イタリア南部,ティレニア海に面する州。面積1万3594km2,人口570万(2001)。州都はナポリ。アベリーノ,ベネベント,カゼルタ,ナポリ,サレルノの5県からなり,イスキア,プロチーダ,カプリの島々が属する。南イタリアで最も工業の発達した州として知られる。
気候は温暖で,年平均気温は沿岸部16℃,山間部8~14℃。年間降雨量は山間部2000mm,沿岸部800~1000mmで,秋・冬に多く夏は最少。紀元79年にポンペイ,ヘルクラネウム,スタビアエを死の町と化した活火山ベスビオ(1277m),死火山ロッカモンフィーナ(1005m),カンピ・フレグレイ(458m)などをもつ火山地帯で,地震が多発,1981年のそれは記憶に残る。
カンパニアの歴史は旧石器時代にさかのぼり,カプアには当時の遺跡がみられる。ギリシア植民都市としてクマエ(キュメ)が前8世紀に建設され,カプア,ノラなどとともに南下したエトルリア人の支配をうけた。前338年にローマの支配下に入り,市民権を与えられて完全にローマ化する。公共建築物,円形劇場,別荘,道路,橋,上水道が整備され,アウグストゥス,ティベリウス,ネロの諸皇帝がしばしば逗留。ローマ帝国崩壊後は,ランゴバルド族が侵入,12世紀中ごろにはノルマン人の支配下に入り,シチリア王国の一部となった。沿岸諸都市はシチリアや東方との交易により繁栄し,サレルノの医学校の発展,ナポリ大学創立(1224)など,ノルマン諸王の政策とあいまって黄金期を築いた。1442年にフランスのアンジュー家からスペインのアラゴン王家に支配が移ると,ナポリ王国はヨーロッパでも最も華やかな宮廷の一つとして,南イタリアのルネサンスが開花。両シチリア王国を経て,1860年イタリア王国に統一されたが,新国家建設のための重税と資本の流出などが,今日の南部問題の一因となっている。
美術面では,ローマ時代以前は,ギリシア,エトルリアと土着の文化が融合した陶器,テラコッタ,金細工,墳墓壁画がみられ,ローマ時代はポンペイ,ヘルクラネウムにその代表例がある。中世を通じてビザンティンとイスラム文化の影響がみられ,各地の聖堂はラテン十字形プランが多いが,古代の円柱,柱頭を用い,上部アーチはイスラム,ビザンティン様式が特徴である。壁画,写本挿絵は,ベネディクト修道院に継承されたビザンティンの様式を保つ。初期ルネサンス時代はカバリーニ,シモーネ・マルティーニらのローマ,トスカナ派の影響をうけた。ナポリがナポリ王国の首都となってからは,カンパニア美術もその流れに入った。
→メッツォジョルノ
執筆者:望月 一史
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イタリア南部の州。面積1万3595平方キロメートル、人口565万2492(2001国勢調査速報値)。ナポリ、サレルノ、カゼルタ、アベッリーノ、ベネベントの五つの県からなり、州都はナポリ。人口密度は同国第1位(1平方キロメートル当り415人)。アペニン山脈のティレニア海側斜面に位置し、面積の約85%は丘陵地と山地で占められる。ティレニア海には、ガエタ、ナポリ、サレルノ、ポリカストロという四つの湾がある。なかでもナポリ湾周辺には、カプリ島、イスキア島、ベスビオとカンピ・フレグレイの両火山地帯、ポンペイの遺跡、ソレントなどの景勝地があるほか、ポッツォーリからナポリを経てカステッラマーレ・ディ・スタビアに至る地帯はイタリア有数の臨海工業地帯となっており、製鉄、化学、機械、食品などの工業が展開している。またガリニャーノ川、ボルトゥルノ川、セーレ川沿いの海岸平野は豊かな農業地帯を形成し、とりわけ野菜、果実の栽培が盛んである。
[堺 憲一]
紀元前8世紀ギリシア人による海岸部での植民活動が始まり、前6世紀にはカプアが建設された。のちにこの地方の人々の総称となる「カンパニ」は、もとはこの「カプアの住民」を意味したといわれる。前4世紀ローマに併合。12~19世紀において、ノルマン、ホーエンシュタウフェン家、アンジュー家、スペインのアラゴン家、ブルボン家の支配を経たのち、1861年に新生イタリア王国に統一された。
[堺 憲一]
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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