エトルリア美術
えとるりあびじゅつ
紀元前8世紀から前1世紀にかけて、イタリア中央部のエトルリアを中心に展開したエトルリア人の美術。エトルリア人は、ローマ支配以前のイタリア半島の諸民族のなかで政治、経済、文化の各面にわたりもっとも重要な役割を果たしたが、美術にも優れた能力を発揮し、ローマ、ひいては西ヨーロッパの造形美術文化に重要な貢献をした。彼らの起源は今日なお不明であるが、土着のビッラノーバ文化を継承し、さらに東方およびギリシアの高度な文化を取り入れ、独自の文明を形成したと考えられる。とくにギリシアからの影響を抜きにしては、エトルリアの美術は語れない。したがって、その歴史や評価を考えるうえで、ギリシア美術との関係はもっとも重要な問題である。エトルリア美術が全体として評価されるようになった18世紀にはその独創性が強調され、ギリシア美術よりも早い時代のものとさえ考えられた。しかし19世紀になると否定的に評価され、優れた作品はギリシア人の手になるか、その忠実なコピーだとみなされ、ギリシア美術の一部と考えられた。
20世紀に入って、ようやく、ギリシア美術とは異質な、ダイナミックで表現的なエトルリア美術固有の性格が判別され、評価されるようになった。1916年にベイオ(古名ウェイイ)から出土した『ベイオのアポロン像』のような傑作の発見や、近代の美意識の変化がそれを助けたといえる。
今日では、理想的人体表現を中心とするギリシア美術とは異なった、華麗であると同時に生命感と現実感にあふれ、また神秘的気分を漂わせたエトルリア美術の特質が広く認められている。それは、エトルリア人の気質、とりわけその宗教が反映したものといえよう。
こうしたギリシア美術との関係や他のイタリア古代民族との交流に加えて、エトルリア人の盛衰や各都市国家の強い独立性などのために、エトルリア美術は統一を欠き、その発展を連続的にとらえることは不可能である。そこで通常、ギリシア美術との対応による、次のような時代区分が行われている。(1)東方化様式期(前8世紀~前6世紀中葉)、(2)アルカイック期(前6世紀中葉~前5世紀中葉)、(3)クラシック期(前5世紀中葉~前4世紀末)、(4)ヘレニズム期(前4世紀末~前1世紀中葉)の四つの区分である。これらのうち、エトルリア美術がもっとも栄えたのはアルカイック期であり、その政治、経済的繁栄と軌を一にしている。古代ローマ人が用いた「エトルリア様式」signa tuscanicaということばも、アルカイック期の美術をさしていたと考えられる。次のクラシック期は、その性格が不明瞭(ふめいりょう)なために、中間期とよばれることもある。いわゆるギリシアの古典美術は、エトルリア人の政治的衰微と、その気質にあわなかったため、十分根づかなかった。これに対して、ヘレニズム期にはエトルリア美術の復興がみられるが、これは、ヘレニズム様式のもつ写実性とパトス的表現性がエトルリア人の造形感覚に共鳴したためである。エトルリアの美術品は日常的用途に応じた工芸品が多く、職人的性格が顕著であるため、美術家の名も伝わっておらず、『ベイオのアポロン像』の作者ともいわれる彫刻家ウルカVulcaは唯一の例外である。また墳墓の美術が大きな比重を占めるのもエトルリア美術の特徴で、これは、死者が遺骸(いがい)の安置された場所で生き続けるという、彼らの来世観によるものと考えられる。
[石鍋真澄]
エトルリア人は土木、建築に長じ、そのローマ人に与えた影響によって高く評価されてきた。ローマ人に都市建設を教えたのも彼らである。エトルリアの都市建設の代表例としては、ボローニャの近くのマルツァボット(古代名ミサノ)があげられるが、ここでは整然とした都市計画がみられる。一方、エトルリア建築の遺構は今日ごく断片的な形でしか残っていない。その代表はペルージアのマルツィア門、ボルテラのディアナ門やアーチ門などの城門である。これらにみられる迫持(せりもち)構造(アーチ構造)は東方からもたらされたと思われ、かつて強調されたエトルリア人のアーチ構造への貢献は年代的にはっきりしなくなっている。これに対して、失われたエトルリア建築の主力は神殿にあり、その数も多かったと考えられる。それらはギリシア神殿と違って背面には柱廊がなく、正面性が重んぜられ、また基台の上に建てられた。こうした特徴はローマの神殿建築に受け継がれている。またギリシアでは早くから放棄された、木造にテラコッタの装飾を用いる方法が、エトルリアの神殿では維持された。だがエトルリア建築でもっとも特徴的なのは墳墓である。岩をくりぬいて住宅を模した墓室をつくったり、切り石を積み上げて円形や方形の室を擬アーチや擬円蓋(えんがい)で覆った墳墓は、建築技術的にも、また失われた地上の建築を知る手掛りとしても重要である。
