗、儀礼などにおける稲のかかわり度の深さ、また水田稲作の生産、収奪などにかかわった社会体制、政治に複合した点まで考慮に入れる必要がある。このように稲作文化を水稲作によるものとし、陸稲作の場合を除外したのは、陸稲作は系譜的にみて重要な農耕文化層でなく、雑穀焼畑農耕、またはそれに続いた雑穀常畑農耕に属するものとみなすのが適当であるからである。
 さてこのように稲作文化を狭義的に規定して、その文化複合のある地域をみると、東アジアでもやや限られた地域にのみみいだされる。それは日本、朝鮮半島、中国の中部以南、タイ、フィリピン、マレーシア、ジャワおよびインドネシアの外領の一部、インドのアッサムの北東部およびミャンマー(ビルマ)と東ヒマラヤ中腹部の一部で、これらのみが稲作文化地帯である。中国の華北、台湾の先住民、インドネシアのハルマヘラ島は稲作文化の外になる。また非常に大きい稲作地帯であるインドのベンガル、ビハール、オリッサ、バングラデシュなどは、稲作文化としてはやや異なった地域であるので、その考察はあとで述べることにする。
 典型的な稲作文化を日本の弥生(やよい)時代や東南アジアのタイ、マレーシア、ジャワなどでみると、稲作文化の基本形として次のような様相がみられる。それはもちろん水田稲作で、現在はそのすべてが移植栽培の田植になっている。収穫は穂刈りが原形で、アッサム、ミャンマー、インドネシアなどでは穂刈り法が現在まで残ってきている。穂刈り用具は石包丁(日本の弥生時代、中国の江南で出土)やジャワの鉄刃をつけたアニアニのような道具が著しいが、いまでは鉄の刃をつけた鎌(かま)の使用例も多い。穂刈りは穂だけを切り取るのでなく、通常は穂に続く稈(かん)を20センチメートル以上つけて切り取り、稈の部分を束ねて結束し、そのまま天日乾燥し、輸送、貯蔵する。その輸送には、小束をさらに束ねて結び、その中に先端のとがった天秤棒(てんびんぼう)の先端を差し込んで担ぎ上げたり(アッサム、北タイ)、または頭上運搬をする(バリ島)。貯蔵倉庫は高床倉庫が原則であって、倉庫の中には、穂刈りして結束したものをそのまま積み上げるので、ふんわりとしか積み上げられず、したがって高床倉庫の容積は大きなものが必要になる。
 穂刈りでそのまま貯蔵する方式では、住居地内に人の住む家屋と別に、大きな高床倉庫をもつ必要が生じてくる。この高床倉庫は日本の弥生時代にあり、朝鮮半島では新羅(しらぎ)の家形土器のなかに出現する。中国では雲南省の昆明(こんめい)近くの前漢時代の石寨山(せきさいざん)出土の青銅器から、穂刈り結束した稲穂を頭上運搬し、高倉に収めていたことが明らかである。ジャワでは最近まで別棟の杭上(こうじょう)家屋型の稲倉が常用されており、また稲作文化圏の東端となるスラウェシ(セレベス)島のトラジャの高床穀倉は現存する最高の高床倉庫の建築物となっている。またアッサムでは住居は土間であるのに、稲籾(いねもみ)を収める倉庫は杭上家屋になっている。このように、穂刈り結束したものをそのまま収納する大形の高床倉庫の存在は、狭義の稲作文化の指標となる。しかし、穂刈りしても、根刈りしても、その粒を脱穀して籾の形にして貯蔵するようになると、容積が非常に少なくなるので、専用の大きな高床倉庫の必要性は少なくなってくる。そのため、日本でも中国でも東南アジアでも、現在はほとんどの地域で高床倉庫は消失してしまっている。
 狭義の稲作文化地帯の稲の品種群をみると、植物学的には非常に複雑であるが、ただ一つ簡単に指摘できる点がある。それはこの全地域に糯米(もちごめ)がみられ、3~5%が糯になっていることである。この点は、広大なインド平野部の稲作に糯が欠けていることと対照的である。糯の使用頻度は、ラオスおよびその近傍地域の、糯米専用地地帯で「おこわ」を常用する場合がある。しかし、その他の地域では低頻度で栽培され、その西端はネパールである。この低頻度で生産される糯米は、儀礼用(日本の餅(もち)、おこわ、中国の12月8日の臘八粥(ろうはちがゆ)など)や特殊加工用(中国の黄酒原料、東南アジアの竹筒でつくる飯ラーパチオウなど)に使用されている。
