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ウー・ヌ ウーヌ

百科事典マイペディアの解説

ウー・ヌ

ミャンマーの政治家。第2次大戦前はタキン・ヌーとも。1930年代からアウンサンとともにタキン党を組織し独立運動を指導,戦中親日派のバモー政権に参加,のち抗日活動に参加した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ウー・ヌ
U Nu

[生]1907.5.25. ワケマ
[没]1995.2.14. ヤンゴン
ビルマ (現ミャンマー) の政治家。 1929年ラングーン大学卒業後ビルマ独立の父アウン・サンらとともに反英独立運動に参加,40年入獄。第2次世界大戦中,ビルマに進攻した日本軍に釈放された。 43年バ・モー対日協力政権の外相,情報相となったが,まもなく日本軍の政策に失望,アウン・サンの反ファシスト組織に参加。戦後アウン・サンの暗殺に伴い反ファシスト人民自由連盟 AFPFL総裁。 48年ビルマ独立とともに初代首相。 58年 AFPFLが2派に分裂し,政権をネ・ウィン軍司令官に譲った。 60年 AFPFL清廉派 (連邦党) を率いて選挙に大勝,再び首相となった。 62年ネ・ウィンのクーデターで失脚。 69年タイに亡命。 70年民族解放統一戦線を結成,反政府闘争を展開したが,73年引退,インドに亡命。 80年に帰国し,反政府勢力の指導者の一人となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ウー・ヌ
うーぬ
U Nu
(1907―1995)

ビルマ(現ミャンマー)の政治家。下ビルマのミャウンミャ県生まれ。1925年ラングーン大学(現ヤンゴン大学)に入学。在学中に学生運動を指導。1937年ビルマ独立の父とよばれるアウンサンらとタキン党に入党、1940年反英活動のかどで2年間投獄される。1943年日本軍政下バー・モー政権の外相、翌1944年情報相に就任。1944年「反ファシスト人民自由連盟」(AFPFL)結成とともに副総裁となる。1947年同総裁となり、ビルマ独立に関するウー・ヌ‐アトリー協定に署名、1948年のビルマ独立とともに初代首相となる。国内では各種反乱に悩まされたが、外交面ではインドのネルーらと並び新興諸国連帯に活躍。1956年、1958年と二度にわたり下野、1960年三たび首相に復帰、中国・ビルマ国境条約締結に成功したが、1962年3月ネ・ウィン将軍のクーデターで失脚、1966年まで拘禁された。1969年以後ネ・ウィン軍政打倒のゲリラ活動を展開したが、1980年7月ネ・ウィン政権の恩赦を受けて投降した。文才にも優れた敬虔(けいけん)な仏教徒。[黒柳米司]

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20世紀西洋人名事典の解説

ウー・ヌ
U Nu


1907.5.25 -
ビルマの政治家。
元・ビルマ首相。
ミャウンミャ県ワーケマ生まれ。
ラングーン大学法学部に学ぶ。
1929年ラングーン大学文学部卒業後、高校教師となるが、法学部に再入学、在学中学生運動を指導。’37年タキン党入党、’40年反英活動で2年間投獄。日本軍のビルマ進出に伴い出獄、バー・モー政権の外相、情報相に就任、続いて「反ファシスト人民自由連盟」の副総裁に’47年総裁となり「ヌ・アトリー協定」を締結、’48年ビルマ独立と同時に初代首相に就任、2度にわたり下野、三たび首相に復帰するが’62年クーデターで逮捕’66年まで拘禁。’69年出国、’80年大統領の要請でインドより帰国。’88年マン・ウィン・マウン元大統領らとともに一党独裁の現政権に代わる暫定政権の樹立を宣言したが失敗。

出典|日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について | 情報

367日誕生日大事典の解説

ウー・ヌ

生年月日:1907年5月25日
ビルマの政治家
1995年没

出典|日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について | 情報

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