[石鍋真澄]
エトルリア人は彫刻の素材として凝灰岩や砂岩、アラバスターなど地元の石材を用い、ギリシア人が最高の素材と考えた大理石はほとんど使わなかった。だがエトルリア彫刻が優れているのは、これらの石材よりもテラコッタやブロンズにおいてであった。神殿の屋根に飾られていた『ベイオのアポロン像』や『夫妻像棺』、あるいは『カピトリーノの狼(おおかみ)』『キマイラ』『アリンガトーレ(演説者)』などエトルリア彫刻の最高傑作は、いずれもテラコッタかブロンズの作品である。これらの作品にみられるように、エトルリア彫刻はギリシアのそれと比べて、のびやかでダイナミックな表現、プロポーションをあまり気にかけず頭部に重きを置いた人物像、野生的生命力を感じさせる動物、写実とくに肖像への深い関心などを特徴としている。また彫刻も、墳墓美術が重きをなしていたこと、アルカイック期にエトルリア的精神に満ちた芸術性の高い傑作が多いこと、さらに『ブルータスの像』などヘレニズム期の優れた肖像の伝統がローマ人によって受け継がれたことも、特記すべきであろう。
[石鍋真澄]
エトルリア人は絵画装飾を好み、広く建物の装飾に用いていたと思われるが、今日残っているのは墳墓内の壁画だけである。それらはたいてい石壁に下地を施してフレスコ画法で描かれている。タルクィニアの壁画群は質量ともにぬきんでているが、キウシ、ベイオ、チェルベテリ、オルビエートなどでも発見され、年代も前7世紀から前2世紀にわたっている。けれども「鳥占い師の墓」や「狩りと釣りの墓」「牝獅子(めじし)の墓」などに残るタルクィニアの優れた絵画作品は、アルカイック期のものである。それらの壁画には宴席や競技、日常の情景などが生き生きと描かれ、神話主題はごくまれである。こうしたアルカイック期の明快でのびのびとした表現と比べると、ヘレニズム期の作例は神秘的色合いが濃く、冥府(めいふ)の神や鬼神が描かれるなど、来世観の変化を反映している。これらエトルリアの壁画は、それ自身の価値に加えて、今日失われてしまったギリシア絵画を知る手掛りとしても非常に重要である。
[石鍋真澄]
工芸はエトルリア人の得意としたところで、金銀細工、ブロンズ作品にとりわけ優れた作品が多い。装身具が墳墓から出土しているが、チェルベテリのレゴリーニ・ガラッシの墓から出土した黄金の留め金はその高い技術でとくに有名である。またブロンズ作品では『フィコローニのキスタ』を代表とする、キスタとよばれる婦人用の化粧道具、装身具入れや燭台(しょくだい)、鏡などに優れた作品が多い。また現代の美意識に強く訴えるブロンズの小像も、エトルリア人の創造性をよく伝えている。陶器ではブッケロとよばれる黒陶が名高い。
[石鍋真澄]
『三輪福松著『エトルリアの芸術』(1968・中央公論美術出版)』
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エトルリア美術 (エトルリアびじゅつ)
イタリア中部のエトルリア(現在のトスカナ地方にほぼ相当する)を中心とした,古代民族エトルリア人の美術活動およびその作品を指す。起源は前10世紀に始まるビラノーバ文化にある。青銅器時代から鉄器時代への転換期に出現したこの文化は,イタリア中部を中心に栄え,円錐形を上下に組み合わせた黒陶骨壺を伴出する土壙墓に特徴を有し,前700年以降のエトルリア文化と共通する本質的要素を有していることから原エトルリア文化と見なされている。