 高床倉庫に穂刈りを結束したまま貯蔵されたものを食べるのに、一つの方式が基礎形と考えられる。それは、穂刈りの束をいくつか、そのまま横長の木臼(きうす)に入れて、木の棒(竪杵(たてぎね))で搗(つ)き、一行程で脱穀と籾摺(もみす)りをする方法である。この横長の木臼はいわゆる横臼で、日本では『古事記』の応神(おうじん)記に横臼の字があり、中国ではミャオ族の説話のなかに登場する。ジャワでは最近までこの方法が用いられた。こうしてできた玄米は、風選してから普通の木臼に入れてふたたび搗くと精白米となり、料理の準備ができたことになる。
 土器はあっても金属製の鍋(なべ)がない段階では、白米から飯をつくることは簡単ではない。いまの日本のように初めから適量の水で煮立てて飯をつくる炊き干し法では土器が焦げ付きやすく、その消耗が大きくなる。土器では粥か、あるいは多量の水で白米をゆで、湯を捨ててから少し蒸す(湯取り法)、あるいはざるに入れてさらに蒸す(二度飯法)によることになる。これらの製飯法は稲作文化地帯にはいずれかがみられるが、最近は炊き干し法が多くの場所で普及しつつある。
 米は飯にする粒食以外に、いろいろな料理法がある。白米を一夜水に浸し、摺臼でひくとマッシュ状の粢(しとぎ)となり、それを加熱加工するといろいろの形の食品となる。この粢型の料理法は狭義の稲作文化地帯のほとんど全地域に、多少の差はあってもみられる。また未熟穂(おもに糯を用いる)を収穫し、籾のまま加熱してから臼で搗(つ)いてつくる焼き米は日本、東南アジア、インド北東部、ヒマラヤ地域にある。
 以上のように狭義の稲作文化は基本的な複合の共通性のうえに、社会的に上位の複合をした文化現象がいろいろある。日本、中国南部のタイ族や一部の少数民族、東南アジア(ベトナムを除く)、ミャンマーなどでは、農民の住居は杭上家屋または高床家屋になっている。また稲作に伴う儀礼が非常に多様に展開しており、日本の神社の祭礼のほとんどは稲作儀礼に起源している。また稲作農業は、これら地域の社会体制や政治を基本的に規制する構造をとっている。
 インドのベンガル、アッサムの西半分、バングラデシュ、およびビハール、オリッサ、タミル・ナド、ケララなどは非常に大きい稲作地帯であるが、そこの文化をみると、狭義の稲作文化の要素の多くが欠けている。この地域で共通にみられることは、稲作が小麦文化の影響を強く受けていることである。インドには稲の高倉はなく、脱穀はスレッシング・フロア(脱穀床)の上で牛を歩かせ、そのひづめで脱穀する。これは新石器以来の麦の脱穀法としてできたもので、インドでは稲にもその方法を使っている。精白は多分中国から伝播(でんぱ)した足踏み機を使っている。飯をつくるには、おもに湯取り法によっており、米の飯以外の料理法は例外を除いてほとんどみられない。稲作儀礼は少なく、社会体制も稲作の影響は少ない。
 このように、インドの稲作地帯に稲作文化があるとすれば、それは狭義の稲作文化とだいぶ異なったものである。しかしインド稲作文化は面積と人口からみて無視できない存在である。その文化史的解釈には二つある。一つは、インドでは稲作文化の周辺部に展開し、そのため稲作文化の多くの要素を欠除し、一方では麦文化の強い影響を受けた結果とみなすことである。もう一つの解釈は、狭義の東アジアの稲作文化の成立の前の、もう一つ古層の前期稲作文化というものがあって、インドはそれを代表するとの仮説である。この第二の仮説にたつと、中国にも非常に古い時代に、よく似た前期稲作文化の存在の推定ができる。この問題は考古学の分野に任すほかはない。[中尾佐助]
『上山春平他著『続照葉樹林文化』(中公新書) ▽佐々木高明著『稲作以前』(NHKブックス) ▽渡辺忠世著『稲の道』(NHKブックス) ▽中尾佐助・上山春平著『日本文化の系譜』(1982・徳間書店)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

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