紀元前一千年紀、エトルリア(現イタリア中部)を中心に固有の言語をもち、独自の都市文化を発展させた民族。彼らはラセンナRasenna(ラスナRasna)と自称し、ローマ人にはエトルスキまたはトゥスキTusciとよばれ(トスカナという地方名はトゥスキに由来する)、ギリシア人にはチルセーノイTyrsenoi(チレーノイTyrrhenoi)と称された。前7~前6世紀に全盛期を迎えたが、前4世紀以降ローマに圧倒され、前90年までにローマ国家に併合された。彼らは、エトルリアをはじめカンパニアやポー川流域に多くの都市を建てており、これらの都市はたいてい独立自治の都市国家であった。エトルリアの主要12都市国家は連合を結成したが、全エトルリア人を統合する統一国家は形成されなかった。
彼らの都市そのものの遺跡は少ないが、おびただしい数の墓の遺跡が無数の副葬品とともに発見されており、彼らの歴史と文化を知るためのもっとも貴重な資料となっている。史料としては、ほかにギリシア、ローマの文献があり、さらにエトルリア語で記された銘文が現在1万点以上残されている。ただし、これらの銘文の大部分は(その文字はギリシア文字の変種なので完全に読めるのであるが)確実には解明されていない。エトルリア語は、他の言語との近親関係が実証されておらず(少なくとも印欧語ではない)、他言語との比較によってこれを解明することはほとんど不可能であり、また対訳付きの大碑文は発見されていない。
エトルリア人が明確な一民族として登場するのは前8世紀以降である。彼らの起源については、おもにオリエント渡来説とイタリア土着民説とが対立してきたが、決着をみていない。最近ではむしろ彼らがイタリアの地で民族としていかに形成されたかが問題とされている。ともあれ前7世紀になると、従来のビッラノーバVillanova文化にかわって東方化様式文化がカエレCaereやタルクィニーTarquiniiなどティレニア海沿岸都市に現れた。いずれも後背地の鉱山(銅、鉛、鉄、銀)を開発し、豊かな耕地を開墾して、海外貿易に乗り出し、繁栄を築いた。やや遅れてウェイイVeii、ブルチVulci、クルーシウムClusium、ウォルシニーVolsiniiなどの、より内陸の都市も発展した。これらのエトルリア都市国家は、黎明(れいめい)期のローマに重大な影響を及ぼした。前7世紀末以来約100年間、ローマはエトルリア系の王に統治され、彼らによって都市が建設され、国制が整えられ、ラティウム随一の都市国家へと成長したのである。エトルリアの諸都市は他方で、カルタゴと組んで南イタリアのギリシア植民市に対抗した。エトルリア人は前540年の海戦で勝利を得たものの、前474年のクーマエ沖の海戦でギリシア軍に敗れ、以後ティレニア海の制海権を失い、彼らの諸都市は経済的停滞に陥っていった。同じころカンパニアを失い、エトルリア人はポー川流域に転進した。しかし北方からは前5世紀末以来ケルト人が侵入してきており、また中央ではローマが勢力を伸長していた。ローマは、まず前396年ウェイイを征服したあと、エトルリアの都市国家を次々に制圧し、そのほとんどを前3世紀中葉までに同盟国とした。前90年、同盟市戦争の勃発(ぼっぱつ)に際してエトルリア人はローマ市民権を得、その諸都市はローマの地方自治市となった。エトルリア語はまもなくラテン語にとってかわられた。しかし、彼らの宗教は多神教であったが、卜占(ぼくせん)術などその宗教的習俗はローマ帝政期にも保持されていたらしい。
エトルリアの諸都市国家は、初期の王政から前5世紀末までに共和政に移行し、政務官と元老院とが政治の実権を握った。支配的貴族の下に一般自由民のほか、従属民や奴隷がいた。下層民は共和政後期にしばしば反乱を企て、しだいに政治的権利を獲得していった。エトルリアでは女性の地位が高く、彼女らは男性とともに宴会や競技会に出席した。とはいえ、女性には参政権はなかった。エトルリア人は、ローマが直接ギリシア文化に接する前にこれを吸収し、初期イタリア諸民族を文明化した。都市の建設方法、建築技術、排水・灌漑(かんがい)技術、政治的諸制度などのほか、彼らはイタリア諸民族に文字を伝えた。そしてエトルリア人の文化遺産はローマに受け継がれたのである。
西ローマ帝国の滅亡とともに、エトルリア人のことも忘れ去られていった。彼らの都市のあるものは完全に廃墟(はいきょ)と化し(ウェイイ、ブルチなど)、あるものは中世、近代を通じて現在まで生き続けている。たとえばペルージアPerugiaは、エトルリアの古代都市の上に現在の町が建っており、市内にはエトルリア時代の囲壁や門が残っている。タルクィニアTarquinia(タルクィニー)の郊外には、壁画のある墓が点在し、チェルベテリCerveteri(カエレ)には死者の町、すなわち多数の墓の遺跡が広がっている。現在なおエトルリア各地で発掘が行われており、遺跡は保存され、無数の出土品はローマ市内のビラ・ジュリア美術館やバチカン美術館、フィレンツェ考古博物館などに収納、展示されている。
[平田隆一]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… イタリア半島の中心的地位を築いたのは古代ローマ帝国であった。ローマは,イタリア半島内における先住民であるエトルリア人と,北部イタリアに流入していたケルト人,ゲルマン人の文化を,南部一帯に広まっていたギリシアのそれと合体させ,イタリア半島における最初の統一国家をつくった。ここで古代ローマ帝国の行った最も重要なことは,ギリシア文明を中心とする地中海古代後期文明のすべてを総合したことである。…
…イタリア中央部のティレニア海側,テベレ川とアルノ川の間の地方の古名。鉱物(銅,鉛,鉄,銀)と肥沃な耕地に恵まれ,前1世紀初頭ローマに併合されるまでエトルリア人の活動の本拠地であった。エトルリア人はラセンナ(ラスナ)と自称し,ラテン語でエトルスキ(トゥスキ),ギリシア語でテュルセノイ(テュレノイ)と称され,ギリシア文化を範とした独自の文化を発展させて,前7,前6世紀に最盛期を迎え,ローマ人を含む他の古代イタリア諸民族に大きな影響を与えた。…
…その理由を知るためには,ローマと先進文化との接触の経緯を概観しなくてはならない。文化的にまったく素朴な段階にあった初期のローマはティベル(テベレ)川の対岸から北西方に地歩を占めるエトルリア人(エトルリア)の文化の多大な影響下にあった。前6世紀の王政末期,ローマを支配したのはエトルリア人の王であったほどである。…
※「エトルリア人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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