前7世紀末までのエトルリア美術は,東方化様式時代であり,アナトリア,北シリア,フェニキアの美術の影響が認められる。特に装身具などの青銅器や貴金属器が特徴的であり,陶器としてはカノポス型骨壺(人頭形蓋付き骨壺),薄手式ブッケロなどを有していた。スフィンクス,グリフォンなどの動物文,ロータス文,ロゼット文などの植物文にこの時代の東方的要素を見ることができる。この時代は,鉱物資源の開発やギリシアおよび東方との貿易によって経済基盤の確立した時代でもあり,ベイオ(ウェイイ),タルクイニア,チェルベテリ,それにブルチVulciなどの都市が発展し,豊かな副葬品を伴う墓(カンパーナの墓,レゴリーニ・ガラッシの墓など)が数多く造られた。またローマを中継地とする〈塩の道〉によって南イタリアのギリシア美術とも直接的な接触をもち,前7世紀後半から,コリント式陶器を模した陶器も製作されるようになった。ギリシア美術との接触は,タルクイニアで墓室壁画を生み,チェルベテリやウェトゥロニアで等身大彫刻を誕生させた。前6世紀に入るとギリシア美術の影響はさらに強くなり,前5世紀中ごろまでのアルカイク時代に,エトルリア美術はほぼ30年ほど遅れてギリシア美術の様式変遷を繰り返す。特に前6世紀後半からはイオニア地方の美術要素が濃厚に見られ,将来品としてのギリシア陶器が副葬品として数多く出土している。〈フランソアの壺〉をはじめとして,ヨーロッパの美術館に収蔵されているほとんどのギリシア陶器の優品は,エトルリア出土のものである。エトルリア出身の美術家で唯一名前の伝わるウルカは,前6世紀末に活躍した彫刻家(塑像)で,ベイオ出土のアポロン像は彼の作風を伝えていると考えられている。この時代のエトルリア美術は彩色塑像や青銅製の燭台をはじめとする装飾具に優れた水準を示し,金属製工芸品にはギリシアのそれを凌駕する作品も数多く認められる。ただしギリシアのごとく,社会制度,倫理,宗教観などが一致した,人間像中心の美術ではなく,貴族たちによって支えられた美術であるため,洗練性と地方性を有し,内在的様式展開の活力に欠ける美術であった。
前6世紀初頭に確立するエトルリア式神殿は高い石造基壇と豪華な彩色テラコッタ装飾を有する木造建築で,その発達した段階のタイプは,ローマの神殿建築にも影響を与えた。土木事業においても,石材を巧みに利用して城壁,城門,排水路などを建設し,前5世紀からはアーチも使用している。都市計画ではマルツァボットのごとく,ヒッポダモス式と言われる碁盤目状の街区を造り,社会制度の発展を反映している。またタルクイニアを中心とする墓は,壁画によって装飾され,宴会,競技,踊り,鳥占い,釣りなどを主題とする現世肯定の明るくおおらかな絵画であった(牝牛の墓,鳥占い師の墓など)。これらの墓はヒュポゲウム(地下石室墓)式であり,生前の住宅室内の空間を模したものもある。前6世紀末から前5世紀初頭はギリシアのアッティカ地方の美術が大きな影響力を有していた。それは壁画(〈豹の墓〉など)や塑像(ヘルメス像頭部)などに明確に見ることができる。
前5世紀前半,エトルリアは南イタリアに有していた領土を放棄し,ローマ以北の故地に撤退する。このため,マグナ・グラエキアとの直接の交流を失い,ギリシア美術の影響は弱まり間欠的となる。したがって,ギリシア古典期の美術の要素は少なくなり,経済的停滞とあいまって,エトルリアの各都市を中心にした地方化が進む。この時代は古典時代と呼ばれているが,統一的な様式としてエトルリア美術をとらえることは困難である。前4世紀に入ると,徐々にローマの勢力がエトルリアを圧迫し,その社会状況は美術のうえにも認められる。タルクイニアの〈船の墓〉や〈戦士の墓〉などのごとく,冥界のデーモン的存在が描出されるようになり,彫刻においても以前の活力は見られなくなる。しかし,アレッツォから出土したキマイラ像などのような青銅像,テラコッタ製肖像,石棺浮彫などには優れたものが多く,ヘレニズム時代の前4世紀末からは写実性に優れた作品が認められる。前3世紀以降エトルリアはローマの政治的支配を受けるが,なお文化的には独自性を有し,特に彫刻,建築に優れたものがある。それゆえに,ローマ美術の形成に大きな役割を果たすわけであるが,前2世紀末からは,ローマ美術の中に吸収されていく。
