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エマソン エマソンEmerson, Harrington

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

エマソン
エマソン
Emerson, Harrington

[生]1853.8.2. ニュージャージートレントン
[没]1931.5.23. ニューヨーク
アメリカ経営コンサルタント。 1875年ロイヤル・ババリアン・ポリテクニク卒業後,イタリアおよびギリシアの大学に学ぶ。 76~82年ネブラスカ大学現代言語学部長に就任。 82年以後は産業界に入り,アメリカ,メキシコカナダの産業プラントや鉱山の調査業務に従事。

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エマソン
エマソン
Emerson, Peter Henry

[生]1856.5.13.
[没]1936.5.12. コーンウォール,ファルマス
キューバ出身のイギリスの写真家。 1869年イギリスに渡り医学を修めたが,写真家に転向。絵画的写真を否定し自然主義理論に共鳴して,自然や生活をありのままに描写することを主張した。 89年公刊した『自然主義的写真』 Naturalistic Photographyは彼の主張を表明したものであるが,のちに自説を撤回し『自然主義的写真の死』を発表した。

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エマソン
エマソン
Emerson, Ralph Waldo

[生]1803.5.25. ボストン
[没]1882.4.27. マサチューセッツ,コンコード
アメリカの思想家,詩人。苦学してハーバード大学を卒業,牧師となったが,教会の形式主義に疑問を感じてその職を辞し,1832年にはヨーロッパを旅行,カーライルらと親交を結んだ。 34年以後は数回の講演旅行を除いてコンコードに隠棲,超絶主義運動の指導者として,思索と読書と著述の生活をおくった。

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デジタル大辞泉の解説

エマソン(Ralph Waldo Emerson)

[1803~1882]米国の詩人・思想家。神性を宿す自然の一部としての人間は、自然に従って生きるべきであるとする超越主義の代表者で、初期アメリカ哲学の確立者。著「自然論」「神学部講演」「アメリカの学者」など。エマーソン

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百科事典マイペディアの解説

エマソン

米国の思想家,詩人。父親を継いで牧師となったが懐疑を生じて辞任,ヨーロッパ旅行後はボストン北西のコンコード村で思索の生活を送る。汎神論象徴主義による《自然》(1836年)はトランセンデンタリズム運動のバイブルとなる。
→関連項目コンコード戸川秋骨フラーホイットマンホーソーン

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世界大百科事典 第2版の解説

エマソン【Ralph Waldo Emerson】

1803‐82
アメリカの思想家。ボストンに牧師の子として生まれ,1826年にハーバード大学を卒業,やがてボストン第二教会の牧師になる。しかし過去の〈死んだ形式〉に身動きもできぬ聖職者の日常に,元来〈形式そのものを異常なほどに嫌悪する〉彼は,しだいに懐疑をつのらせていった。32年秋ついに辞表を提出し,年末には初めてのヨーロッパ旅行に出発。辞職にあたって書かれた最後の説教〈主の晩餐〉は,自分の全存在をかけて行えないようなことなら,たとえキリストの遺志でも拒むという強い自立の決意を表明していて,以後形成されていくエマソンの思想の原点ともなっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

エマソン
えまそん
Ralph Waldo Emerson
(1803―1882)

アメリカの思想家、詩人。5月25日、ボストンの牧師の家に生まれる。1817年ハーバード大学に入学、さらに神学部大学院に進む。当時の日記から、彼が聖職を自分の進路に選んだ真意がわかる。「聖なる問題に関する最高級の推論は、ロックヒュームのような推論機械の所産というより、むしろ一種の道徳的想像力の成果だ。……わたしはキケロとともに〈無限にして広大なるもの〉を熱望する」。このように理知による推論の確実さよりも、想像力による超越を「熱望する」ことに、エマソン思想の原点はある。彼が1829年にボストン第二教会の牧師になりながら、早くも3年後に辞職を思い立つのも、日常の職務につきもののさまざまなしきたりの遵守が、「無限にして広大な」世界への参入の妨げと思えたからだろう。
 1832年の暮れから翌1833年秋までの初めてのヨーロッパ旅行は、思想家としてのエマソンの旅立ちでもあった。とくにパリの植物園に立ち寄ったとき、標本室に整然と並ぶ多種多様な生物たちを一望して、「どんなに醜怪、野蛮、あるいは美しい形態でも、それを眺める人間に内在する何かの属性の表現でないものは一つもない」(日記)と悟る。人間内部の多様さがそこにそっくり具象的な形で「表現」されているというわけだが、内部と外界とのこの「神秘的な関係」は、「無限にして広大なるもの」を熱望する精神が、いささかも妨げられずに世界に参入することを可能にする。1836年に世に出た代表作『自然論』は、この「熱望」の最初の理論化だった。超絶主義(超越主義、トランセンデンタリズム)ともよばれるこの思想を、エマソンは講演『アメリカの学者』(1837)と『神学部講演』(1838)、さらに『エッセイ第一集』(1841)で雄弁に展開し続けた。それは、近代国家に向けて限りない展望が開け始めた当時のアメリカの、精神風土の正確な表現でもあった。彼の周りには、個人の魂の限りなさ、神聖さを信じる思想家や文人が集まり、1836年秋には「超絶主義の会(トランセンデンタル・クラブ)」をつくって、機関誌『ダイアル』(1840~1844)を発行し、あるいはエマソン自身は不参加だったが、理想主義農場「ブルック・ファーム」(1841~1847)をつくって、思想の普及と実践に努めた。しかしエマソンの思想は『エッセイ第二集』(1844)のころから徐々に現実主義への傾斜を強め、とくにエッセイ『運命』(1853)では、「かつては積極的な力こそすべてと思い込んでいた。いまでは消極的な力、つまり状況が、残りの半分だとわかっている」と、明らかに自己修正を試みている。エマソンは、このような後半生の、いわば均衡のとれた思想を『代表的人物』(1850)や『イギリス国民性』(1856)に結実させ、「コンコードの哲人」として世間の尊敬を集めつつ、79歳の誕生日を目前にした1882年4月27日に、その充実した生涯の幕を閉じた。[酒本雅之]
『酒本雅之訳『エマソン論文集』全2冊(岩波文庫) ▽斎藤光著『エマソン』(1957・研究社出版)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内のエマソンの言及

【アメリカ文学】より

…W.C.ブライアントは大自然をたたえ,〈アメリカ詩の父〉となった。
[アメリカ・ルネサンス(19世紀中葉)]
 19世紀初頭のアメリカには,人間が生まれながらに有する善性を強調するユニテリアニズムが興ったが,そこから出発し,神秘主義とデモクラシー発展期の思潮とを融合させたところから,超越主義者(トランセンデンタリズム)と言われるエマソンが現れた。彼は形式に堕した教会を離れ,人間と宇宙の始源的・神秘的関係をもとめ,自然は霊界の象徴であり,言葉は自然の象徴であるとした。…

【トランセンデンタリズム】より

…アメリカの思想家R.W.エマソンとその周囲の文人,宗教家たちのロマン主義思想をいう。超越主義,超絶主義と訳す。…

【ユニテリアン】より

…とくにアメリカでは会衆派教会のなかで,ハーバード大学神学部を中心として一教派になるまで発展した。エマソンはもとユニテリアン派の牧師であり,その合理主義にあきたらずやめたが,ユニテリアンはアメリカ思想界における合理主義と人道主義の代表的系譜を形成してきた。現在でも公民権運動などに積極的であるが,教会としては約10万の小教派である。…

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