エトルリア美術は地中海地域で開花した多くの古代美術と同じく,約5世紀間にわたってギリシア美術の影響下に栄えた美術であった。しかし,イタリア中部という一定の閉鎖性をもつ地理的条件のゆえに,この地方と民族固有の要素を持ち続けた美術でもある。つまり,東方化時代の優れた装飾文,アルカイク時代の精妙な工芸品,それに神殿建築やアーチを用いた土木技術,前4世紀以後の写実主義,これらはローマ美術の形成に大きな影響を与え,その意味でギリシア美術とローマ美術の仲介の役割を果たしたのであった。
執筆者:青柳 正規
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「エトルリア美術」の意味・わかりやすい解説
エトルリア美術【エトルリアびじゅつ】
アルカイク期(前8―前5世紀)と古典期(前4―前1世紀)に分けられ,全般にギリシア,エジプトなどの他文化の影響が濃い。エトルリア人は,初め先住民ビラノーバ文化を受け継いだが,早くから優秀な建築・土木技術をもち,ボールトを用いた城砦(じょうさい),橋梁,水道などの巨石建築を残している。また墳墓製作にも独特の才能を示し,地下式の石室墳を種々作り,内部には装飾性の濃い壁画を施したものが多い。その中からは,精巧な細金細工やギリシアを模倣した陶器,あるいは黒く光沢のあるブッケロ式陶器などが出ている。彫刻では,テラコッタや砂岩の人像に写実的傾向をもつ秀作が多く,同様のすぐれた技能は青銅像にも見られ,後のローマ美術に及ぼした影響は大きい。
→関連項目カンピーリ|マリーニ
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エトルリア美術
エトルリアびじゅつ
Etruscan art
前8世紀頃中央イタリアの北部に現れたエトルリア人によって展開され,前2~1世紀ローマに吸収されるまで続いた美術。その特徴は,(1) イタリアに固有の伝統,(2) オリエント美術の影響,(3) ギリシア美術からの影響の3要素があり,ギリシア美術の地方化説と独創説の2説がある。現存作品には絵画,彫刻,金工,建築があり,多くは地下墳墓か聖域に出土し,チェルベテリ,タルクィニア,ブルチ,ベイオから発見されている。地下壁画の技法,主題にギリシアの影響が認められる。一般に故人の饗宴,スポーツなど,貴族の生活を描写。前4世紀以後,陽気な現実性は暗い冥界の表現に変る。彫刻は地方により石,青銅,塑造の別があり,石棺は周囲やふたに丸彫や浮彫がある。前6世紀中期までは東方的装飾傾向,前5世紀初めまではアルカイック的,その後,前4世紀までは擬古典の,前3世紀以後はヘレニズムの,特にギリシアの影響が支配的。後期に独特な肖像制作がなされ,やがてはローマ美術に受継がれていく特性が認められる。銅の豊かな同地方には,精巧な家具調度品が制作された。神殿建築はトスカナ式の円柱その他に独自な様式がみられる。
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世界大百科事典(旧版)内のエトルリア美術の言及
【イタリア美術】より
…これは原ローマ文化としてローマの芸術の底流に入ったに違いない。[エトルリア美術]
【ローマ美術】
前6世紀末ごろ,ローマ人はイタリアに住む他の民族を征服してローマ共和国を建てた。彼らは強力な政治的・軍事的組織をもち,世界支配の意志をもっていた。…
【ローマ美術】より
…本項では,ローマ美術を,古代ローマ人が支配した地域における美術活動と規定することとする。 前5世紀までのローマ美術は,[エトルリア美術]およびマグナ・グラエキアのギリシア美術の影響を強く受け,いまだ独自性を有しておらず,その活動も活発ではなかった。このような状況をストラボンは,〈昔のローマ人は,美しさに気を配ることはなく,より大きなもの,より必要なものに心を奪われた〉と記している。…
※「エトルリア美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」